揚北の平和
上杉軍は木場・水原城に大した城兵を残さずに追撃して敗走していったため、二つの城には佐々木晴信と高橋掃部助ら元々の城将に元々城を守っていた兵を預けて向かわせた。
敗走した景勝は直江兼続の守る与板城に入った。途中の城に配置していくほど兵力に余裕もなかったため、城はがら空きのままであった。そこから反撃してくるのならば厄介であるが、普通はそのまま越中に向かうだろう。
景勝本隊を退けた俺は笹岡城へ向かった。城兵が出撃したと聞いた時はどうなることかと思ったが、決着がつく前に景勝の本隊が破れたため、城兵のうち斎藤朝信は一千ほどの兵を率いて吉江城へ退却した。
笹岡城は新発田城周辺の上杉方の重要拠点ではあったが、同時に主力が織田家と越中で戦っている間に支えるのは困難な位置であった。一方の吉江城は木場城と三条城の間に位置しており、こちらも上杉方の反攻には重要な位置である。
しかし笹岡城には中条景泰・竹俣慶綱・千坂景親ら上杉方の揚北衆が残っている。
「もはや上杉本隊が攻めてくることもないだろうし、じっくり兵糧攻めにするか」
俺は本庄繁長に援軍を返却し、自軍の四千の兵で城を囲んだ。
越中になだれ込んだ織田軍三万は上杉方に寝返った神保氏の旧臣である小島職鎮の増山城を数時間で落とし、そのまま富山城まで兵を進めた。吉江宗信が越中から去り、越中の司令官的な存在となっていた河田長親は木舟城など周辺諸城を捨て、富山城に兵を集めて防御を固めて救援要請を出した。
景勝は与板城の兼続や斎藤朝信を自軍に加え、代わりに負傷した兵士を吉江城や与板城の守りにあて、越中へ向かった。
一方の蘆名戦線では、色部長実が全軍を率いて赤谷城に籠城。蘆名盛隆は猛攻を加えたものの、城が落ちる前に本庄繁長が津川城に兵を向ける構えを見せたため、金上盛備が急遽戦線を離脱して津川城に向かった。そのため蘆名家の勢いは削がれて城は落ちず、こちらも持久戦となっていった。
四月に入り、佐竹家を中心とする南陸奥連合軍が御代田合戦にて勝利し、田村清顕を降した。これにより陸奥の勢力図は蘆名・伊達VS佐竹という構図から伊達・田村VS蘆名・佐竹という構図に変化していくことになる。もっとも、関東では佐竹家は北条家相手に苦戦を強いられるようになるが。
四月十六日 赤谷城
「まだ落ちぬのか……」
一か月以上も包囲を続けた蘆名盛隆は焦っていた。城内に籠る兵力は色部長実他二千ほど。当初は七千ほどの兵力を集めて一気に力攻めにしていたが、本庄繁長が兵を動かしていると聞いて金上盛備ら蘆名家越後衆を津川城に向けたたため、風向きが変わった。赤谷城は蘆名家の城だったとはいえ、城内に詳しい者たちの多くは津川城に入ってしまったためである。
さらに強引に動員された武将たちは日が経つにつれて厭戦気分を高めていった。対する色部家は武勇の家と言われるだけあり、兵士たちもよく戦い、戦意のない包囲軍の隙をついて兵糧を搬入するなど健闘した。
「かくなる上は伊達家に支援を頼むか」
元々蘆名家と伊達家は越後政策をめぐっては歩調を合わせていた。現在田村家をめぐって対立しているとはいえ、盛隆自身は明確に介入している訳ではない。
しかし肝心の伊達輝宗は相馬家との戦が大詰めを迎えていることを理由に言葉を濁した。盛氏の時代は熱心に越後に介入していた輝宗の変わり身に盛隆は憤慨した。
「おのれ、伊達までわしをみくびるつもりか……上杉も出羽も役に立たぬというのに……」
ちなみにこのころ、出羽では前年に最上義光が上山城の上山満兼を討ち、現在小国城へと足を延ばしていた。有力出羽衆の一人鮭延秀綱も最上家との交渉を始めるなど、大宝寺攻めどころではなくなっていた。
こうして盛隆は外交の当てを全て失い、ひたすら赤谷城に力攻めをかけるしかなくなっていた。さらに金上盛備の不在で箍が緩んだためか、「本国にて誰々が謀叛」との噂がしきりに流れるようになった。おそらく敵軍が流しているもので、本来ならさっさと否定されてしかるべき噂であったが、盛隆の下での戦に嫌気が差していた家臣たちは噂を鎮めるどころか、噂を盾に帰国を言い立てた。
「せめて赤谷城さえ落としていれば……」
盛隆は唇をかんだが後悔してどうにかなることでもない。やはり即席の権力では不十分だったか。改めて自分の意向に忠実な家臣を登用して領地と権力を与え、家中を完全に掌握しなければ、と反省しながら撤退していると、背後から色部軍が追撃してきた。
「馬鹿め。士気が低いとはいえこちらは五千、向こうは二千。城攻めだから勝負がつかなかったのを勘違いして襲ってくるとはな」
が、そこで盛隆は気づいた。いつの間にか家臣たちの一部は勝手に先行して退却していることに。残っているのは殿軍を務めていた佐瀬種常らと盛隆の本隊だけであった。
「おのれ、返り討ちにしてくれる!」
激昂した盛隆の士気は高かったが、兵士たちは友軍が先行して退却したこともあって士気は低かった。色部軍が突撃してくると兵士たちは次々と盛隆の制止も聞かずに逃げていく。
敵に負けたことよりも、自らを見下す家臣たちが嘲笑っているのではないかと思うことの方がよほど悔しい盛隆であった。
この退却戦で敗北した蘆名家は赤谷城周辺の支配権を完全に失い、津川城周辺の領地を残すのみとなった。また、家中の混乱により越後介入の方針もうやむやとなっていくのであった。
四月十七日 笹岡城
景勝の敗走から一か月以上籠城していた上杉軍だったが、蘆名家の敗北の報が届いた翌日、開城の使者が来た。笹岡城だけでなく、周辺地域からの上杉軍の完全退去を条件に城兵の安全な退去を保障した。城兵は吉江城まで退却し、こうして新発田~木場城周辺までの一帯の支配権を丸ごと確保したのである。
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