神流川の戦い

六月六日 上野厩橋城


「何!? 上様と信忠様が討たれただと!?」


 この報を聞いた織田家重臣の中で一番衝撃を受けたのは滝川一益かもしれなかった。一益は三月の甲州征伐後に上野に入ったばかりであり、その支配はとても盤石とは言えなかった。


 そもそも上野は元々武田・上杉・北条の三勢力が割拠する地域であった。御館の乱以前は武田・北条が協力して上杉家の勢力を北へ北へと追いやっていたものの、御館の乱の際に上野の上杉方は北条に味方し、さらに勝頼が景虎を助けなかったことで武田と北条の間に亀裂が入った。その後武田北条が争っていたところで武田家が滅亡し、滝川一益が入封した。


 北条家は武田家との対立や織田家の強大化への恐れからやむを得ず織田家に膝を屈しており、一益が入るとしぶしぶ上野から手を引いていた。また、関東の諸将も先を争って一益の元にはせ参じていたが、それも全て織田家という後ろ盾があってのことである。

 その状況で信長と信忠が揃って死ぬというのは、一益にとって猛獣の檻に裸で放り出されるようなものである。


「せめてどちらかでも生きていてくれれば……」

 しかし起こってしまったことを変えることは出来ない。北条家は間違いなくこの機に乗じて上野に兵を進めてくるだろう。すでに噂は信濃や越後にも伝わっているようで、隠しきれるものでもない。

「上野の諸将を集めよ」

 一益は領内に触を出した。


六月十日

 一益の元に滝川益重ら一益の家臣と、真田昌幸・北条高広・内藤昌月・小幡信貞・倉賀野秀景・由良国繁・佐野宗綱らを集めた。一益の軍勢に彼らの兵力を加えると、二万近くにも及んだ。

 信長の死にも関わらず諸将が参陣したのは武田系武将や元々反北条方の武将などがおり、彼らは北条に対抗するために一益を頼ったのだろう。すでに北条家は兵を起こし、上野を目指しているという報告が入っている。


「先日上方で明智光秀の逆心により、信長様・信忠様は共に討たれてしまった。光秀の不忠義を許してはおけぬ! だがそれと同じくらいに許せぬのは北条がこの機に兵を挙げたことだ! 上様の死に乗じて乱を起こすなど不届き千万。我らはこれより北条を討ち、そののち上方にとって返す!」


「うおおおおおおお!」


 一益の檄に応じて参集した上野衆たちも声を上げる。彼らとしては北条家がこのまま上野に雪崩こむのは何としてでも阻止したい事態であった。また、北条に寝返りたくても現在の一益の勢いを見るとまだ従っておいた方がいいと思った者もいたかもしれない。


六月十八日

 二万の大軍を率いた一益は上野・武蔵国境の神流川付近にまで兵を進め、北条方の金窪城を攻撃した。二万の大軍による猛攻の前に城は呆気なく落城した。そこへ城の救援に訪れた北条氏邦率いる五千の兵と戦いになったが、北条本隊が到着していなかったこともあり打ち破った。


 が、翌十九日に北条氏政が五万の大軍を率いて神流川周辺に到着した。昨日の勝利で意気軒高だったはずの上野衆はそれを見て一気に恐怖に包まれた。

「やはり北条軍と正面からぶつかるのは難しいのでは」

 その様子を見て益重が一益に進言する。

「そうかもしれぬ。しかし上杉景長殿と森長可殿は城を捨てて逃亡、河尻秀隆殿は一揆に敗れたと聞く。この上わしまで一戦もせずに退いては織田家の名折れではないか」


「では明智征伐は柴田勝家殿に任せて周辺の城に籠って守りに徹しては」

 益重の提案は戦術的には正しかったが、一益には受け入れられぬものだった。

「何を言う。一介の浪人だったわしを関八州を治める大身に取り立ててくれた上様の恩に報いずして何とする」


 それを聞いた益重は言葉を失った。現在の一益は伊勢の本領と上野の所領、そして寄騎としている上野衆を合わせれば大大名に匹敵する勢力を持つ。それは一益の生まれではどれだけの幸運に恵まれようと独力で手に入れることは叶わぬものだろう。

 一益の心中を感じ取った益重は静かに頭を下げる。


「失礼いたしました。一益様が北条を破った後は、それがしが上野衆を束ねて上野と信濃の所領をお守りいたします。ですので安心して光秀を討ちに向かってくださいませ」

「すまぬな」

 一益は呟いた。


「突撃! 我らの悲願であった上野を今度こそ手に入れるのじゃ!」

 早朝、掛け声とともに北条家は次期当主である氏直自ら先鋒となって神流川を渡河する。北条家としても御館の乱の時には上野半国までは制圧したはずなのに、気が付くと織田家のものとなっていたことを悔しく思っていた。雲霞のごとき数で川に足を踏み入れる北条勢に上野衆は恐れをなしたが、一益は違った。


「戦は数で押すだけでは勝てぬ。鉄砲、撃て!」

 一益自慢の鉄砲隊が渡河する北条勢を釣瓶撃ちにする。北条勢はばたばたと倒れたが、圧倒的な数でやがてこちら岸に到達する者が現れる。

「ふん、川に突き落とせ! 突撃!」

 一益は自身の軍勢を率い、前田利益・山上道及ら猛将を押し立てて渡河を終えた北条勢を攻撃する。渡河により陣形が乱れていた北条勢は猛攻を受けてすぐに敗走する。


「今だ、川を攻め渡れ!」

 一益は北条軍を追撃して神流川を渡る。迎撃しようにも逃亡してくる自軍の兵士で北条勢の陣形は混乱していた。

 が、川を渡ったところで一益は上野衆の半数ほどがついてこないことに気づく。元々数で負けている上に味方が動かなければ一益が奮戦しようと勝てるものではない。


(何だと? もしや五万の大軍に臆したか? 今我らとともに川を渡れば倒すことが出来るものを……)

 が、いくらほら貝を吹き鳴らし太鼓をたたかせても上野衆は動かない。特に残っている面々で一番数が多いのは真田である。

(おのれ真田、もしやすでに内通しているのか?)

 一益は悔やんだが、真相は分からないし今更どうすることも出来ない。


「一益様、我ら上野衆の働きが不甲斐なく申し訳ございません」

 一益と親しかった上野衆の倉賀野秀景が本陣に現れると、申し訳なさそうに頭を下げる。一益は悔しげに顔を歪める。

「いや、それも含めて強い者が勝つのだ」

「ここは我らが食い止めます。一益様は主君の敵討ちを」

「すまぬ、恩に着る」

「いえ、我らは一益様がいなければどの道北条に滅ぼされていたでしょう。さあ早く」

 秀景に急かされた一益は撤退を決意する。見れば、動かなかった上野衆は三々五々勝手に陣払いしていた。敵討ちに気を取られて彼らの心中を読み切れなかった己を恨みつつ、一益は厩橋城へと帰還した。残った軍勢は圧倒的な北条勢に包囲され、秀景も敵軍を足止めして討死した。


 その後一益は城にいた上野諸将の人質を解放すると信濃へ落ち延び、信濃を超えると信濃諸将の人質も解放している。

 北条軍五万が大挙して侵入した上野にはもはや敵対する者はなく、上野は瞬く間に北条家の手に落ちた。

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