4-3.

 誰かの叫びが上がり、爆発の轟音がまたひとつ部屋を揺らした。

 それでもまだ落ち着いていられる。

 今、風は東向きだ。部屋までは戦場の空気がやって来ない。

 すべてが遠くのことのように思えて、冷静に動くだけの心を維持できている。だが風向きが北向きに変われば、肉と鉄が焼け落ちるにおいが感じられるだろう。そうなれば恐慌は止められない。

 マイクを引き寄せたとき、天井から漆喰と積年の埃がはらはらと落ちてきた。白くなっていくデスクを見つめているうちに、また言葉が浮かんだ。

 望む未来がここにあると、これまでずっと信じてきた。ならば、この有様はなんだ。

 息を整え、痛む喉を震わせる。

「諸君、我々は苦難とともに生きてきた――」


 幸福は似たり寄ったりで、不幸はそれぞれ。

 どこかの文豪が書いた言葉だが、彼に言わせてみれば不幸もテンプレートみたいなものだ。

 不幸な家族はたいがい札束を握りしめてやって来た。銃剣もブルドーザーも無いところへ。平和を。子供だけでも。生きていける収入と、それから最低限の安全。彼らが求めるものはいつも同じだった。


 蛇頭スネイクヘッドに誘われたのは、日本語ができるからという単純な理由だった。

 密入国の請負人のことは、中国人ならだれでも知っている。

 見慣れない生鮮食品のトラックが隣のおんぼろアパートに停まると、翌日から太った家族がほっつき歩くようになる。近くでは工場の従業員が何人か増えて、そいつらは深夜まで無交代で働いているように見える。


 彼が国家国税局にいたときから、無届けの労働者は多かった。

 日本で戦争が激しくなると、さらにその数は増えた。この時期になると蛇頭たちも足がつくことを恐れなくなって、『サインしろジェニデミンズー』のひと言も通じない密入国者まで出てきた。

 蛇頭はどんどん摘発された。だが消えることはなかった。公安が恐いという理由で諦めるのが馬鹿らしくなるくらい、彼らは儲かっていた。

 彼も蛇頭どもから搾り取った罰則金を洗浄して、政治家にスリ渡すうちに、俺ならもっと上手くやれると思った。だから、誘われたらすぐに蛇頭になった。そして実際に彼は上手くやった。


 シーフと出会ったのは、香港の事務所で台湾からの船を待っているときだった。

 あの男の事務所ではアリランが流れていた。麻薬を密輸するついでに手に入ったレコードを聴くのが趣味で、シーフの部屋には何枚もジャケットの無いレコードが差してあった。


 儲ける蛇頭のコツは、密入国者の仕事を用意してやることだ。

 週休2日制、福利厚生、保証された最低賃金。口約束でもいいが、実際に契約書をちらつかせると説得力が増す。

「公共福祉ってやつかい?」

 彼はデスク越しにシーフに言った。

 当時から軍人みたいな身体つきをした男だった。身体中が傷だらけで、商談でスーツを着ているときでも、いつもどこかしら血が付いていた。

「書類に不備でも?」

 シーフは面倒くさそうに尋ね返してきた。

「いや。しかし、目が見えない人間を引き取るのは珍しいのでね」

娼妓しょうぎだったら相手の顔が見えない方がいい」

「それにしては体重が軽すぎるな。すぐバテて商売にならんだろう」

「きみはビジネスに来たはずだ」

 シーフはレコードを止めた。怒っている、と言いたいらしい。

 しかしマフィアのそういう仕草はただのポーズだと彼は知っていた。こちらは金を持っていて、向こうは仕事を欲しがっている。この程度で怒るのなら、そいつは三流以下の素人だ。


「ビジネスの一環だよ。情報収集さ」

「……知って何になる」

 シーフは肩を落とした。

「そちらに引き渡す品物を、しっかり選べるようになる」

「いらん気遣きづかいだ。どうせ使い潰す。持ったら持ったでおたくとの取引が減る」

「じゃあ私の好奇心ということにしてくれ」

 シーフは舌打ちして、レコードに針を置きなおした。日本人女がカバーしたアリランがふたたび流れ出し、事務所の喧騒をドアの外へと追い立てていく。

 シーフはデスクの引き出しからコピー用紙を抜くと、こちらに押しやった。

「日本で商売を始めるつもりでね」


 何かの外科手術の経過報告のようだった。

 背骨を一節抜いて、そこに金属のケースを取り付ける――書いてある文字を見る限りそんなところだろう。パーツが錆びたり拒絶反応が起こったりで、患者はどいつも数週間で死んでいた。

「あんた、医者になるのかい?」

「まさか」

 シーフは品物をもうひとつ取り出した。今度は金属の端子が付いたコードだ。

「近く採用される汎用規格のケーブルだ。こいつを人間に取り付けたい」

「すると何だ、目が見えるようになるのか?」

「こいつで戦車を動かす」

 彼はシーフを見つめた。冗談を言ってる顔ではなかった。


「だが、人間の脳の処理容量には限界がある」

 シーフは言った。

「だからまずは処理を食ってる視覚を切り落とす。将来的には四肢の制御も切り替え式にする」

「そこまでするメリットが?」

「搭載したいシステムがあるんだ。でも現状、それを扱えるコンピュータが人間の脳しかない」

 コピー用紙がめくられ、下に隠れていた写真が現れる。

 戦車のパーツにしては小さな装置に見えた。プレス成型された外装には型番が刻印してあって、どこかの国の規格品なのは明らかだ。


「これは何だ」

だ」

 また真顔で言われた。彼は苦笑して、コピー用紙を押し戻した。

「俺は冗談を言っているつもりはない。ただ、これは間違いなくビジネスになる」

 冗談でないなら、詐欺だろう。

 まったくバカげた話だった。ちっぽけな超技術のデバイスを動かすために人間の脳を使いたいなどと。彼はバッグを引き寄せて、ぱちんと口を閉じた。

「いい話を聞かせてもらった。今日のところは帰ることにするよ」

「品物はいつになる?」

「2週間後。では、家で妻が待っているのでね」

「家か」

 シーフは口元をゆるませた。「……家はいいな」

「あんたはロシア出身だってな。ホームシックってやつか」

「いい国だった。冬になると大きなシカが獲れるんだ」

 この男は自分で狩ったものを調理して、気に入った客に振る舞うことがある。狩りの獲物を話題にするときは、たいていその場所を好きになっている証拠だ。

「帰りたいのかい」

「無論だ。今でもあそこの国民だからな」

 シーフは片手でコピー用紙をなぜた。


 彼が家に帰ると、妻が出迎えてくれた。

「飯はできているか」

「ええ」

 こちらの金目当てでプロポーズしてきた女だったが、それなりに器量もよく愛着らしきものは彼も感じていた。何よりビジネスの話をしても嫌な顔をしなかった。

「未来を見てきたよ」

 彼は微笑んで言った。

「ちょっと家を空けるかもしれない。日本で大きなことを始めようと思うんだ」

 いいですね、と妻は言った。

 その言葉が金儲けの予感から来るのか、彼への好意によるものか、やはり彼には分からなかった。


 2週間後、シーフに引き渡した『品物』は4日で死んだ。

 また注文が来て、彼は契約したばかりの家族にメタノールを飲ませた。こっちは1週間で潰れた。

 半年後、シーフからVHSのカセットが届いた。

 再生してみると、このあいだ引き渡したロシア女が結束バンドで機械に縛り付けられていた。首には例のケーブルが縫い付けられていて、女が身じろぎするたび、前の机に置いたステッピング・モータがキュルキュルと狂ったように回っていた。

 その日のうちに彼は荷物をまとめ、役人に送った賄賂でビザを書かせた。

 すぐそこに未来が待っている。


 そのはずだった。


「西がやられました!」

 血相を変えた新兵が駆け込んできたのは、放送が終わったときだった。

 彼にも分かっていた。東向きの風だというのに、部屋の中には火薬のにおいが充満していたから。

「敵の戦力は?」

「別働隊のRAMです。ハルクとガレアスが先頭にいます!」

「ピークォドの3番機をぶつける。準備はできてるか」

「は。しかしそれでは南を……」

 ああ、と彼はうなずいた。この戦いには勝てない。

「シーフが来るさ」

 そう彼が告げると、新兵は敬礼して出て行った。

 言ってみせたがシーフは来ないだろう。彼には、すでに別の『未来』がある。


 国軍からドレッド・ノートを奪い返した時点で、運命は決まっていた。

「きみの家は本当に良いものなんだな、師父シーフ……」

 廊下を歩くあいだに、建物の揺れはどんどん酷くなっていった。

 不思議なことに、予期していた恐慌は感じなかった。

 妻を連れてこなくて良かった、と彼は思う。彼女にはたっぷりと金を送った。残りの人生を遊んで暮らせるくらいにはなる。

 きっと、あの女は涙ひとつ流さないに違いない。

 それでも残せる物と、それを渡す相手がいるというのは安堵できた。元々、帰るつもりはなかった。あれだけ他人を食い物にしてきたのだから、どこかで自分の番が来る。それが今というだけだ。


 正面玄関のドアが見えた。

 彼は拳銃を引き抜いた。自決用に残したつもりだったが、自分に撃つには惜しくなった。

 諦めて自殺するよりも、敵に撃たれた方が兵士からのウケはいい。

「兵士は残してやる。私に感謝するんだな」

 シーフが見せてくれた未来は、心躍るものだった。彼の目的はまだ果たされていない。

 これは、彼への餞別だ。


 ドアを開けた。

 外に出るや否や、目の前の地面を、鋼鉄の脚が叩き割った。

 静寂しじまがゆっくりと広がっていく。

 銃声は止まっていた。風が耳をかすめるたび、遠くで薬莢がからりと鳴る。

 立ち昇った土煙が厚みを失い、世界が赤く着色されていく。

 陣地は残らず破壊されていた。山のように積み重なった死体は、すべて彼の部下だった。戦闘の衝撃で手足が千切れて、残った部分がふらふらと揺れていた。

 

 ガレアスは傷だらけの装甲をぎらつかせながら彼を見た。

「あ……」

 グリーンに輝く瞳には、何の感情もこもっていないように見えた。

 処理される――と感じた。

 ここでは、こちらが獲物で、彼らは狩人なのだ。この巨獣の前には、非武装の人間など障害物ですらない。書類ひとつで人生を振り回される密入国者どもと同じだ。


 ガレアスの手が上がり、散弾砲がこちらをポイントした。

 とっさに下を向く。ここにも死体がいた。さっきの新兵だ。吹き飛んだ首元に階級章が残っていた。

 とうとう限界が来た。

「誰か助け――」

 最後まで言い終わる前に、彼の身体はザクロのように飛び散った。

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