6-3.
昨日は卒業式だった。今日は戦場。
ガラスの破片が散らばっている。
そして目の前には、空っぽの窓枠がある。
常人ならば「窓ガラスがあった」と推量するだろう。そこから誰が割った、何故割れた、といった問いも生まれるかもしれない。だが、割れた瞬間はもはや誰も観測できない。
廊下が曲がりくねって、ひび割れる。
あらゆる分岐が提示され、次の瞬間には時間が飛び、すでに選んだことになっている。
「しいの」
と自分の声がする。
視界にはポニーテールの女がいて、少し嫌そうにこちらを見ていた。
「しいの」
水巳 千歳という人格は、それが赤坂 詩布ではないことを知っている。
「しいの」
しかし、彼女の口は何度もその名前を呼ぶ。
理由は知らない。いつも唐突に結果だけが突きつけられる。
「しいの」
だから彼女も、結果と矛盾しないように振る舞うことにした。
いつもシステムは部分の総和以上に振る舞う。
血と骨と肉のかたまりが外界との接触面をつくり、閾値の異なる神経細胞のコンポジットが人格を形成する。
システムには規則が必要だ。
ある入力に対し、現在の状態から出力が決定される、という絶対的な規則性が。
女がいた――しいの、と過去の自分は呼ぶ。
女がいた――他の女が、親友の名前を
女がいた――しいの、と今の自分も呼ぶ。
「ちーちゃん」
ドアを開けると、厚着をした彼女が微笑んでいる。
応えるより先にその顔は血まみれになっていた。
千歳は後じさりする。学生服のスカートをぎゅっと握り、早く終われと願う。
ふたたび顔を上げる。
目の前には、あの青年が座っていた。不安そうにアルバムを指さしている。
「すみません、この子の名前をもう一度」
開いたページには、カフェで抹茶ラテを飲むあの子の写真があった。
いつもぼんやりした顔だったのを、よく覚えている。
思えば甘いものが好きな子だった。
「え……それが、しいのだけど」
千歳はいつものように答える。
青年の顔が奇妙にゆがんだ。その様子で、自分がまた間違えたと知った。
「そうですか」
と彼は取り繕うように微笑む。
「詩布さんって戦後で色々と変わったと思うんですが」
まばたきをする。青年の姿が、例の女に変わる。
秋の風が吹いていた。
開いた窓から色づいた山が見えた。
ついぞ関東平野では感じたことのない涼しさに、千歳は目を細めた。
女もほんの少し目を閉じると、蓋を開けたスキットルを揺らした。
「ちーちゃん、アタシに合わせなくてもいいんだよ」
彼女は困ったような顔だったが、千歳は微笑み続けた。
自分たちは親友だ。親友なら、いつも笑い合うのが常識だ。
「その……こっちの都合で名乗ってるわけじゃん。それもアタシ個人の問題だし」
「なんで?」
この女は『赤坂 詩布』だ。そう名乗ることで辻褄を合わせている。
「私、しいのに合わせてるつもりはないよ。ほら。人間って、変わるものじゃない?」
「変わる、ね……」
そう言って『詩布』は少しのあいだ黙った。
スキットルが傾き、焼酎がこぼれる。打ちっ放しのコンクリートの床に灰色の跡がついた。
「ちーちゃん、昔のことは取り戻せないんだよ」
焼酎を吸い込んだ床から、水滴がぽつりと飛び出した。
くるくると回りながらスキットルの飲み口に飛び跳ねて、それに合わせて『詩布』の手首も上がる。
「昔のことは取り戻せないんだよ」
また水滴が落ちた。
「昔のことは取り戻せないんだよ」
また落ちた。
「昔のことは」
また落ちて、床が消える。
千歳は落ちていく。
朽ちた建物と戦車が渦を巻きながら脇を通り過ぎていった。
無数の風景が伸び縮みして、迫っては離れる。
親しい人の顔と、同じ数の死体の顔があった。
トンネルのような毛穴が身体を飲み込み、針先のような身体が飛び込んできて口を犯す。
落下は速さを増していく。
失われていく平衡感覚のなかで、記憶のカスケードが無秩序に過ぎていく。
濁流にもまれる千歳は15歳で25歳で、それ以外の何かだった。
気が付くと、戦車の座席に腰かけていた。
頭を振ったら首が強く引っ張られて、ヘッドレストに戻された。
ちょっと頭を回すだけで、さっきまでの柔軟性が失われているのが分かった。
首すじをさわる。皮膚にこじ開けられた穴からケーブルが伸びていた。
パニックになりそうな身体を、息を吸って抑える。
これが今回の『結果』だ。いつもと同じだ。大丈夫。
「ああ」
膝が濡れている。頬とまぶたが熱い。
また、誰かを
だんだん『思い出して』きた。頭に記憶はなくても、身体は覚えている。
ガレオンがシミュレータで負けたのは聞いた。
深刻な顔をした彰真が「あとは頼む」と言って出ていったのも記憶している。
彼は、きっと死んだだろう。
今ガレオンのコクピットに乗っているのは、また大切な人を亡くして、わけが分からなくなって、どうしようもなくなって、ただ独りで泣きたくなったからだ。
「なんで」
言葉は途中で詰まり、また目もとが熱くなった。
ぼやけた視界に、目の前のMLFVをよじ登る青年たちが映った。
彰真は彼らを生かすつもりだった。
義務感で動くだけの彼は、悲しいくらいに普通の人だった。
それでも彼は上官で、「大丈夫だ」といういつもの言葉を信じるしかなかった。
大丈夫だ――ガレオンは強い。また同じことが起こっても、今度は対抗できる。
それで救われる。死んだ人たちに償える。
その幻想を、この子たちは壊してしまった。
この子たちが現れなければ、いつまでも
頬がまた熱くなった。
目の前に操縦桿がある。握ると、あつらえたように手のひらに吸い付いてきた。
怒りで震える自分と、それを外から見つめる自分がいる。
今、身体を動かしているのは外の自分だった。
殺せ、と心は言っている。
今、動かないことを選べば、じきに怒りが収まることは分かっていた。
だが人間を人間たらしめているのはシステムだ。殺せと思った。ならば、自分には殺すだけの経験があるはずだ。それを無視すれば、規則性は失われる。
青年が吹き飛ぶ瞬間は、よく見えた。
彼の身体がコンクリートの床に叩きつけられて、動かなくなるのも。
血が引いていく感触と、耳に響くさらさらという音がはっきり分かった。
胃液まじりの酸っぱい吐瀉物のにおいがコクピットいっぱいに広がって、その真ん中でとめどなく絶叫が上がる。千歳は動く喉と、またせり上がる胃液を感じた。
時はふたたび動く。ゴムのように伸び縮みしながら。
目を覚ますと、またあの場所に来ていた。
朽ちたビルと、ポケットでカリカリと鳴り続けるガイガーカウンタ。
差し込む夕日で景色が赤い。
今度の服は黒いフォーマルドレスに、黒いパンプスだった。
右手に目を落とす。割れたネイルの指に、しおれた花束と、まとめた名簿がぎゅっと握られていた。
たぶん、今日は休戦記念日じゃないのだろう。
いつも用意だけして、来るのは諦めるか、ほかの人に任せてしまう。
それでも一度だけ、ここに来たことがある。
国軍の人間が緩衝地帯に行くわけにはいかないから、もちろんお忍びだった。
空には雲ひとつなく、これ以上ないほどの慰霊日和だった。
少し探すと、どこかの歩兵連隊が遺したバリケードが見つかった。
ぼろぼろのライフルが立てかけてあって、ちょうど墓標のようだった。
苦心しながらも、なんとかバリケードの内側に立った。
名簿を開く。舌を湿らせて、口を大きく開く。
砂だらけの風が口腔をたたいた。
本当に、慰霊日和だった。
これがドラマなら、ヒロインは涙をこらえて仲間の名を呼ぶ。
あとは風の吹きすさぶ荒野をバックにスタッフロールが流れて、全部おわり。
観客は帰り、キャストは役を降りる。
明日には日常が戻ってきて、感動も苦しみも元通り。
手の中のリストを読み終われば、解放される。これが自分の中のけじめだ。
千歳は大きく胸をふくらませ――
「ごめんなさい」
花束は滑り落ち、読むはずだった名簿は手の中でくしゃくしゃとつぶれた。
逃げた女が、今さら慰霊など出来るわけがなかった。
あの日、たった半日の戦闘で部隊の600人が死んだ。
だが、その場に千歳はいなかった。
頭を潰された新兵、生きながら焼かれた学徒兵。
まだ、それを可哀そうだと思ってしまう自分がいる。
「あなたも、失ったのね」
隣にワンピースを着た女の子が立っていた。
プラチナブロンドの髪をなびかせて、吹きすさぶ風を頬で受けている。
「うん。独りだけ苦しまないのって、とっても仲間はずれだものね」
錆びたように濁った目が、じっとこちらを見た。
視線がかち合った瞬間、靴の下で、踏まれた砂が小さな音を立てた。
「私は目、あなたは時間。どっちも死ぬよりつらいけれど、それでも死んだ人たちに申し訳は立たない」
「そんなつもりじゃ……」
「認めなさいよ。あなたも私も、生きてる限り犠牲になった人たちとは重なり合えないの」
彼女の瞳がゆらぎ、ごとりと音を立てて地面に落ちる。
うつろな眼窩から黒い水があふれた。
ひたひたと靴が濡れる。足を上げようとしても、地面に吸い付いたように動かない。
「手首に剃刀を当てても、本物の悲劇には敵わない。あなたは死んだ人たちの償いを理由にしてるけど、どこかでは主人公を気取って酔って、悲しい自分に溺れたいのね」
「嫌……」
「でもちょっぴり、周りを不幸にしすぎた」
「ち、違う」
女の子が踏み出す。水面に波紋が広がる。
こちらを見つめるふたつの穴から、黒い雨がしたたり落ちる。
「だったら何で、あなたは死んだ人たちに嫉妬してるの?」
「違う……違う! 違う!」
こぶしを振りかぶり、女の子に叩きつけようとした。
力をこめた途端、その手が裂ける。
皮膚が破れ、オイルと漿液をぶちまけながら鋼鉄の骨組みが突き出し、骨をぽきぽきと折って血錆に染まっていく。顔を覆った腕は鱗のような複合装甲に覆われ、視界もノイズと電光で染まる。
絶叫は機関音に上書きされ、膨張した腹を人工筋肉と銃器が内側から引き裂いた。
周りのビルも朽ちていく。
道路には蜘蛛の巣のようなひび割れが走り、バリケードに立てかけてあったライフルは崩れた。
黄昏の空が緋色に染め上がって、吹き荒れる重金属の砂嵐でぼやけていく。
破片が肉に食い込む痛みに、千歳は吼えた。
でたらめに繋ぎ合わされた身体が火花を散らし、自壊したパーツ群がぼろぼろと落ちていく。
ガレオンの身体は前より大きくなっていた。
損傷したパーツは、別の兵器を押し込んで直した。右腕には主力戦車の砲塔、左脚は輸送車の荷台とロケット砲の砲身。胴体はいくつもの装甲と鉄骨のパッチワーク。
動くたび、赤い液体がばしゃばしゃと落ちた。
つなぎに使った柔らかいパーツのせいだろう。大抵の兵器に乗っているから、使いやすい。
千歳は重い足を進める。
もう、『結果』は受け入れていた。
ガレオンはやはり素晴らしい車両だった。ここまでぼろぼろになっても、まだ戦える。
状況を認識すると、湧き上がったのは高揚感だった。
これなら勝てる。あいつに。
向かう先は北だ。そこに馬賊がいる。血祭りにしてやる。
もう、間違えない。逃げない。戦う。戦える。
幹線道路が見えてきた。胸の装甲がゆるんできたので、シールドの出力を強める。
押し付けたパーツのせいで、コクピットが破裂したのが分かった。
ハッチからあふれる赤い液体を、他人事のように眺めている自分がいる。
ガレオンの
一歩、また一歩。
さらに踏み出した足を、横合いからの一閃が薙ぎ払った。
組み合わさった無数のジャンクが吹き飛び、ガレオンの巨躯が傾斜する。
千歳のひしゃげた目でも、夕日を背にしたMLFVを捉えることができた。
太い手足と、鋭角的なボディ。
胴に突き出たリボルヴァーカノンはまだくすぶっている。
「初弾、命中。有効弾。なれど対象の無力化ならず」
国軍の周波数で通信が発せられた。
少しハスキーな、女の声だった。
爆裂ボルトへの通電で固定用アンカーが切り飛ばされる。
夕日にMLFVの真っ赤なシルエットが浮かび上がる。パイプを組み合わせたような頭部に、緑色のカメラアイが明滅して、千歳の姿を正面に見据えた。
「HQ、ビショップ9。敵車は健在。格闘戦に移行する」
キャニスターカノンが安全弾を吐き出し、実包を薬室に送り込む。
千歳も起き上がり、全身の火器のサイトを立ち上げた。
敵のことは知っている。親友だと思っていた。
そう――親友だ。
千歳は千切れたあごで微笑もうとした。
いつも、ここに運ばれてくるのは製本された結果だけ。なのに中身を読むことを許されない千歳は、結末から推測して、知ったかぶりの振る舞いをするしかない。
いつもそうだった。
ニセモノの千歳、ホンモノの彼女。
偽っている今でさえ、彼女は圧倒的に正しい。
正しくなれない千歳は、だから『詩布』が望む人間を演じるしかない。
自分は悪の大魔王、彼女は正義のヒーロー。
やっと、まっすぐ目を見られた。
太陽が完全に沈んだ。
緑の閃光が駆け抜け、夕焼けを染め上げる。荒野にふたつの爆轟が上がった。
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