余波

天正十四年(1586年) 三月二十八日

 羽柴秀吉死す、の報はすぐに畿内を駆け巡った。

「まさか秀吉が農民に討ち取られるとは。出来れば生きたまま捕らえられるのが一番望ましかったが、相手では落ち武者狩りではそうも言っていられないか」

 知らせを聞いた俺は喜ぶよりも先に言葉にしがたい気持ちが押し寄せた。


 自分が戦で勝利したため、本来天下人になる未来だった男が死んだことによる感慨。

 天下に王手を掛けた人物が最後は農民に討ち取られたこと。

 勝家に敗れた後も家康を除けば織田家で最大の領地を持つ男が死んだことによる政治的な衝撃。


 俺としては生きたまま秀吉が捕えられるか降伏し、秀吉の切腹と領地減辺りで決着するのが理想だった。これは俺が未来を知っているからであるが、秀長が当主となって家臣となってくれることを願っていたところがある。しかし秀吉が死んだ以上羽柴家はどうなってしまうのか、予断を許さない。


 現在俺の前に布陣している羽柴軍は秀吉の逃亡とともに兵士の逃亡が相次ぎ、現在は五千ほどの兵数が残るのみになっていた。それでも黒田官兵衛が戦い続けていたのは俺の本隊がこの場を離れないよう時間を稼ぐためであろう。が、それももはや無意味なこととなってしまった。

「とりあえず羽柴秀長に降伏するよう使者を送るか」

 俺は千坂景親に用件を伝えると羽柴軍に赴かせた。調べによると秀吉の弟・秀長も今回の戦いに参戦している。


 すると少しして蒼い顔をした景親が戻ってくる。

「殿、羽柴軍の秀長様はすでに陣を離れていた様子です。現在将を務めている黒田殿は秀長様の意向が確認でき次第、降伏したいとのことです」

「逃がしたか」

 秀吉の動向を掴むために忍びを使い過ぎたこともあって、秀長への警戒は薄くしていたので気づかなかったか。

 とはいえ、秀長が逃亡は必ずしも悪いことではない。ほぼ全兵力で出陣している羽柴家の領地は現在ほぼがら空きである。このまま羽柴軍が全滅すれば無人の野を行くが如く毛利家が羽柴領を席巻する可能性がある。秀吉を倒してその領地がまるまる毛利家の領地になってしまったのでは意味がない。


「よし、ならばおぬしはそのまま羽柴秀長を追って羽柴領へ向かってくれ」

「そ、それがしがですか」

 思いもかけない命令に景親は戸惑いを見せる。

「そうだ。秀長を説得してどうにか我らに降伏するよう伝えてくれ。ついでに宇喜多、毛利の動向も探り可能であれば味方するよう説得してくれ」


 とはいえ、どさくさに紛れて四国に兵を出した毛利家を許すつもりはなかった。あわよくば許すと思わせて、織田家の戦後処理が終わるまで時間を稼げればいいという小細工だ。

「羽柴は領地を減らしたうえで秀長が当主として織田家に仕えるのであれば家を取り潰すことは考えていない。宇喜多には毛利との手柄次第では本領安堵もすると伝えよ」


 元々宇喜多家は毛利に従属していたが、秀吉の中国攻めの際に秀吉に鞍替えし、その後毛利と秀吉が同盟を結んでようやく和解したという経緯がある。毛利と戦うのであれば宇喜多家は味方にしておきたかった。

「細かいことは情勢を調べたうえで臨機応変にするように」

「かしこまりました。どうにかいい結果をもたらせるよう尽力いたします」

 そう言って景親は陣を離れる。景親は元の歴史では上杉家の外交役を務めたらしいので、適性があると信じることにした。


「さて、黒田官兵衛には書状を渡してもらう」

 俺はもし羽柴軍が戦意を捨てるのであれば新発田軍とともに京へ来るよう伝えた。実質秀長に対して降伏を求めるための人質のような扱いである。今総攻撃をかければ打ち破ることもたやすいだろうが、これ以上痛めつけて毛利に降伏されても困る。

京に向かうのは一応二条城に三法師がいるので報告という形をとるためもあるが、西国情勢に対応するのにこの地では遠すぎるからだ。


 俺の書状に官兵衛からは承諾する旨の返書があったのでひとまず安堵する。秀吉が死んだと聞いた後も官兵衛は無表情で粛々と軍勢を指揮していた。さすがだなと思いつつもどこか覇気のない様子だった。

 あとは秀長の意向次第だが、会ったこともない秀長の思考は読めない。また、秀吉から万一の際の遺言のようなものがあればそれに従うだろう。

 そんな訳で俺は羽柴軍の残り五千ほどを引き連れる形で京を目指した。


 その日、俺たちは柴田勝敏の坂本城付近で一泊した。思わぬ戦いの決着に勝敏も動揺していたが、俺自身も今後の政局がどうなるのか分からないところがあった。毛利が交渉に応じれば時間を稼ぎつつ織田家の体制を整えることになる。

 だがもし毛利輝元が羽柴領を併呑して織田家の体制が整う前に決着をつけようとすれば体制が整っていようといまいと決戦しなければならない。そのため、俺から勝敏に言えることは少なかった。


「申し上げます、退却中だった滝川一益ですが信雄様への降伏を表明しました」

「丹羽長重殿、細川忠興殿、佐々成政殿への降伏を表明しました」

 翌日、朝早くから近国の情勢がもたらされる。やはり秀吉の敗北からの横死という情勢は影響が大きく、彼らの戦意を折るのに精いっぱいだった。


「そうか、織田徳川滝川軍の様子は?」

「休息をとった後に京を目指すとのことです」

 それならばその後の対応についてはその時に話し合うしかないか。とりあえず羽柴・宇喜多・毛利の三家の様子が分からないとどうすることも出来ない。

 こうしてその日はゆったりと行軍し夕方ごろに京に入った。京では羽柴軍の敗北により不穏な空気が流れていたため、俺は略奪暴行の禁止を軍勢に徹底させた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る