取引
通されてきた唐沢玄蕃は地元の猟師のような恰好をしており、人目を忍んでここに来たことが窺える。真田家の勢力圏であるこの地でこそこそやってくるということは、武田家の目も警戒しているということだろう。
「まずはこのたびの戦、見事な采配でした」
「それはこちらの台詞だ。我々はいいように手玉に取られただけだが」
「そんなことはございません。実は我らは元々、真田城を囲む織田軍を二日の期限が過ぎた瞬間に奇襲して撃破し、その勢いで織田軍本隊に当たるつもりでした。ですが新発田殿がこちらに軍を進めてきたため、作戦を切り替えました。依田城が開城するところで奇襲をかけ、依田家の軍勢と合流して新発田軍を挟撃し、次に前田・村上軍を破るというように各個撃破するつもりでしたがそれも叶いませんでした」
「そんなことを企んでいたのか」
意図した訳ではなかったが、俺の行動は真田の策を潰していた形になっていたらしい。
「はい、残念ですが今の戦況だと越後口から攻めて来た織田軍を我らのみで壊滅させるほどの大勝を挙げなければひっくり返すことは出来ないでしょう、と殿はおっしゃっておりました」
それはそうだろうし、ここで俺や前田利家をまとめて葬ったところで武田軍は織田信忠に敗れる。
「で、作戦が失敗したから降伏しようということか」
「その通りでございます。ただし、本領だけでなく現在真田家が治めている領地は全て安堵して欲しいのです」
「それは難しいな。大体今の真田家はかなり領地が広いと聞くが」
真田家は信濃の本領だけでなく、御館の乱の後は上野の沼田城などにも勢力を伸ばしている。信濃の本領を安堵することは可能だろうが、上野は難しいだろう。
ただ、真田家とこの周辺地域の問題は本能寺の変後の天正壬午の乱にも持ち越され、小田原征伐にも間接的にではあるが、繋がっている。真田もたやすく領地を譲るつもりはないのだろう。
「それに、そのことを俺に言われても困る。領地の安堵などを正式に決めるのは信忠殿か、もしくは信長殿だろう」
「もちろんそれはその通りです。そのため、新発田殿には前田殿に口添えしていただき、前田殿が我らの本領安堵を織田家に口添えするというところまでで構いません」
なるほど、口添えするだけならただという考え方はある。
「それに、もし我らの本領安堵を口添えしていただけるのであれば、新発田家に領地を失った武田家の家臣が仕える斡旋をします」
さすがに唐沢玄蕃の言葉に俺は驚いた。なぜ彼は俺が信濃に来た目的を知っているのだろうか。真田家の諜報網が優れていることを誇示しているのだろうか。しかし俺のことを探るぐらいなら木曽家や南信濃衆、そして信忠本隊の動向を探る方がよほど有意義である。
俺は努めて動揺を悟られないように尋ねる。
「一体なぜそのようなことを?」
「それにより新発田家に我らの本領安堵を口添えして欲しいということが一つ。そしてもう一つは純粋に武田家が敗れた際に、仇敵である織田家に頭を下げるのは嫌だと主張する者も多くいます。彼らもそこまで敵対していない新発田家であれば嫌がることもないでしょう」
「なるほど」
確かにその気持ちは分からなくはない。昌幸がそういう面倒見の良さを発揮するのは少し意外だったが、それで俺に恩を売れると思ったのだろう。別に俺の目的を知っているという訳ではなかったらしい。
「ちなみに人選の心当たりはあるのか?」
「いえ、さすがに今日までは徹底抗戦するつもりでしたので具体的には……」
玄蕃は口を濁す。しかし心当たりもなくこのようなことを言うだろうか? 俺は少し引っかかったが、この際なのでこちらから挙げてみることにする。
「武田忍びの中で主家と運命を共にしない者もいるか」
「はい、忍び衆でしたら我らも知らぬ仲ではないですし、集団を残すために全員が武田に殉ずる訳ではないでしょう。交渉してみます」
「他には武田の金山衆も欲しい」
「それがしは越後には詳しくないですが、金山などありましたか?」
玄蕃が首をかしげる。
「いや、領内にそうかもしれないところを見つけただけだ。後は領地が広がったので城を任せられる人材が何人か欲しい」
「分かりました。何人か誘ってみましょう。今はまだそこまででもないですが、そのうち城を捨てて逃亡する者も出るでしょう。そういう者に声をかけてみます。ではこの条件でよろしいでしょうか」
まさかさすがの真田も高遠城以外がほぼ全て開城するとは思っていないだろうが。
「ああ、が、あくまで俺は前田殿に真田家の現所領安堵を口添えするまでで良いのだな?」
「はい。良かったです、所領安堵が認められなければここで両軍をひたすら足止めしなければならなくなるところでした」
暗に、失敗したらお前たちの進軍をここで止めてやる、という脅しのようなことを言いながら玄蕃は頭を下げる。
「それなら前田殿に降伏の使者を送ってくれ」
「かしこまりました」
そして唐沢玄蕃は闇に溶け込むようにして去っていった。
こうして長かった二月十七日はようやく終わったのである。
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