ある三つの視点

ウタノヤロク

ある三つの視点

 そっと足元を見るとわたしにそっくりな顔がそこにあった。鏡のように見えるそれは水面で、横にわたしを覗き込むようにして見ている彼女の姿も映っていた。

 

 大きな水たまりだ。そう思っていると、これは水たまりじゃない塩湖だと彼女が教えてくれた。以前、初めて海を見た時に同じことを思った。そんなわたしに彼女は同じことを言ったことがある。わたしにとって湖も海も大きな水たまりに変わりない。それくらい些細なことだ。


 ここはボリビアという国のウユニ塩湖という所らしく、塩湖と名が付いているが湖ではない。どこまでも続く鏡の世界は果てがないように見えて、足元に映る波紋がわたしの顔を歪めていた。ずいぶん遠い所らしい。わたしたちが住んでいる街からずっとずーっと遠い場所らしい。らしいというのは、わたしはここに来るまで微睡まどろみの中にいて、目が覚めた頃にはここにいたからだ。わたしをここに連れてきた彼女は、ここに来るまで結構長かったとボヤいていたが、そんなことわたしには関係ない。欠伸あくびを一つすると、同じく水面のわたしも大きな口を開けていた。


 ここは彼女がずっと訪れたいと願っていた所だ。ここに来るまで色々あった。といっても、わたしと彼女の出会いは実はそれほど長くない。せいぜい数年とちょっとといったところか。それでもこの数年はわたしにとって、とても長い時間だったと思う。

 

 わたしが最初に意識を持ったのは冷たい雨が降るどこかの路地裏だった。ビル群の間に生まれた闇の中はとても暗く、曇天に覆われた空よりも、なお暗く感じさせた。意識を持ったわたしは暗闇の中に潜みながら、雨に濡れた身体を震わせていた。自分がどうしていいか分からず、ぼんやりとビル群の隙間から見える空を眺めていた気がする。わたしがいた場所は人が多く、それ故に決して多くはなかったが食べることに困ることはあまりなかった。だが人の群れを見るたびに、わたしは一人であるということをいつも認識させられた。


 ある時わたしは自分の住処であるビル群の隙間から這い出てみることにした。初めて見る世界はわたしの知っている灰色の世界と違い色味があった。眩しかった。たくさんの人がものすごいスピードで過ぎていった。さまざまな音が響き渡り、空気を大きく震わせていた。それらはどこか非現実なものに見えて、例えるならスクリーンに映し出されたものをただ見ているようなそんな感覚だった。


 わたしはその中に混じってみた。だが人々はわたしを避け、または忌避きひの目を向けてきた。つまるところわたしは人々とは違うのだと気付かされた。


 だが、彼女だけは違った。


 彼女は俯き歩くわたしを見つけると、そっと抱きしめ、そして自分の住む家へと連れ帰った。彼女の家はわたしが潜んでいた路地裏とそう変わらないほど雑多な物で溢れていた。聞けば彼女はこの街に来たばかりでまだ荷物が片付いていないそうだった。よくわたしの顔を見ては猫の手も借りたいとボヤいていた。


 それから彼女との生活が始まると、日々は慌ただしく過ぎていった。毎日彼女は光る箱の前に座ってにらめっこしていた。時々外に出かけて夜遅くに帰ってくることもあったが、だいたいは家にいた。わたしは日がな一日窓の外を眺めたり、たまに光る箱の前に座ってみたりした。その度に彼女はわたしを困った顔で避けようとするのだが、諦めたように頭を撫でたりしてくれた。ときどき変な匂いのする水を飲んだ彼女がわたしを抱きしめていた。彼女から変な匂いがしてわたしは一応嫌がってみせるのだが、内心ではそれを心地よく感じていた。わたしが感じたことのない温もりというものだろうか、誰かに触れられるのは嫌ではなかった。


 ある時わたしがいつものように窓の外を眺めていると、いつも家にいるときは箱の前にいるはずの彼女も一緒に眺めていた。彼女はなにを見てるのか? とたずねてきたが、なにを見ているのかと聞かれても外を眺めているとしか答えられず、問いかけに困った。その日は朝から雨が降っていた。雨を見るとあのビル群の中にいた頃のことを思い出す。けっして嫌な思い出ではないが、あの頃のことを思うと少しだけ寂しさを感じる。ふと、雨の中に不思議な色がまじっていることに気づいた。キラキラとした光の中に浮かんだ色。それはわたしが初めて見るものだった。そっと手を伸ばしてみる。窓に触れた。彼女が笑っていた。あれは虹だと教えてくれた。虹とは雨に光が当たると浮かび上がるものだということらしいが、途中から眠たくなって眠ってしまった。でも初めて見た虹はとてもきれいだった。


 彼女とともに暮らすようになってずいぶんの時間が経った頃、彼女はいつもと違うご飯を用意してくれた。わたしがなんだこれ? と見ていると誕生日だよと教えてくれた。誕生日の意味がわからないでいると、誕生日とは貴女が生まれた日だと言われた。わたしはわたしがいつからわたしとして存在しているのか、気がついたときからわたしとして存在していたわたしには、その誕生日というものがわたしにとってどれほどの意味があるのか。困惑していると、貴女にとっての誕生日は私と出会った日が誕生日だよと彼女が言った。わたしと彼女が出会った日がわたしの誕生日。でもそれじゃあ誕生日じゃなくて記念日じゃないのかと思う。が、目の前に差し出されたいつもと違う豪華なご飯を前にするとそんなことは些細なことだった。彼女はわたしの頭を撫でながら微笑んでいた。


 それからしばらくしてのある日、彼女の様子はいつもと違っていた。いつもならパソコンとにらめっこしているはずなのに、今日はずっとふさぎ込んでいた。そっと彼女に近づくと頭を撫でられた。どうやら自分の描いた作品が全然受け入れられなかったそうだ。わたしには彼女がなにを描いているのかわからない。ただふさぎ込んでいる彼女を見ていると、そっと彼女の手に触れたくなった。彼女は痛いよと笑っていた。わたしは大丈夫だよ、と呟く。けれどその声は彼女には届かないだろう。それでもわたしは彼女に伝えたかった。彼女がわたしにしてくれたみたいに彼女になにかしてあげたかったんだ。それからまた彼女はずっとパソコンの前に座るようになった。わたしはそれを邪魔しないようにいつものように窓の外を眺めていた。


 時間が過ぎていき、ある日また彼女が見たこともない豪華なご飯を用意してくれた。今日はわたしの誕生日でもなんでもないのに? と不思議に思っていたら、どうやら彼女の描いた絵が賞をとったらしい。今日はそのお祝いだそうだ。その絵は一匹の猫が三つの場所の中にいて窓のそばで佇んでいたり、暗い闇の中を歩く姿が描かれていた。あと一つはなんだろう、そう思っていると、これは貴女と行ってみたい場所だよと教えてくれた。


 これはわたしと彼女の記憶だ。


 彼女は言った。これは貴女と出会ったから描くことが出来たものだと。貴女と出会わなかったらこんな風景には出会えなかった。ありがとう、と。


 そうか。こんなわたしにも生まれた意味があったのか。誰かから必要とされているだけでわたしはいてもいいのだと思った。


 水面に映る自分の顔を見つめていると彼女がわたしを抱え上げた。そしていつも「どうしたの?」と聞くのだ。


 ここに来れてよかったね。彼女が言う。きっと家に戻ったらまた忙しくなるのだろう。わたしはそれを傍で見ている。尻尾をパタパタさせながらたまにパソコンの前で邪魔をする。それでいいんだ。


 また来ようね。その言葉にわたしは「ニャア」と返事するのだった。

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