天体観測はもうやめた
サンド
1
「首を、絞められたの、お父さんに」
なんでもないデートの帰り、不意にふゆは言った。
ふゆがしぼり出した声が、絞められるふゆのイメージを鮮明にして嫌だった。それをかき消すように、
「いつ?」
と、詳細をせまった。
背後で気まぐれに点滅していた歩行者信号が、赤に変わる。ふゆの表情を夜が曖昧にしていくのを、黙って見ているしかなかった。生ぬるい風が真正面から吹きつけて、ぼくらの目線を下げていく。
ふゆは昨日、とだけつぶやいて帰路を急ぐ。そのふゆの華奢な背中に向かって、「なんだよその最低な親」「おかしいよ」「なんで首絞められるんだよ」などの言葉を投げたがどれも引っかからず、無反応を貫かれた。ぼくはふゆを追って歩きながらも立ち尽くしている気分だった。
しばらく歩いて、ふゆの住むマンション前に着いた。エントランスから漏れる光が、かのじょの痛々しい作り笑いを浮き彫りにして、ぼくは俯きがちになる。
「じゃあまたね、かいと」
「待ってよ。まだ詳しい話聞かせてもらってないんだけど……」
ふゆはかぶりを振って、「やっぱり、かいととは楽しい話をしていたいなって」と伏し目がちに微笑む。
まただ。そうやって誤魔化されるのは何度目だろう。
「楽しいを作るだけの関係とか、むなしいだけだと思う。いいから話してみてよ」
「いやー……いいって、ほんと、気にしないで」
その言外に「話してどうなるの?」「空気が悪くなるだけ」みたいなことが隠されている気がして、自分の頼りなさを勝手に露呈して、勝手に絶望する。夏は嫌いだ。細枝みたいな両腕が半袖でむき出しになって、ぼくの弱さがにじみ出ている気がして。
「だってふゆ、さすがに異常な出来事というか、ふつうに事件だと思うし……」
「やめて」
もう、ほんとにいいから、思い出させないでよ。踵を返して、ふゆはマンションの光の中に消えていこうとする。家の中には、きっと光なんてないのに。
ぼくはふゆの拒絶が嫌で、怖かった。
去っていくふゆの華奢な背中を見つめる。
ふゆの傷つききった心と、ぼくのふゆに怯える心、両方を包みたい。心に稲妻のようにきらめいた衝動に身を委ねて、気がつけばふゆを抱きしめていた。力を入れたら崩れ落ちてしまいそうな、小さな躰の感触は久々で、しかし体温があるだけの円柱みたいに無機質に感じた。
ふゆは一瞬、ぼくに身体を許しかけたけれど、すぐさま風になったみたいにするりとぼくの身体から離れて、
「ありがとう。今はいいから」
とだけ言った。ありがとうの耳ざわりが冷ややかで、鉄のフォークを噛んだときのような悪寒が走って、動けなくなる。バイバイ、と小さく振った手にすら何も返せなかった。
別れ際のバイバイ、までの記憶の、一秒一秒を思い出しながら帰った。
言葉も行為もぼくらの間では飾りものになってしまうのは、いつからだろうか、なんでだろうか。
夜が暗すぎる。
暗幕みたいな夜空を引いて、星を落っことして、星明かりに埋もれていたい。圧倒的に、光がたりない。
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