干拓

 羽柴秀吉が毛利輝元を担ぎ出して四国攻めを成功させたという報を聞いた柴田勝家は二条城の造営を発表した。

 この時勝家は秀吉が建造した山崎宝寺城に三法師ともども入っていたが、やはり秀吉の城に入ったままでいるのは不満だったのだろう。また、この工事の諸大名を動員することで力を示そうとした。


 工事には佐々成政や滝川一益といった親勝家派だけでなく、織田信雄・信孝、細川忠興、筒井順慶、池田恒興、蒲生氏郷、織田信包、丹羽長秀ら機内でかつて秀吉に味方していた者たちも人手を出しており、秀吉や毛利に求心力を見せつけることに成功した。

 俺や佐久間盛政、前田利家といった遠地の武将は多少の費用を負担するだけで許された。また、秀吉と毛利家も四国仕置のためとして、祝いの使者と費用の献上に留めている。徳川家康は敵意がないことを見せつけるためか、少数ではあるものの人数を送っている。

 こうしてそれぞれ思うところはありつつも、外見上織田家は勝家の元にまとまる形を見せていた。二条城はかなり大掛かりな建設となったらしく、完成を見るのは翌年となった。




 そんな上方の動向から離れて俺は引き続き領内の内政を進めていた。阿賀野川の分流が一通り成功したところで、次に乗り出したのは阿賀野川から水が流れ込んでいた福島潟の干拓である。


 阿賀野川から潟に流れ込む水を減らしたことで潟の水位は下がり、潟のうち一部の水位がかなり浅くなった。もっとも福島潟は史実でも江戸期、近代と干拓工事が進められてなお現代に残っていた広大な潟である。

 全てを埋め立てるのは不可能だし周辺の流れにどのような影響が出るかも分からないため、あくまで水位が下がった一部の土地から干拓を始めることにした。


 まずは治水に携わっていた者たちの中から手が空いている者を集め、干拓する場所を干拓堤防で仕切らせ、中の水を排水する。

 人手は周辺の農民を徴発して集めさせた。農閑期だったうえ、干拓が成功すれば農地が増える上に命の危険がないため、戦よりはましということもあって士気は高かった。


 水位が浅い上に治水衆が工事に慣れてきたため堤防の敷設はすんなり進んだが、排水はなかなか大変だった。

 海水を排水する場合は堤防に水門を設け、海岸の傾斜を利用して水を海へと流すという方法がとられるらしいのだが、潟の場合海岸ほど傾斜はない。

 そのため、どうしても人力による排水を行わざるを得なかった。こちらは経験のある者が誰もいないうえ、冬が近づき水が冷たくなる中の作業は大変だった。しかし謙信時代は雪の三国峠を越えて関東へ攻め込んだこともある越後の農民たちは強く、寒い中でも黙々と作業を進めた。また、冬で雨が少ないことも幸いして作業は進み、年内には堤防で区切られた範囲の干拓を終えることが出来た。


 ちょうど作業が一段落したあたりで本格的に雪が積もり始め、俺はほっとする。雪が積もってしまえば作業どころではない。

 干拓を終えた場所は元々潟だったため周囲より土地が低く、どうしても土地が湿っている。また堤防のすぐ向こうには水を湛えた潟があり、決壊すればすぐに水で埋まってしまう。


「現在は冬期のためうまくいっておりますが、雪解け時の増水に堪えられるかが勝負ですね」


 曽根昌世とともに視察に来たとき、昌世はぽつりと言った。阿賀野川が増水すれば、川と潟を分断した堤防が再び決壊しないという保証はない。そうなれば潟の水位が上がり、干拓堤防を越えて水が流れ込むだろう。


「おぬしの見立てでは大丈夫なのか」

「はい、こちらについては問題ないと思われます。阿賀野川の流れは海に向かう方が自然な流れなので増水してもこちらに水が来る可能性は低いでしょう。現状分流工事のおかげで水位は多少下がっておりますし、問題が起こるとすれば下流でしょう」

「海に近い方は積雪もあまりない。どうにかぎりぎりまで堤防の補強を続けて欲しい」

「かしこまりました」


 こうして天正十一年(1583)は緊迫した始まり方とは逆に、静かに暮れていくのであった。

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