宝石の銘を持つ親子

白河悠馬

プロローグ 出産を間近に控えて

 ●二〇〇九年 三月三一日(火曜日)


 妊婦にとって胎児とは希望の象徴ではなく、心身を縛りつける鎖のような存在なのかもしれない。


「失礼します、新城さーん。お熱を測りましょーね」


 重い静けさに包まれた個室病室に、若い女性看護師が明るいノック音と共に入ってくる。

 その間延びした声に対して、新城碧(しんじょう あおい)はベッドからゆっくりと身体を起こした。精巧な人形めいた幼い顔立ちには、何かを諦めたかのような憂いが色濃く浮かんでいる。


「新城さん、そろそろ出産予定日ですねー。もうすぐ元気なお子さんと会えますよ」

「元気な子、ですか」

「ええ。そのためにも、母親の新城さんが暗くなっちゃダメですってば。ねー?」


 看護師の最後の呼びかけは、碧の腹に向けてのものだ。大きめの入院着のボタンが弾けそうなほどに膨らんでいる。童顔で小柄な体格を組み合わせると、臨月の妊婦にはやや似つかわしくない、背徳的な匂いが醸し出されていた。


「新城さん、どこか苦しいところとかありますかー?」

「寝返りが打てないのが辛いです」

「あはは、妊婦の方は皆さんそうおっしゃいますね。あと一週間くらいの辛抱ですよー。出産のときには、もーっと大変ですけど」


 碧はベッドの脇に設置された引き出しから、体温計を取り出して腋に挟み込んだ。測定結果が出るまでの空いた時間を繕うように、看護師が陽気な調子で雑談を差し出してくる。


「私は出産の経験がありませんけど、出産された方はよく『鼻からスイカを出したみたいな痛み』って表現なさいますねー。あ、こないだ出産なさった方は、『割腹自殺している気分』っておっしゃっていました」


 出産の例えに自殺を出すのは如何なものか、と碧は思ったが、口には出さない。


「やっぱり痛いですか」

「ええ。今から覚悟しておいて下さいねー。いつ陣痛がきてもおかしくないんですから」


 しばらくの間そんな会話をしていると、体温計の機械音が鳴る。碧が体温計を渡すと、看護師は満足げに頷いた。


「三六度一分、ですか。うん、大丈夫ですねー。じゃあ、何かあったらすぐにナースコールで呼んで下さーい」


 緩い笑顔を振りまき、看護師は病室を出ていく。一人残された碧は、膨らんだ腹をそっと撫でた。その手つきには、我が子に対する母性の温もりが備わっていない。自分の中で育つ胎児に対する色濃い不安で包まれており、口からこぼれ出るのはため息ばかり。


「父親も母親もアレなのに、普通の子が生まれるのかな……」


 沈んだ声でそう呟く。

 胎内の子も、生まれ育てば自身の出生の真実を知ることになるだろう。


 自分の父親は碧で……母親も同じく碧。

 両親が同一人物である、と。


 まったくもって笑えない、馬鹿げているとしか言いようがない、デタラメな話だ。大抵の反応としては、つまらない冗談と鼻で笑うか、不快感を示すだけであろう。


 だが。

 その馬鹿げた話を、真剣な面持ちの碧本人から聞かされたら?


 歪んだ想像が碧の肩に圧し掛かり、倦怠感となって全身を覆った。それを振りほどく活力さえも、今は作る気になれない。


 やがて、ベッドの傍にあるタンスに片手を伸ばす。一番上の引き出しの中から取り出したのは、一冊のノート。薄水色に彩られた表紙には、『二〇〇五年四月一日~』と書かれている。碧が毎日欠かさず書いている日記帳だ。近年はインターネットで公開するブログが主流であるため、こうした紙媒体の日記は廃れつつある。だが、碧は自分の日記を他人に見せるつもりがないため、ブログには興味がない。

 この日記帳には、碧の妊娠の経緯についても細かく記されていた。


 ――悪夢の始まりは、昨年の春の終り頃にまで遡る。

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