優しく心を腐らせて

橋本洋一

優しく心を腐らせて

 ボートから身を乗り出して、暗い暗い湖に身を任せる。ゆっくりと沈んでいく。身も凍える水温だったけど、すぐに慣れて心地良くなる。

 ああ、僕はどうして間違ってしまったのだろう。

 後悔ではなく疑問が頭を巡る。まるで循環する血液のように。

 死に行く者には不要かもしれないけど、思い出してみよう。

 生と死の間の僅かな時間で思い出してみよう――


 人から比べると裕福な家に産まれた。いや、産まれたというより産ませられたと評するほうが正しい。

 母は僕を産んですぐに亡くなった。産後の肥立ちが悪かったようだ。だけどそれを淋しいと思う間もなく、父はすぐに再婚した。まだ物心つく前のことだ。

 優しい義母が実母でないと知ったときは悲しかったけど、それよりも実母が僕を産んで死んだことがもっと悲しかった。

 まるで僕が殺したようなもの――もしくは実母は僕を産むことを目的に生きたと錯覚してしまう。


 僕は何一つ不自由無く生活できた。一人息子だった僕を父や義母は溺愛した。それもまた僕を愛することのみを目的としているみたいで気味が悪かったけど。

 他人が僕に向ける愛情を気味が悪いとか気持ち悪いとか思うようになったのはいつの頃だろうか? 小学生のときにバレンタインチョコを貰ったときだろうか? それとも中学生のときに好きでもなんでもない同級生に告白されたときだろうか?


 要は欠けていたのだ。他者からの愛情を受ける機能が。

 壊れていたのなら精神治療でなんとかなるけど、欠けているものを補うのはどんな名医でもできやしない。

 その証拠に僕には欲がなかった。友も女も金も絆も名誉も信頼も権勢欲も独占欲もなかった。誰かを無条件に好きになることもなければ、誰かを労わろうという気持ちすら起こらなかった。


 まともな両親の子どもとして生まれたのに、なんだか滑稽だった。笑えない冗談ではあったけど。

 きっと僕は満たされることはないのだろう。無欲ゆえに満ちることもなければ飢えることもなかったのだ。飢えなければ満たされないというのは道理だろう。


 ああ。どうしようもなく考えてしまう。もう肺の中には酸素がほとんど無いのに。


 人はどうしようもなく愚かで欲深くて強かで汚い。その一員である自分が汚らわしく思えた。せめて賢く無欲でか弱く綺麗でありたいと願った。しかしそんなのはまやかしだった。

 生きることは戦いである。それを今までの人生で思い知らされた。受験の合格発表のとき、隣で涙を流している子が居て、自分が受かっていたときの罪悪感は筆舌し難い。そもそも自我を持つこと自体、生命として戦う宿命にあるのではないだろうか?


 だから死を選んだのは当然の結果だった。惰性で無気力で生きるよりは死んだほうがマシなように思えた。

 僕の心は周りのせいで死んだのではなく、僕自身が腐らせてしまったのだろう。


 今までのことを思い出しても、死を選んだことを後悔しない。昔のことを思い出したからといって心変わりするわけがない。幼い頃に天使やサンタクロースを信じていたことを思い出しても、大人になったらどうでも良くなるような、幻想に過ぎなかった。


 だから――もういいんだ。

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優しく心を腐らせて 橋本洋一 @hashimotoyoichi

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