第178話 心菜ちゃんとビーチボール

「公平兄さまー!」



 俺を呼ぶのは天使。

 そう言えば、ギリシャ神話にセイレーンとか言う、天使ボイスの歌声で船乗りを惑わす怪物がいるとか。

 船乗りたちは、今際いまわきわに「歌声に騙された」と嘆くという。


 俺に言わせりゃ、船乗りはてんでなっちゃいない。

 世の中、タダほど怪しいものはない。

 無料で天使ボイスを聞かせてくれるなんて虫のいい話があるか。

 ちゃんと課金しろ。横着をしようとするから食い殺されるのだ。

 もしくは、俺のように——。


「兄さまー! ビーチボールで遊びたいのですー!!」

「おう! 遊ぼう!!」


 天使はちゃんと天使だと判断した上で、応対すべし。

 まったく、昔の船乗りはてんでなっちゃいない。


「ちょっと、あんたぁ! なに心菜の事をいやらしい目で見てんのよ!!」

「ゔぇえぇい」


 ね?


 このように、天使を天使だと判断してもなお、背後に破壊の女神カーリーが潜んでいる事があるんだから、ちゃんと確認しなくちゃ。

 何の話だったっけ?

 ああ、ギリシャ神話? うん。その話はもういいかな。


「真奈姉さまー! 鬼神兄さまー! ボールで遊ぶのですー!」

「あ、う、うん! いい、よ! 遊ぼ、心菜ちゃん!」

「僕なんかで良ければ喜んで」

 ゆるふわ鬼神コンビも参戦。

 どうしよう、この中で人間なの、勅使河原さんと俺だけだよ。


「行くですー! えーい!」

「ほら、真奈さん、来たよ」

「う、うん! え、えい!!」

 勅使河原さんの後ろで、彼女を支える鬼瓦くん。

 鬼神左手は添えるだけ。


「上手いじゃない! 勅使河原真奈! そぉぉぉれぇぇぇぇっ!!」


「ぱぁぁなっぷ」


「ゔぁあぁぁあぁっ!! 先輩! ぜんばぁぁぁぁいっ!!」


 もはやお約束ともいえる流れである。

 説明が必要だろうか。

 多分必要ないだろう。


「なあ、もうちょい浅瀬でやらねぇか? 足元がおぼつかねぇんだが」

「本当に軟弱な男ね! 腰くらいまでしか水に浸かってないじゃない!」

「心菜はもっとお水がない方が良いと思うのです!」

「全員、浅瀬に移動するわよ! ついて来なさい!!」


 俺の発言力を1とすると、心菜ちゃんの発言力は10になる。

 では、心菜ちゃんの発言力を1とした場合、どうなるかな?

 答えはね、俺が消えちゃう。


「兄さまー! パスなのですー!」

「はぁぁぁぁあぁぁぁぁあああぁぁんっ!!」


「ゔぁあぁ!! すごい! 桐島先輩、トスが上がりましたよ!!」

「ほ、ホント、です、ね! すごい、です! 先輩!」

「やめなさいよ、桐島公平! 天気が崩れたらどうするのよ!?」


 俺がビーチボールをまともに受け止められただけで、この騒ぎである。

 俺、ビーチボールをトスしただけなのに、天候まで操れる程の所業なの?

 おい、ヤメろ、ヘイ、ゴッド。

 BGMにGReeeeNのキセキを流すな。

 なんかクライマックスみたいな空気になるだろうが!

 えっ、俺、トス上げただけなのに!?

 嘘だろ、もっと色々あるよ! ちょっと、ねぇ、聞いてる!?



「失礼。僕はちょっと、お花を摘みに」

 しばらくビーチボールで遊んでいると、鬼神こっそり。

「私もちょっと抜けるわ」

「おう。氷野さんもか。腹でも冷えたかな? あべっしゅあぁぁっ」


「あんたにはデリカシーってもんが本当にないのね! ったく、良いわね!? 私が戻るまで、心菜と勅使河原真奈のこと、しっかり見てるのよ!!」


 氷野さんは、強烈なスマッシュを俺に浴びせて海の家の方へ。

 ビーチボールで良かったよ。

 バレーボールだったら、鼻血吹いてた。


「兄さま! もっと遊びたいのです!」

 心菜ちゃんがボールを拾って、トテトテと駆け寄る。

 俺は氷野さんの言いつけを守って、心菜ちゃんをしっかり見た。

 うん。ボールが3つあるね。



 って、俺は最低か!!



「ど、どうしまし、た? 桐島、先輩?」

「いや、違うんだ! 勅使河原さん!! 俺ぁ確かに見たが! いや、見ちゃいねぇ!!」

「…………は、はい?」


 弁解の時間をくれ。

 心菜ちゃんは、大層立派なものをお持ちである。

 それこそ、ビキニなんか着た日にゃ、世界がひっくり返るほどである。

 だが、スクール水着でも、その破壊力は大変なものなのである。

 俺とて、健全な思春期の男子。

 目が泳いだ末に、あらぬ場所に行きつく事もある。


 が、しかし!

 こんなけがれなき天使を一時でもよこしまな目で見てしまった事実!

 何をすれば、この罪を償えるのか!?


「えぇぇぇぇぇぇえぇぇんっ!!」

 とりあえず、母なる海に向かって土下座。不死鳥フェニックス土下座である。

 しっかり目を開けて!

 海水がめっぽう目に染みるが、これは俺への罰なのだ!!



「あ、あの、ヤメて、下さ、い!!」

「いいや、止めてくれるな、勅使河原さん! ……あら?」


 勅使河原さんの声には若干の怒気が含まれており、俺は慌てて顔を上げた。


「えー。いいじゃん。オレらと一緒に遊ぼうよ」

 よもやの悪い虫とエンカウント。

 日焼けした軽薄そうな男が二人、心菜ちゃんと勅使河原さんに言い寄っている。

 なんだよこの海、割と悪い虫がいるな。


 ともあれ、何というミステイク。

 そんな緊急事態に、俺は何をしていたのか。

 いや、反省は後でいくらでもしよう。

 俺の出番ではないか。


「心菜ちゃん、勅使河原さん、俺の後ろへ!」

「はいなのです!」

「は、はい!」


 心菜ちゃんは、状況を理解していない様子。

 ならば、嫌な思い出を作る前に、対処するのが年長者の務め。


「おいおい、お前、オレらとやろうってんの?」

「いや、そんなつもりは。ここはひとつ、俺に免じて、ゔぇい、あいたっ」


 ごめんね、ヘイ、ゴッド。

 もう一回弁解させてくれる?

 いやさ、俺、目に海水が入ってたもんだからね、ほら、視界がさ。

 ちゃんと前が見えてなかったって言うか。

 そんなタイミングで、足元に波が来たもんだから、フラっとしちゃった。



「てめぇ。このオレにパンチくれるとか、いい度胸だなぁ?」



 ナンパのお兄さんの頬っぺたに、たまたま俺の手がヒット。

 これまでどのシーンでも頑なに専守防衛を守り続けてきた俺であるが。



 いっけね。

 先制攻撃しちった。

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