6-2.

 カードゲームで上手くやるには、まずは勝ち筋を決めることだ。

 ポーカ、ビッグ・2、ブラックジャック。初心者は『幸運』をアテにして、キングのために保険札インシュアランスを捨てる。それで大損をかましても、肩をすくめてまた大勝ちを狙いに行く。まったくいいカモだ。

 

 彼に言わせてみれば、ディーラーが寄越してきたカードを表にした時点でゲームは終わっている。

 今ならクラブの4よりスペードの9を捨ててフラッシュを狙う方が勝てる、ストレートには親に残った7があと2枚しかない――目的があれば探すカードは決まっている。香港にいたころから記憶力にも頭の回転にも自信は無かったが、何度も繰り返したせいで役と期待値は嫌でも覚えた。

 今では無数に思える選択肢が、初めの手札を見ればわずか数種類に絞られる。懐具合まで考慮したら、もはや考える余地など万に一つも残っていない。

 シーフを初めて見たのはソ連からの弾薬を運んでいるときだったが、そのときから、あの男は勝負に出てる顔をしていた。勝ち筋のためならエースのワンペアをためらいなく捨てるやつの顔だ。


 ジェンの死を彼が伝えると、シーフは「残念だった」と言った。

「赤いガレアスの女がやったらしい。2号機も単騎で倒されたとか」

「あいつはまともに戦いすぎたんだ。RAM相手に常識は通用しない」

「きみはあまり残念そうに見えんな」

「まさか。優秀な男だった。弾薬ひとつ取ってもあいつが居なければままならなかっただろう」

 冬だというのに部屋は蒸し暑く、針の落ちたレコードプレイヤーからは英語のカントリーミュージックがずっと流れていた。


 今も、シーフは初めて会ったときと同じ顔をしている。

「いい音楽だな」

 シーフがこちらを見たので、男は回るレコードを指した。

「うん?」

「いつも日本語だった」

「ああ。香港じゃ価格を安く抑えるために大量購入していた。こいつも第3輸送分のおまけだ」


 融けて玉になったはんだがコロコロと机を転がり、鉛のにおいが漂う。

 男が黙っていると、シーフはまた机に向かって、電子工作を始めた。

 さっきからシーフはコンピュータの筐体をいじっている。

 机に載った、外装もろくに付いてない基板とモニタリングディスプレイだけのマシンは、戦中の青森でよく見たジャンク品に似ていた。ただ、不格好なICがVLSIチップに変わっただけで。

 だが、こんな裸の基板のデコレーションケーキでも男の人生が4回あっても足りないほどの金がかかっている。


「それかい? 例の――」

「ソ連が試作した光コンピューティングマシンだ。ヨッフェのお下がりだな」

 シーフは舌打ちした。

「B‐Mインターフェースの運用データを15年分も提供してやって、手切れ金がこいつだけとは」

「不満か」

「どのみち時間が無い。下手な物を寄越してくるよりはマシだった」


 電源用のジャックを替えたところで、シーフはコーヒーを淹れるように言ってきた。

 男がマグカップを持ってくると、シーフはレコードプレイヤーの前で遠い目をしていた。歌詞はよく分からないが、また故郷を歌うものなのだろう。

 この男は、いつも故郷を求めている。

 それでソ連に帰ったらどうだ、と言うと「あれは違う」と忌々しそうに答えるのが常だった。


「こちらにも光コンピューティング技術があったのは僥倖だった」

 シーフが手を伸ばしてくる。マグカップを握らせてやると、彼はひと口で飲みきった。

「普通のコンピュータじゃダメだったのか?」

「ダメではないが従来型では発熱も消費電力も大きすぎて、携帯できない」

「こっちも大した違いはないように見えるがね」

「まあ、根幹の原理はCDの読み取り機と変わらん。まともな実用には回析格子の精度と電光変調器の小型化が問題というだけでな」


 空になったマグカップを渡され、男は部屋を出た。

 最近のシーフは焦っている。ただし彼を動かしているのは不安ではなく期待だ。

 あのコンピュータの使い道は聞かされた。途方もない夢物語に聞こえたが、冗談とも思えなかった。何より、その成果が目の前にある。


「少佐どの」

 廊下の向こうから軍服の女が歩いてきた。手に持ったトレーに紅茶とジャムの瓶が載っている。

「……シーフはたった今、コーヒーを飲まれたところだ」

「あら。どうしましょう」

「執務室が空いている。どうせ気を利かせて勝手に淹れた茶なのだろう?」

 女は恥ずかしそうに微笑んだ。

 この女は馬賊の前は開業医をしていたらしく、不用意に動いてしまうところがある。シーフも男も感謝しないのに、物好きなやつだと思う。


「どうでしょう? 上手く機能しそうですか」

 無理やり座らせた来客用の椅子で、女は居心地悪そうに身体を揺らした。

「分からん」

「補佐をなさっているのに?」

「彼は完璧主義なんだ。素人の我々に触らせるつもりはないよ」

 男はちらりと女の手を見た。左手に指輪があった。

「貴様、国元には帰らないのか」

「ええ。もう少しばかり、お給金をいただきたくて」

「ルーブリ支払いだったな?」

 ジャムを舐めるついでに、男はあごをつまんだ。

 色々なことがあった。いくつかは人生を変えたかもしれない。

 だが、いざ考えるとどれもちっぽけにも思えた。これから世界は劇的に変化する。すでにカウントダウンは始まっていると言ってもいい。


「私の知り合いに資金洗浄できるやつがいる」

 男が言うと、女がカップから口を離した。

「はい?」

「持ち金ぜんぶ米ドルに替えてもらえ。あと半年もすればルーブリはただのレーニンの肖像が付いた紙切れになる」

「どういうことでしょうか」

「今年のソ連のGDPはマイナス成長だ。あの国は1年以内に崩壊する」

 スプーンが下がり、かちりとジャムの皿に当たった。


 女が出て行ったあと、男はぐったりと安楽椅子にもたれた。

 極東くんだりまで来て、人妻の手助けだ。あまりに馬鹿馬鹿しくていっそ笑える。

「ま、ここにスパイは私だけだしな……」

 机の上のレーニン像を爪ではじいた。

 レーニン主義のアイデンティティは、ゴルバチョフのせいでとっくに失われた。男の祖国のグルジアを治めているのも今じゃ太ったロシア人の役人で、民族尊重の大義名分すら消えている。


 どんな理想もいつか形骸化する。

 そして腐った中身が溶け落ちると透明な外側だけが残って、いい思い出に変わってしまう。

 思い出すのは、スフミの闇カジノで出会った支配人だ。

 ただチップを買い足そうとしただけなのに、しつこくトルコリラでの支払いを要求してきた。内需向けの製品は質が悪く、まともな物を買うには観光客用の店で外貨を使うしかない、という話だった。

 世界革命は膨らんだ風船のようなものだった。有限に膨らみ、応力の限界を迎えたらはじけるような泡沫うたかたの夢――今、とうとう朝が来た。地獄のような現実に戻らなければいけない。


 男はこっそり買い漁ったドル建て債権の額を思い浮かべた。

 シーフが消えれば、この任務も終わる。本部アクアリウムから退職金が支払われたら政府のツテで小さな事業くらいは始められるだろう。ペレストロイカ万歳、だ。

 男はふっと口元をほころばせた。

 勝ち筋は決まった。蓄えだけあれば、帰れない故郷のために人生を棒に振っているあの惨めな男のような最期を迎えることは決してない。

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