忠義不忠義(後)

 妻に運命を共にさせてしまうことに悲しみを覚える勝頼の元へ、音もなく一人の忍びが現れた。思わず刀に手を掛けるものの、彼の姿に見覚えがあった。

「おぬしは唐沢玄蕃ではないか!」

「はい。このたびは昌幸様の命で参りました」

「何だと!? 昌幸は織田についたではないか!」

 勝頼は眉をつり上げて激昂する。重用していた昌幸の降伏は勝頼の心をひどくえぐった出来事だった。しかし旧主の怒りを正面から受けても玄蕃は表情を変えなかった。


「はい。しかし昌幸様がこのまま織田に抵抗を続けても一月かそこら命脈が伸びるだけでございます。それよりもこのたびは信勝様を落とすために参りました」

「どういうことだ」

「昌幸様の尽力で武田家臣を新発田に落とすことが可能となりました。望月の忍び衆の他すでに数名、こちらで見繕っております。さらに金山衆も越後へ向かう予定ですので、信勝様にはそちらに紛れていただきます。時勢が変われば信勝様は越後で彼らとともに立つことも出来るでしょう」

「何だと……」


 勝頼は予想もしない提案に呆然とする。確かに越後に落ち延びれば大分安全だろう。武田と縁がない新発田であれば、このたび共に越後に向かう者たちが密告しなければ信勝の存在に気づかない可能性も高い。しかし信勝だけでなく、家臣まで逃がす手はずになっていたとは、と昌幸の手際に感心する。


 だが、先に答えたのは勝頼ではなく当の信勝であった。

「ならぬ。母上ですら武田と命運を共にするというのに縁もゆかりもない地に逃げて生き延びるなどどうしてできようか! 何より新発田は義理の叔父上である景勝殿を苦しめた輩ではないか!」

「ですが信勝様。武田の当主としては家を残すことが肝要でございます」

「異国の地で誇りを失って他人の顔色をうかがいながら生きることが武田の家を残すことだと言うのか!」

「……」

 信勝の言葉に思わず玄蕃は沈黙する。

 元服したばかりの信勝だったが、その表情には武田当主としての貫禄があった。が、玄蕃の沈黙を見て信勝の表情は怒りから悲しみに変わる。


「わしは昌幸にはそのような形ではなく最後の一戦を共に戦って欲しかった」

 信勝がぽつりと漏らした言葉に玄蕃は思わず言葉を失う。が、それで納得するような真田なら織田に降ったりはしない。玄蕃は一縷の望みを得て勝頼の方を見る。

「御屋形様からもどうかおっしゃっていただけませんか!」

 が、勝頼の心は決まっていた。黙ってゆっくりと首を横に振る。

 玄蕃は予想がついていたとはいえ、その反応に落胆する。北条夫人とのやりとりよりも先に来ていれば、信勝を落ち延びさせることが出来、そうしていれば勝頼も彼女を強引に小田原に帰していたかもしれない。そう思うとやりきれなかった。

「そうですか。ではご武運をお祈りいたします、御免」

 そう言って玄蕃は勝頼の前から消えた。



「玄蕃殿」

 躑躅ヶ崎館を出た玄蕃に不意に声がかかる。失意に暮れていたからか、全く気配に気づかなかった。慌てて周囲を見渡すと、目の前に一人の女が現れる。どこにでもいる普通の農民のような恰好をしていたが、玄蕃はその雰囲気に見覚えがあった。


「そなたは……二代目千代女殿か」

「はい。重家様が真田を探れとおっしゃるので探っていた結果がこれですか。しかしその様子だと不首尾に終わったようですね」

「そうだ」

 淡々と話す千代女に玄蕃は投げやりに答える。


「知り合いのよしみでこの度は見なかったことに致しますが、次はありませんのでそのつもりで」

「そうか。だが安心せよ、次などないだろう」

 が、そんな玄蕃に対し、千代女はわずかながら憐憫の色を見せる。

「……。真田の忠義は分かりにくいのですよ。普通の者は同時に一人の主君しか持つことが出来ませんから」

 先ほどの信勝の言葉を思い出し、やはり真田のやり方は間違っているのだろうか、と思わされる。

「そうか。ならばせいぜいおぬしは新しい主君に忠節を尽くすが良い」

「言われなくてもそのように致しますよ。ではこれにて」

 そう言って千代女は現れた時と同じように闇の中に姿を消した。


 その後躑躅ヶ崎館を出た勝頼一行は小山田信茂の所領を目指した。信茂は事前に勝頼を受け入れる旨を伝えていたものの、織田軍の圧倒的な兵力を聞いた郡内の国人衆は動揺。信茂に織田家に降伏するよう突き上げた。

 それを受けた信茂はせめてもの情けと領地に柵を設けて鉄砲を撃ちかけ、勝頼が郡内に入らぬようにした。

 それを見た勝頼は天を仰いだ。武田信廉の逃亡に始まり、穴山信君は裏切り、小山田信茂も叛いた。一門衆とはいっても何の信用も置けぬものである。この間に数万の織田軍は大挙して甲府に侵入している。


 三月七日、数千の兵を率いて周辺の捜索に当たっていた滝川一益の部隊が勝頼一行と遭遇した。わずかに残った武田家臣はここが死にどころとばかりに織田軍に斬りかかった。もはや軍勢の体をなしていなかったこの一行にまさか勝頼がいるとは思っていなかったのか、油断した織田軍を相手に武田家臣は猛然と襲い掛かり、討死していったという。

 しかし百倍近い数の差はいかんともしがたく、すぐに武田勢は壊滅した。

「もはやこれまでか」

 勝頼は最後まで側に残った信勝、信豊、勝資、昌恒、北条夫人、そして早野内匠らと酒を飲み交わすと、切腹した。

 一時は戦国最強を誇った甲斐武田家も、その滅亡は呆気ないものであった。

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