英雄凱歌

「よく、気がついてくれましたね」


 しばしの沈黙の後、マリアは言った。


「さすがは知勇兼備の名将と誉れ高い青薔薇の戦姫といったところでしょうか」


 ぱちぱちぱち、と手を叩く。これは褒められているのではない。弄られているのだ。グレイスは怒りのあまり顔が朱に染まったのを自覚した。


「わたしは自らのことを賢いと思ったことは一度もありませんよ。ただ、狂乱の女帝のあり方は貴女らしくない。学友としてそう思っただけです」


 学友として、というところについ力が籠もってしまう。そんな自分自身にも憤りを覚えながら、グレイスは続ける。


「わたしの知っているマリア様は何かをなそうとするときに途方もないことを思いつく人ではあったけれど、世俗の権利を得るために戦うような人ではなかった。マリア様は野心に囚われて変わってしまったのか。そうではない。マリア様は以前のマリア様と変わらず、余人には計り知れない何かをなそうとして、圧制者として振る舞うことにした――その可能性に思い至れば、あの手紙を読み解くことは簡単でした」


 マリアが真実、未来視の力を有していたとして、この大陸全てがめちゃくちゃになってしまうような未曾有の危機が起こることを予見したとするならば――その危機に立ち向かう唯一の方法が、自ら女帝として君臨することだとするならば――彼女は迷わず選ぶだろう。望んでもいない権力の座に就くことを。


「いつからだったのですか?」


 ややあって、グレイスは尋ねた。


「悪竜の復活を――あの大破壊を幻視し始めたのは、寄宿学校に身を寄せる少し前のことでした」


「……そんなに昔から」


「ええ。その頃には理杖の真実も、この身に始祖帝と同じ力が備わっていることも理解していましたが、それでもあの悲惨な光景を、未来の出来事と信じるには時間がかかりました。わたくし自身ですらそうだったのです。たとえ人に話したところで、信じてくれるはずもない。だからわたくしは一人で戦うことに決めたのです」


 ――そしてマリア様は今日に至るまで戦い続けたわけか。変わらず、たった一人で。


 グレイスは胸の奥底に湧き上がる黒い感情を抑え込むため、無言で手のひらを強く握りしめた。


「悪竜による大破壊を乗り切るために必要なのは、一にも二にも、強権的な指導者でした。しかし、残念ながら先帝にはそれだけの力はありませんでした。父の後継者たちも同じでした。自分の立場を守ることと他人の足を引っ張ることに汲々とするばかりで、あの大破壊に立ち向かう器を持つ者はただの一人もいませんでした。わたくしはだから、彼らとその後援者を一人の残らず権力の座から引きずり下ろさなければなりませんでした」


 だから、自らがその役を買って出た――そんな簡単は話ではない。


「もちろん、それだけでは足りません。強い軍隊と過酷な支配――そして、何よりも衆民の怨嗟。新時代の指導者に打ち倒されるために、わたくしは圧制者となる必要があったのです」


「新時代の指導者、ですか。マリア様ははじめからわたしをそんなものに仕立て上げるつもりで近づいてきたのですか……?」


「難しい問いですが、わたしが視たいくつかのにおいて、貴女が重要な役割を担っていたことは事実です」


 ぎり、と奥歯をかみしめる。その怒りに呼応するように、圧制者となった友は言う。


「さあ――わたくしを殺し、帝位を奪いなさい、不敗の戦姫よ。そして、新たな皇帝として人々を導き、やがて復活する悪竜に立ち向かうのです。この大陸を救う道は他にありません」


。マリア様は戦に敗れたのです。戦に敗れたマリア様が勝ったわたしに命令する道理はありません。直ちに降伏し、その地位をわたしに譲り渡してください。この大陸を救い、かつ、マリア様の命を救う道は、その一本です」


というわけですか? これほど多くの血を流して、今更平和裡な政権以降を謳ったところで誰も納得してくれませんよ」


「わたしが納得させます。必要なら剣を用いてでも。大陸に迫る危機から人々を守るために尽力したマリア様を殺して帝位をするなど、わたしにはそちらの方がよほど納得しがたい!」


 抑えきれない激情が、語尾からにじみ出てしまう。


 ――全てがマリア様の計画だったとしても、ここに至るまでわたしは本当に頑張ってきたのですよ。少しくらいご褒美があったって良いではありませんか!


 子供じみた怒声が喉元までせり上がってくる。


 マリアはそんなグレイスの心情を見透かしたように、いたずらっぽく微笑んだ。


 それが、マリアの最後の表情となった。


 突如としてグレイスとマリアの間に百合之峡谷騎士団の団長が割り込んできて、持っていた剣でマリアの心臓を深々と突き刺したのだ。


「貴様! 何をしている!」


「この邪知暴虐の女帝は除かねばなりません!」


 団長の叫びに呼応して、残る五人の男たちも駆け寄ってくる。


「我々に政治はわかりませぬ!」


 一人の男が、そう叫んでマリアの右腕を切り飛ばした。


「我々は戦女神の剣! 敵を切り、血で血を洗いて暮らしてきました!」


 一人の男が、今度はその反対の腕を切り飛ばす。


「けれども邪悪には!」


 右膝から下。


「人一倍敏感でありますれば!」


 左股。


「敏感でありますれば!」


 胴。


「奸智、滅すべし!」「巧言、砕くべし!」「弄舌、払うべし!」「悪逆、倒すべし!」「非道、糺すべし!」「邪帝、誅すべし!」


 屈強な男たちが叫ぶ度、マリアの身体はバラバラに切り刻まれていった。


「……一体どういうつもりだ?」


 突然の乱行を呆然と見つめていることしかできなかったグレイスだが、団長が切り落としたマリアの首が床を転がり、足下で動きを止めると、ようやくのことそう尋ねた。


「狂乱の女帝は、さも自分に未来を見通す力があるかのように振る舞って、戦女神を謀ろうとしていました。何の目的かはわかりませぬが、邪悪な企みがあることだけは疑いようがなく、緊急の措置として処断しました」


「馬鹿な! その力について先に言及したのはわたしの方だ」


「そうなるように仕向けられていたということでしょう。何しろ策を巡らすことには長けた女狐でありますれば」


 グレイスが発作的に剣の柄に手を掛けると、百合之峡谷騎士団の団長は梟のようなまなざしを虚空に向けて「仮に――」と呟いた。


「仮に狂乱の女帝に未来を見通す力があったとするならば、その存在自体が戦女神の誉れ高き戦歴への侮辱となります。生かしておくわけにはいきません」


「生きている価値がないのは、わたしと皇帝の会話を邪魔しないという誓いを破った貴様らの方ではないのか」


 団長が虚空を見上げたまま手にした剣を自らの首筋に当てると、残りの五人もそれに倣った。


「我ら一同、もとより死は覚悟しております。戦女神が命じるならば、疾く、我らの首を捧げましょう。しかし――願わくはこの戦の結末を見届けさせていただきたく」


 ダメだ。今すぐ死ね。グレイスはそう言いかけて、口をつぐんだ。


 首だけになって床に転がったマリアが、それでもなお微笑んでいることに気がついたのだ。


 それは全てをやり遂げた者だけができる、会心の微笑みだった。


 ――これで、悪竜に勝つ算段は立ちました。あとはよろしくお願いしますね。グレイス。


 マリアがグレイスの心の内でそう囁く。


 ――結局わたしは最初から最後まで、貴女の思い描く未来を作るための手駒に過ぎなかったのですか?


 グレイスは友の首を拾い上げて、そう尋ねた。もちろん、首は何も答えない。かつてマリアは『わたくし、貴女とならば侮ることとも侮られることとも無縁のお付き合いができると思っていましたのに!』と言って怒ったが、今となってはそれはこちらの台詞だと恨み言の一つも言いたくなる。


 一方でグレイスは理解していた。圧倒的な力を持つマリアが、この大陸でたった一人、グレイスだけは対等の友だと思っていたからこそ、未来を託すことに決めたのであろうということを。


 ――でも、本当にこれで良かったのですか?


 人々はマリアの想いを知らない。知らずに、マリアを狂乱の女帝と畏れ、憎むのだ。今までも、これからも。


 そんな人々のために、死を賭す必要があったのか。貴女こそ、悪竜など権力に目が眩んだ連中に任せて、南方諸島自治都市連盟にでも亡命してくれば良かったのではないか。


 マリアが思い描いた、マリアのいない未来――グレイスにとっては受け入れなければならない、されど受け入れがたい未来――。


 ――グレイス、お願い。


 ――わかっています。


 グレイスは、友の首にこくりとうなずく。


 誰も友の真意を理解しなかった。それでも友はこの大陸とこの大陸に住まう人々を愛した。だからグレイスはやるべきことをやることにする。


「死を猶予します。自らの罪を忘れないように」


 一万回殺しても足りない狂った部下たちにそう告げると、彼女は学友の首を手に抱いたまま、帝都を一望できるバルコニーへと出る。復讐は必ず果たす。だが、今はそのときではない。


「我が名はグレイス・ブルーローズ! 狂乱の女帝ことマリア・ゴールデンフリースの首はこのとおり胴体から切り離された! これ以上の抵抗は無意味である! 帝国軍は直ちに武器を捨てよ! 軍法に則り降伏するならば寛大な処置を約束する! 繰り返す! 我が名はグレイス・ブルーローズだ!」


 明け方の街に向けて、グレイスはあらん限りの声を張り上げる。何度も、何度も、喉が嗄れきってしまうまで、グレイスは叫び続けた。

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