第三部 オーヴァ・テイク

1-1. 心細工の古戦場

 手だ。あの人のことは手だけ、覚えている。

 疎開の荷物を手早くまとめるちっちゃな手。不安になった自分の頭に、大丈夫と言って置かれた熱い手のひら。

 ほっそりとして、でもちょっとだけガサガサに乾いていた。

 爪は同じ歳の女の子たちより短かった。きっと運動部だったのだと思う。彼女は多くを語らなかったから、すべて推測だ。だから、具体的に覚えているのは手だけ。


 疎開から戻ってきた日も、やっぱり彼女の手だけが残っていた。

 泣いたとき、怒ったとき、耐えられなくなったとき。

 どこからともなく『手』が現れて、頭を優しく撫ぜてくれた。


◆◇◆


 関東平野には珍しく、その日は朝から雨が降っていた。

 冬の雨は身を切るようで、詩布しのぶから借りたジャケットをかぶっていても鳥肌が立った。

 古いジャケットだな、と羽織るたびに真紀まきは思う。

 その証拠に、この海老茶色のサファリジャケットからは、ときどき詩布以外の匂いがする。

 たとえば任務が終わってヘトヘトになった詩布から預かったとき、とか。

 洗うと特に強くなる。詩布の酒と火薬の匂いが剥がれると、錆びを落とした地金みたいに表に現れてくる。たぶんシャンプーと制汗スプレー、パウダー。若い女の子の匂い。

 

 廊下に出て、深呼吸。

 この匂いも、気が付くとすっかりお馴染みになっていた。

 名前も知らないが、3人目の同居人みたいに思ってる。いつも詩布にジャケットを貸しているお人よしの女の子。あまり自己主張はしないけれど、一緒に居て落ち着くような子。


 寒さで感覚のない手を開く。

 ちょっぴり肌が赤いのは足で挟んでいたから。まだ、こんな子供みたいな癖が自分に残っていることに驚く。

 詩布によると、自分は『マセてる』らしい。

 可愛くない、くらいの意味なのだろう。普通の15歳なんて、家事は両親に任せて、自分は宿題と友達との話題作りに没頭。未熟だと分かってるなら、もっと何も考えずに生きていればいい。

「あなたはどうだったんですか」

 詩布に尋ね返したら、彼女は目を丸くしていた。それから少し考えて、

「遊べる友達はいたよ」

 とだけ言っていた。


 たしかに、平均値からは外れてるのかもしれない。

 普通の子供は戦場にいない。だがここでは銃を向け、向けられる。撃ったら当たるかどうかはクジ引きだ。ハズレを引きたくなければ、敵より確率上で優位にいなければいけない。

 小牧こまき 真紀まきという女は平凡だ。平凡な人間が普通のことをやったところで、やはり普通に撃ち殺されるに決まってる。

健斗けんと君……」

 彼はまだ目を覚まさない。

 国軍の基地を出る途中で、新兵器の攻撃に巻き込まれてしまった。

 背中を強く打ったとき、いくつか内臓を壊したらしい。診断した医者も難しい顔をしていた。

 死は多く見てきた。詩布も自分もよく殺す。大抵は否応なしに、ときには自ら望んで。

 だから知っている。原因がそろえば死は必ずやって来る。実感はどうであれ、健斗の傷は必然の結果だ。起こったことは変えられない。どこかで大人しく受け入れるしかない。


 野戦病院の待合室は、今日もたくさんの人がいた。

 馬賊の証安党が侵攻を始めて半月。矢面に立たされるRAMラムはどんどん磨り潰されている。あちこちで局地戦が起こり、包囲しては突破され、物資も士気も限界だ。


 病院の扉が開き、またひとつ担架がかつぎこまれてきた。

 血まみれのシーツを押さえる兵士たちの中に、見慣れたポニーテール頭があった。

「勝ったよ」

 搬送が終わると、詩布は病院の外でスキットルから酒を飲み始めた。

「勝った、とは?」

「次があるってこと」

 彼女が飲むときは、一瞬だけ頬に赤が差す。

 それも数秒で、血液に溶け込んだエタナールが酢酸に分解されると、頬の赤みは消えてしまう。詩布は鬱陶しそうに顔をしかめて、またスキットルを傾けた。


 今日の彼女はとみにペースが速い。

 黒いインナーが雨で濡れそぼってるのを見て、真紀はサファリジャケットを脱いで、詩布の肩ににかぶせようとした。

「いいよ」

 詩布がため息をつく。

「寒いんですよね」

「だからお酒、飲んでるでしょ。大丈夫だから」

「私が落ち着かないんです」

 真紀が無理やり羽織らせると、詩布はジャケットの前を合わせてスキットルを放り込んだ。

「ごめん。ありがと」

「詩布さん、本当に疲れてるんですね」


 詩布はうなずいて、病院の壁にもたれかかった。

 ぼんやりとした左目と比べると、義眼の右目が不自然に透き通っていた。

 こうして見ると彼女はツギハギだらけだ。オリジナルの部分は頭の表皮くらいで、筋肉から骨の髄まで人工物が絡みついている。もしかするとこの顔も変えてあるのかもしれない。

「私、姉さんが居たんです」

「だから?」

 即答してから、詩布はわざとらしく咳払いをした。

「平凡な人でしたよ」

 ただ、頭を撫ぜるだけの人だった。

 嘘を言う強さも無く、現実と対峙するだけの潔さもなかった。卑怯な人だったから、嫌なことがあるとテディベアみたいに真紀の頭を撫ぜて、それで満足しようとしていた。


「たまに、詩布さんが実の姉じゃなくて良かったなって思うんです。だって、あなたの遺伝子がひと欠片かけでも私に入ってたら言い訳できないじゃないですか。詩布さん、最強ですし」

 答えはなかった。

 真紀は震えだした唇をなぞった。口にするのが怖い。それでも、くじけるには早い。

「でも姉さんが居たから、私って生きてるんだと思うんです」


 捨てられたあの日、台所の乾パンの缶を目にした途端、『手』が現れた。

 あの戦争以来、町はしんと静まってしまっていた。騒ぐと舌打ちが聞こえ、中にはぞっとした目で子供を見る人もいた。大抵は自分の子供を失った家の人だった。

 自然と食べる量は減った。あの人たちは生きてるだけで嫌な顔をするのだから、食べるところを見られたらきっと、もっとひどいことをされる。

 馬賊が攻めてくると聞いたとき、大人たちは子供と女を避難させようとした。しかし身体が弱っていて旅に耐えられない真紀は優先度が低く、ただ町の外に放り出されるのがやっとだった。


 捨てられる日、ジーンズに着替えて缶に印刷された乾パンを見たとき、腹がくうと鳴った。

 もう二週間は食べてなかった。水さえあれば腹は膨れるから、必要ないはずだった。

 それに、あれが家族みんなの食料であることは知っていた。盗んじゃいけない。

 そのとき頭に『手』が置かれた。

 大丈夫、と『手』は言っていた。これが最後の食料じゃないもの。大人はずっと強い。あなたにひとつ分けたところで、誰も死にはしないよ。


「うん、お姉ちゃん。ありがとう」


 バンの座席に缶を隠したときも、真紀は微笑んでいた。まだ頭を撫ぜる『手』を感じていたから。

 バンから放り出されたあと、持ってきた乾パンは数分で全部食べてしまった。

 もっと贅沢なものはいくらでも食べてきたが、食べ物で身体が熱くなるのは初めてだった。体力が戻ると、涙が落ちてきた。単に食べないだけで、どれだけ機会を失ったのかを思い知って。


「結局ね、感謝してるんですよ」

 成長した今、真紀は皮肉まじりに笑った。

「お人形替わりに撫ぜ回してきた姉の『手』があったから、私は生きられたんです。これからもあの女は私をチラチラとうかがってくるでしょうね。べつにいいんですけど、でもたまに悲しくなるんです」

 詩布がこちらを見た。

 生身のままの左目が見開いていた。

 震えながら傷だらけの唇が開く。次に来る言葉は分かった。


「真紀」

「なんですか、


 空気が消えたように、舌に乗っていた唾液が蒸発していく。

 雨だれが詩布の肩に落ちて音を立てた。跳ね飛んだしぶきが真紀の頬を濡らす。

 詩布が手を伸ばす。真紀の頭にそっと触れると、彼女は指を折り曲げた。

 合成タンパク質の義手は奇妙にすべすべとしていて、いくら撫ぜられてもあの『手』とは全く違っていた。やがて手が離れ、詩布の顔がゆがんだ。


「あなたの事情は知りません」

 真紀は言った。

「私の姉は戦死しました。身内を失うのは一度で充分です」

 言い切って、病院の扉を開ける。

 窓越しにくずれ落ちる詩布の姿が見えた。自分の手をいっぱいに開いて、泣き叫んでいた。

 扉が閉まると、真紀も髪に手をやった。詩布が下手に手櫛てぐしを入れたせいでひどく濡れそぼっていた。


 もし、あの手が義手じゃなかったら。

 昔みたいに暖かくて、優しい手のひらだったなら。


 真紀はかぶりを振った。

 もう終わったことだ。結果の段階はすでに通り過ぎた。今さら戻ることなんかできない。

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