第12話 悲しみがとまらへん

 洗濯槽からは、水があふれていた。ということは、頭は完全に水に漬かっとる。


「山岸先輩」


 イッチが声をかけて、パジャマを穿いた両脚に抱きついて引っ張った。ぐしょ濡れになった上半身が洗濯槽から出る。イッチが手を放すと、身体は力なく床に横たわり、変態オヤジの顔があらわになった。


 その顔色は真っ青で、目はカッと見開かれ、口が苦しげにゆがんでいた。


「びょ、病院に電話。一一九番、早く」


「待て。どう見てもこれ、瞳孔が開いとる。残念やけど、もう死んでるで」


「蘇生するかもしれないじゃん。救急車呼ぶだけ呼ぼう」


 事務室へ行った。イッチが受話器をとって、一一九番を押す。ところが、


「……おかしいな。全然音がしない」


「壊れとんのか? 受付にも電話機あったで」


「あ」


「どうした?」


「見て、電話線切られてる」


 イッチが指差した壁のところを見ると、確かにコードが切れて垂れ下がっていた。


「もしかして、通報されないように犯人が――」


「自殺ちゃうんか? イジメを苦にしての」


「こんな方法で自殺は無理だよ。苦しくてすぐに顔上げちゃうでしょ。水死するまで、誰かが上から押さえつけたんだよ」


「……むごいのう。誰がやったんや。アホか、ソバカスか?」


「先輩たちが、そんなことするとは思えないけど」


「現実に死んでるがな。ん、夢に、かな? まあええ。ともかく容疑者はアホとソバカスと古参兵の三人。このうちの誰かが犯人や。もしこれがクリスチィやったら、三人全部が犯人や」


「ホントにホームズみたいになったね」


「チンタイ・ホームズと呼んでくれ。せやけどこれは、ホームズ向きやないな。金田一、いや、マッサージ館の殺人やから、島田潔の出番や」


「ホームズ、犯人の動機は?」


「見当もつかん。ジョージ・マイケル殺して、いったい誰が得するねん。横でギター持ってたやつか」


 わし、軽口叩いとるけど、ホンマは悲しかった。イッチの目にも涙がたまっとる。幼女誘拐犯で、変態で、生理的に無理やったけど、不器用で、どこか憎めなかった。こんなギャグっぽい死に方するなんて、悲しゅうて仕方なかった。


 変態オヤジが夢の世界に来たのは、現実で生きるには、心が弱すぎたからや。あるいは優しすぎたからや。それなのに、こっちで殺されるなんてむごすぎる。理不尽や。世の中すべて、夢も現実も理不尽なんじゃ!


「ユエナ、どうしよう。警察呼ぶ?」


「あんなもんアテにならん。容疑者どもを絞りあげてゲロさせるには、タマちゃん呼ぶしかないやろ」


「家、わかる?」


「ここに住所録でもあればな。せやけど、こっちの町名見てもどこかわからんな」


「もしオーナー呼んでも、本気で犯人を見つけようとしてくれるかな。身内みたいなもんだし、店のために事件を揉み消そうとするんじゃない?」


「そうなったら、わしらが危ないな。野放しになった犯人に、次に狙われてまうかも」


「そうだね。でもいくら想像しても、あの人たちが人を殺すとは思えないんだよなあ……あっ!」


 わしはギャッと叫んで、床から跳びあがった。


「な、なんや、なんか出たか?」


「ううん。ちょっと思いついたことがあって」


「静かに思いつけドアホ! 口から心臓が出たやないか」


「あのさ、犯人は、あの三人じゃないかもしれないよ」


「どういうこっちゃ」


「ぼくたちはすでに、死体を二つ見たじゃん」


「すだれ髪と、タコ社長やろ」


「あれも殺人だったんだよ、きっと」


「連続殺人か? ますます動機がわからん」


「動機なんてないさ。こっちの世界は、サイコキラーが跳梁してるんでしょ。だから、無差別に殺しまわってるだけなんだよ」


「なーんだ、良かった、っておい! そっちのほうが安心できんやんけ!」


「今この瞬間も、下のマッサージルームに潜んでたりして」


「もうすでに、古参兵たちもえじきになってたりして。て、言うてる場合か。どないしたらええねん。ここにおって殺されるのを待つか、逃げて捕まるか」


「先輩たちを信じて、助けを求めよう」


「うーん、やっぱりわし、信用できんなあ。あいつらの容疑はまだ晴れとらん」


「なにか武器を持とうか。食堂に庖丁があったよ」


「わし、先端恐怖症やねん。イッチ持ってくれ」


 事務室を出て、食堂に向かった。廊下の暗さに足がすくむ。殺人犯がすぐ近くにいるかもしれんと思うと、身体が勝手にガタガタ震えてきた。


「アカン。動けん」


「大丈夫?」


「泣きそうや。サンマルチノ呼べんかな。あの怪力女がおったら、きっと安心できると思うねん」


「住所わかんないしねえ。出勤してくるのを待つしかないよ。あと五時間くらい」


 イッチが食堂に入って、灯りをつけた。とたんにウオッと獣みたいに吠えて、わしに抱きついてきた。


 食堂に人がおる――あまりの恐怖に声帯が絞まって声が出ん。わしはヘナヘナと崩れそうになって、無意識にイッチにしがみついた。


「あら、ごめんなさい。おどかしちゃったわね」


 なんや。よう見たらマッカーサーやった。まったく人騒がせな女や。ショック死させる気かい、ボケ!


 と、怒鳴ったろうと思ったが、どっか様子がおかしい。目に力がなくて、頬がこけとる。仕事が終わって帰るときは普通やったのに、ほんの数時間でこんなにやつれるなんて、いったいなにがあったんやろう?


「姉さん、なんでこんな暗い中におったん?」


 すると、マッカーサーは髪を掻きあげて、かすれた声で元気なく嗤った。


「羞ずかしいけど、お腹がすいちゃって。あたし今、スッカラカンなの。お金があってもすぐ費っちゃうのよね。だから財布も冷蔵庫もカラッポ」


「ほんで、パン食いに夜中に?」


「コソ泥みたいにね。空腹で寝られなかったから、朝まで待てなかったの。あなたたちもなにか食べにきたの? それとも……」


 じーっと見られてハッとした。まだイッチと抱き合ったままや。


 あわてて離れた。イッチの手の感触がまだ背中にある。男の手――嫌悪感、罪悪感。くそ、まだまだわしは、あいつらの呪縛に負けとる。


「お熱いとこ、ジャマしたみたいね」


「ちゃうねん、姉さん。そんな呑気な場合やない」


 変態オヤジのことを話した。するとマッカーサーは、怒った顔して「嘘っ」と言い、洗濯室に駆け込んだ。


 わしらもあとから行った。マッカーサーは床に膝をついて、動かない変態オヤジの身体を揺すぶっていた。


「どうしちゃったの? ねえ、返事してよ」


 ポタポタ涙を落としとる。クールな姉さんやと思ってたが、仲間を想う気持ちは熱いようや。


「変態で、気持ち悪くて仕方なかったけど、いなくなったら寂しい。死んだら二度と会えないのよ。こんな悲しいことってある?」


 ウンウン唸って泣いた。わしはしばらくなにも言えず、マッカーサーのうめき声が収まるのを待って、イッチと二人で考えた推理を話した。


 マッカーサーは、憔悴した顔をあげてゆっくり首を振り、


「あの三人が犯人なわけないわ。山岸ちゃんがいなくなったら、ストレスの捌け口がなくなるもの。それに、雑用だって増えちゃうし」


「なにか個人的な恨みは?」


「全然。彼を恨む人なんか、この世に一人もいないわ。役立たずって、いつもみんなに罵られてたけど、本当はいちばん役に立ってたのよ。こういう人こそ絶対に必要だった。生きてるうちに、それを言ってあげなくてゴメンね。ウウ……」


 またうめきだしたと思ったら、突然ガバッと立ちあがり、


「ちきしょう、サイコキラーめ。あたしが復讐してくれる。ここは二〇三高地。仲間の屍を越えて、必ずあたいが日の丸立ててやる」


 洗濯室を出ていこうとするのを、手をとって止めた。


「待って、姉さん。一人でどこ行くん?」


「家に帰って武器をとってくる。サバイバルナイフとスタンガンがあるから」


「途中で捕まったらどないすんねん。男ども起こそか?」


「弱兵を連れて、捕虜にされても困るでしょ。あたしなら慣れてるから大丈夫。ついでに、イチゴちゃんとオーナーを呼んでくるわ。あなたたち五人は固まって防御態勢でいなさい。ラジャー?」


「ラジャー!」


 わしとイッチは、思わず敬礼した。


「とりあえず、主任を起こそう」


 マッカーサーが颯爽と行ってまうと、イッチがそう言って、古参兵の部屋をノックした。


「……どうした?」


 眠そうに目をこすり、不審げな顔で訊いた古参兵に、変態オヤジが死んでることを伝えた。すると、


「はあ? なんだそりゃ」


 大声をあげて洗濯室に行った。その音で起きたのか、アホたちの部屋のドアもあいて、


「どうしたの? 幽霊でも出た?」


 びびった顔でソバカスが言った。そこでアホとソバカスにも状況を伝えた。


「嘘だあ。なんかのまちがいだろ」


「おまえの入れた睡眠薬が効きすぎて、熟睡してるだけじゃないか」


 信じられんという顔をして、二人が洗濯室に向かったとき、


「おい、バカ! 早く救急車を呼べ!」


 古参兵の怒鳴り声がした。行ってみると、古参兵は必死で変態オヤジに心臓マッサージをしとった。


「電話線、切られてんねん。たぶん犯人のしわざや」


「は、犯人?」


 古参兵の手が止まる。アホが変態オヤジの顔を覗き込んで、


「主任、ダメです。もう完全に死んでます」


 男どもが全員、がっくりと肩を落とした。


「クソッ! 誰が山岸を……ひでえことしやがる」


「なんで山岸さんなんだよ。こんないい人殺すなんて」


「ギシさんかわいそうに。犯人マジ許せねえ」


 三人とも目が赤かった。わしは疑ったことを反省した。とても演技とは見えんかったし、もしこんな演技ができるようやったら、もっと上手に世渡りして、こっちに落ちてくることもなかったやろう。


 と、そのとき、


「ピピピピピピピーッ!」


 階下から、鳥の騒ぐ声が聴こえてきた。


「とおるちゃんだ。こんな時間に鳴くなんて変だな。なにかあったんだ」


 古参兵が厳しい顔で言うと、ソバカスが震える声で、


「犯人が、休憩室に忍び込んだのかな」


「かもしれん。行ってみるか」


「気づかれないようにそっと行こう。できれば捕まえたい」


「無理するなよ、阿部。相手はどんな武器を持ってるかわからん」


「おれはモップを持っていきます。主任は消火器、永作は庖丁を持って。そっちの二人は、おれたちの後ろについて、なにか見たら知らせるんだ。行くぞ」


 アホがリーダーシップをとった。みんな黙って言われたとおりにし、足音を忍ばせて階段を降りた。


 男子の休憩室は、階段のすぐ横にある。アホが横開きのドアに手をかけ、慎重に数センチほどあけて、顔をくっつけて中を覗いた。


 しばらくそうしとったが、やがて思いきったように大きくドアをあけた。その瞬間、


「トールチャンッ、トールチャンッ!」


 部屋からとおるちゃんが飛び出してきた。だけど今回ばかりは、古参兵も追いかけようとはしなかった。そっちは無視して、アホの背後から手を伸ばし、部屋の灯りのスイッチを入れた。


 休憩室には誰もいなかった。ロッカーはあいていて中が見えとったし、ほかに隠れられるような場所もない。


「ここの窓は小さいから、こっから外には出られない。別の部屋に移動したかも」


「一応見てまわるか。もう逃げたかもしれんけど」


 古参兵はそう言ったが、わしにはまだ犯人がいるように思えた。というのも、


「ワスレテチョウダイ、ワスレテチョウダイ~」


 とおるちゃんが、やけに興奮して、ぐるぐる飛びまわっていたからや。きっと怪しいやつが、まだこの建物のどっかに隠れとる。

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