6-4.

 互いの砲弾が装甲をかすめた瞬間、千歳は確かな戦場を感じた。

 手を伸ばせば届く位置に、死がある。

 直撃すれば、この装甲でも無事では済まない。


「し、いの……」

 千歳が戦車砲の照準器を開くと、詩布はビルの陰に逃げていった。

 彼女は違う。たまたまで砲弾を避けたりはしない。

 当たれば死ぬ。撃たれたら当たる。

 だから撃たれないように立ち回る――兵士たちはそうやって訓練されるものだ。


 兵士としての詩布はいつも一番だった。

 ヘルメットに溜めた水で顔を洗うのも、死んだ兵士の食いしばった歯をドッグタグでこじ開けるのも、死体を積んで防弾壁を作るのも、一番先に慣れたのは詩布だった。


 角を曲がる。詩布がリボルヴァーカノンを構えて待っている。

 焼けるような弾の嵐が襲ってきたときも、千歳はその音をどこか遠くに感じた。


 シュリンクした時間がばねのように跳ね、ふたたび身体を包む――。


 初めて部隊に死者が出たあの日、詩布はテントの外でチョコバーをかじっていた。

 ぼさぼさの髪はすすだらけで、カーゴパンツには出来たばかりの泥染みがあった。

 千歳がいつものように濃く淹れたコーヒーを渡すと、彼女は「ありがと」と小さく言った。


「ガレアスだったら耐えられた」

 チョコバーの包み紙を捨てて、詩布はぽつりと言う。

 担当の兵科はくじ引きで決めた。死んだ子も参加していた。


 詩布はコーヒーをすすると、ちょっと肩をすくめた。

「悲しいね、ちーちゃん」

 ぞっとするほど静かな声だった。

「うん」

 千歳は反射的にうなずいた。


 前線に出たことなんて、一度もないのに。


 時間はまた縮む――。


 また別のとき、詩布は机に突っ伏して寝ていた。

 彼女のバッグには教科書ガイドが突っ込んであった。徹夜で勉強していたらしい。

 詩布は身体が弱く、授業が終わるとよく寝ていた。


 彼女の黒髪をそっとなぜる。

 水彩画のようにきれいな髪だと思う。輪郭が淡く風景に溶け込んでいる。

 千歳は窓際へ行き、じっと待った。

 詩布が起きたら、食事にでも誘うつもりだった。お互い部活も引退して、お金は余っている。


 5分ほど経って、そろそろ起こそうと思ったとき、教室のドアが開いた。

 ドタドタと乱暴な足音が近づいてきて、詩布の前で止まる。

「しいの!」

 まず見えたのは、栗色のポニーテール。汗が玉になって散った小麦色のうなじ。

 灰色がかった瞳がいたずらっぽく細くなる。

「こら、しいのっ!」

 詩布がゆっくりと目を開く。そうして白い手で顔をこすりながら、えへへ、と気持ちよさそうに笑う。


「うん……あ、ナツミ……教科書ガイド」

「まだ寝ぼけてるなぁ、こいつ」

「ん、じゃなくて忘れる前に返そうと思って」


 こんなに笑う彼女は初めて見る。

 千歳といるとき、彼女はいつも真剣な顔だった。気難しい人だと言われることはあった。でも、詩布と壁を感じることはなかった。少なくとも、親友としては。

 千歳が茫然と見るあいだに、詩布たちはふたりで教室を出ていった。


 千歳は誰もいない机を見る。

 そっと天板にさわると、まだ暖かかった。次に自分の手を握る。こちらはひどく冷たく感じた。


 翌日、詩布はいつものように話しかけてくれた。

 友達と抹茶ラテを飲んだことを楽しげに語る彼女に、どんな返事をしたかは覚えていない。

 適当に相槌を打つうちに、詩布はどんどん変な表情になっていった。怒っているというより、当惑しているような顔だった。


「ナツミが連絡遅いって怒ってたよ、気を付けてね」


 それがその日に交わした唯一の言葉だった。


 ――ギチギチと音がする。

 

 目の前には赤いMLFVがいた。

 そいつの頭を、めちゃくちゃにつなぎ合わされた手がつかんでいる。

 少し力を入れると、真っ赤な装甲がひしゃげた。千歳は頬がつり上がるのを感じた。いくら強くても、詩布はあくまでも一介の兵士だ。怪獣退治の専門家じゃない。

 穴だらけの身体で、千歳は吼える。

 ぼたぼたとオイルが漏れて、火の粉の舞う地面に当たって燃える。


 とうとう力に負けて、MLFVの鉄パイプを組み合わせたような顔が砕けた。

 砕けたサイトレンズが、エメラルドの破片のようにきらきらと視界を舞う。炎を映した欠片がモニターに黒く焼け付いて、焦点の周りを囲った。

 視野が狭くなり、一瞬だけMLFVの姿が見えなくなる。


 唐突に千歳は押し出された。

 みぞおちに強く衝撃を感じて、それが背中まで突き抜ける。こぼれ落ちていく内臓がばらばらと音を立てた。背後のビルに突き刺さった榴弾が破裂して、傷口もコンクリート片で縫い取られた。


 詩布が離れていくのが見えた。

 空になったキャニスターカノンが手を離れ、歪んだ胴部装甲も排除される。通電した正面装甲が吹き飛ぶと、リボルヴァーカノンの隣に押し込まれた彼女がよく見えた。

 日に焼けた顔。さらさらと流れるようなポニーテール、灰色がかったブラウンの瞳。

「しいの」

 大嫌いな顔で、大好きな名前をした、死んだ人。


 彼女はいつも前線にいて、千歳は後方。

 千歳が右から左へとさばいた書類で弾薬が送られて、その弾で詩布は戦う。

 気が付いたら彼女は死んでいた。残ったのは墓標になった赤いガレアスだけ。


 回収班を向かわせたとき、ガレアスの残骸はなかった。

 もしかしたら詩布は生き残ったのかもしれない、と思ったのはそのときだ。


 だから『赤坂 詩布』が訪ねてきたとき、千歳は受け入れた。

 次はもう殺させない。弾薬も、車輛も、兵器も、なんでも与えてやった。

 そのたび、詩布はあのときのような表情をした。顔は違うのに、表情は同じだった。当惑する彼女が見たくなくて、千歳はさらに何でもくれてやった。それでも詩布の顔は変わらなかった。


 今、詩布はこっちを見つめている。

 そこに殺意はない。興味も敵意もない、ただ仕事を処理する兵士の目だ。求めていたものではないけれど、ずっといい。

 千歳は語りかけようとして、舌が焼け落ちているのに気付いた。

 身体は――胸から下がない。それどころか、今は自分の顔が見えた。

 千歳は自分を見つめた。倒れた頭が座席に当たり、枯れ枝で紙を打つような音を立てた。まぶたは閉じていた。首から伸びたコードも途中で切断されていた。


 千歳は自分の手を見る。

 ねじくれた鉄で組み上がった骨格に、チタンとケイ素の肉をまとった身体。

 粘膜のように全身に張り付いた『自分』がいて、そいつが機械の器官を借りて、外界を見つめている。


 違う。


 詩布に手を伸ばした。

 千歳の崩れた腹から、抜け殻の肉体が覗いた。

 詩布の目が大きくなる。初めて見る感情だった。名付けるなら、驚愕。

 

 一歩、一歩と千歳は進む。

 詩布はまだ動かない。時間が止まっている。

 火の粉が押しのけられて、スパークを散らした。

 いっぱいに手が開いて、詩布の顔に近付いていく。


 違う。


 戦っているのは水巳 千歳という人間だ。

 こんな身体は自分じゃない。

 私を見て、と叫ぼうとした。だが絞り出そうとした声は金属のきしみに変わった。


 だから、ひたすら進んだ。

 何かをするつもりはなかった。ただ詩布の目が怖くて、変えたかった。

 彼女の表情は兵器に向けるものだ。きっと彼女は勝つ。そしてすべてが終われば、空っぽの肉体を憐れむだろう。本当の千歳は、ここにいるのに。


 時間が動く。


 景色が変わり、それに合わせて詩布の顔も変わった。

 大尉、青年、盲目の少女、RAMの女の子――。

 目まぐるしく変化する万華鏡のような視界に、どこかで聞いた声が響いた。

 

「ちーちゃん、昔のことは取り戻せないんだよ」


 黒い影が浮かび上がった。

 そいつが腕を振り上げ、鋼鉄のクローを見せつける。

 視界が虹色に光りながらぐるぐると回る。真っ赤なフラッシュがきらめき、遠くで爆音が轟く。


 黒い悪魔の前に、赤いガレアスが立っていた。

 ぼろぼろの胴体に、詩布の姿が見えた。驚いたような顔で操縦桿を握っていた。

 クローが詩布に接近する。風鳴りがやけにはっきりと聞こえた。

 千歳は絶叫する。

 また失う。親友を。自分の理由を。

 黒い影に突っ込み、滅茶苦茶にかき混ぜる。ぐちゃぐちゃと耳元で音が響いた。


 幻覚は現れたときと同じように、唐突に消えた。


 伸ばした手が崩壊していく。残骸をつなぎ止めていたシールドが失われ、フレームから剥落した鉄くずが地面に点々と跡をつける。

 顔もぐらぐらと崩れ始めていた。ぐちゃぐちゃという音は、頭の内側から響いているのだと、そのとき初めて気が付いた。


 目と鼻の先には、変わらず詩布の姿があった。

 彼女は操縦桿に置いた指を離した。最後の弾を撃ち尽くして、かちりとリボルヴァーカノンが空撃ちする。こちらを見る目は、不思議とうるんでいて泣きそうに見えた。


「ごめん。……ありがとう」


 視界がノイズで埋め尽くされる。

 もう時間は伸びも縮みもしなかった。引き延ばされる死も、繰り返されるトラウマもない。

 初めから、自分はここにいたとようやく確信できた。

 

 消える意識のなか、千歳はやっと安堵できた。

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