対毛利編

羽柴秀長の決断

四月二日 備中高松城

 秀吉討死のどさくに紛れて近江の陣を離れた秀長は悲しみに暮れる時間もなく領地に逃亡した。勝家との戦いに敗れ領地が減った後、新しい居城すら決定しないまま四国攻めが行われたこともあって羽柴領はごたごたしていたが、秀吉は再び織田家の覇権を握るという夢を家臣たちに見せて求心力を保っていた。

 秀長は毛利の動向を警戒していたこともあって数年前に落としたばかりの高松城に入っていた。


「降伏せず最期まで夢を追い続けたのは兄者らしい」

 家名を残さなければならない戦国武将にはまず出来ない決断だ。

 最期の別れの前、秀吉は秀長に二つの言葉を残した。

 一つは秀吉が逃亡に成功しようがしまいが、別経路から領地を目指すこと。そしてもう一つはもし自分にもしものことがあればこれを見よ、と一枚の紙を渡されていた。


 紙を開くとそこには秀吉らしい汚い字と簡単な文章でこう書かれていた。

『毛利とは手を切れ 織田家は新発田が掌握するだろう』

 元々秀長は兄とは違い、実直さが取り柄の平民である。秀吉が出世しなければまず間違いなく農民のまま一生を終えていただろう。そのため、まずは兄が目指した天下取りの夢を継がなくて済むことにほっとした。


「最後まで夢を追った兄の尻ぬぐいをするのも弟の役目か」

 そう決めた秀長はすぐに領内に秀吉の死を公表し、それから自分が羽柴家を継承することを触れた。この時点で秀吉は後継者候補として養子に甥の秀次を迎えていたが、この事態を秀次に収拾できるとは思えない。不満は出るかもしれないが、もし羽柴家が存続出来るのであれば後で家督を譲っても構わなかった。


 とはいえ現在の羽柴家の領地は十年ほど前までは毛利家が治めていた地ばかりである。羽柴軍の主力がまとめて壊滅したため、一斉に反乱が起きてもおかしくなかった。

 さらに秀長は先に逃げ帰った宇喜多秀家にもこれまで通りの友好を求める使者を送った。


四月三日

 まだ播磨を撤退中であった小早川隆景の軍勢五千が羽柴領に入った。ちなみに、宇喜多軍は秀家らが先行して領地に戻っており、残った軍勢を叔父の忠家が指揮して帰還中である。宇喜多・小早川両軍は早めに撤退して特に戦いに巻き込まれることもなく畿内を抜けられたのでゆるゆると行軍していた。


「秀長様、帰還中の小早川隆景殿から使者が来ております」

「分かった。通せ」

 そこへ現れた使者は事務的に告げた。

「小早川様より、毛利軍は羽柴軍の領地防衛を手伝うため主だった城に軍勢を進駐させたいとの言伝を預かっております」


 表向きは壊滅した羽柴軍を織田家の追撃から守るために毛利家から援軍が出るということだろうが、毛利家としてはそれを機に羽柴領を支配下に置き、あわよくば羽柴家も家臣に組み込みたいという思惑があることが透けて見える。

 毛利家としても織田家が秩序を取り戻せば中国攻めが行われるであろうことは分かっているので、その時のために羽柴家を防波堤代わりにしたいのだろう。


「いや、我らは自力で領地を守るため不要である」

「そうですか。しかし殿は現在の羽柴家単独で織田徳川軍から領地を守るのは不可能だとおっしゃっておりますし、毛利としても羽柴家が敗れるのは困るのです」

 使者は思いのほか強気であった。当主を失い落ち目の羽柴よりも四国で勝利して勢いに乗った毛利は立場が逆転したのだろう。

「いや、その気遣いは無用だ」

「そうですか。ではまたお考えが変わればいつでも連絡ください」

 そう言って使者は退出していった。

 その背を見送って秀長はため息をつく。これで毛利はどう出るだろうか。


 さらに翌日、思いのほか早くに新発田家からの使者を名乗る千坂景親が訪れた。徳川ではなく新発田なのか、と思ったが秀長は兄の遺言を思い出して納得する。確かに関ヶ原の時に徳川家は重臣の離反と負傷が相次いでおり、軍勢の損害も大きかった。

「兄者の目に狂いはなかったのかもしれぬな。よし、千坂殿を通せ」

 現れた千坂景親に対して秀長は先手を打って告げる。


「我らは織田家に対して二心はない。しかしこたびの敗北で毛利に不穏な動きがある。早急に援軍を要請したい」

 すでに毛利の誘いを断っている以上、いつ実力行使に出られてもおかしくはないという事情もあったが、本音としてはこのまま毛利との戦いに突入して手柄を立てることで羽柴家の改易を防ぎたいという思いがあった。

 それを聞いた景親は小さく驚く。秀長がここまで早期に方針を決めているとは思ってもみなかったのだ。


「では羽柴家は毛利が織田家と敵対した場合、我らについてくださるということでよろしいのか」

「そうだ。また、もし援軍とともに京にいる羽柴軍五千も領地に帰していただけないと、毛利を防ぐことは出来ぬ」

 ついでとばかりに秀長は京にいる羽柴軍の返還も要請する。

「わ、分かりました。掛け合ってみます」

「よろしく頼む。すでにわしは毛利からの服属要求の使者を追い返している。織田家内で内輪揉めをしていれば、我らはろくな抵抗も出来ぬまま毛利に飲み込まれるだろう」


 思ったよりも情勢が緊迫していることに景親は驚きを隠せなかった。

 実際に羽柴家が存亡の危機に立たされていることは事実だが、秀長としては毛利家の危機を煽ることで羽柴家の重要度を上げたいという意図があった。

「ちなみに宇喜多殿の動向はいかに」

「分からぬ。我らも使者を送ったがまだ帰っていない。宇喜多殿を説得していただけるのであればありがたい」

「は、はい」


 景親としても秀長が自分から服属してくれるのであれば、重家の希望を満たしたことになる。特に異論はなかった。

 その後景親は供の一人を「羽柴家に敵意なし」を伝えるために京に派遣し、そのまま宇喜多領に向かった。


 その数日後、羽柴領である四国の阿波・讃岐に毛利軍が侵入したという報が入った。

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