【SF(少し不思議)】孤独な宇宙生物は悲しみの海をまとう

【あらすじ】

私は見聞を広めるために遠い星から地球へやってきた。

ヒトに擬態して暮らすものの、どこに行っても私は「変な奴」と言われた。

地球での友達ができず故郷が恋しくなった私は、星を見に海へでかける。

望郷の念が溢れ、とうとう私は故郷の星へ擬態しようと体を巨大化させた。

溶け出した体が海と混じり合い、波が陸地を浸食しようとしたそのとき、私の視界の隅に一人の老人の姿が映った。


★『寂しがりな宇宙生物は星空を見上げる』の姉妹作品です。

同一の主人公と世界観をもつ作品に、二通りの結末があり、どちらを掲載するか迷ったので両方掲載しています。

(冒頭から「このまますべてが悲しみに呑み込まれてしまえばいいと思った。」まではほぼ同じ文章です。)


相違点は下記の通りです(※ネタバレあり)。

『孤独な宇宙生物は悲しみの海をまとう』

・メリーバッドエンド

・主人公が海で老人と出会う

・主人公は故郷の星へ帰ることを決意する

『寂しがりな宇宙生物は星空を見上げる』

・ハッピーエンド

・序盤にイヌやネコについての記述を追記

・主人公の仲間から通信が入る(老人とは出会わない)

・主人公は仲間のいる宇宙移民船へ向かう


※どちらか片方だけでもお楽しみいただけます。

※小説投稿サイト「ノベルアッププラス」で開催されたGENSEKIコン(『海をまとう』)の参加作品です。現在ノベルアッププラスでは非公開にしています。


――――――――――――――――――


『みなさん、こんにちは。

 お元気ですか? そちらの様子は変わりありませんか?

 こちらは元気にやっています。


 私は今日も「女子高生」というものに擬態して学校に行きました。

 相変わらず地球は変な星です。

 こんなに小さな星なのに、言語が5000~8000種も存在すると言われているんですって。そんなに分けたら不便じゃないかしら。


 それでね、地球の学校にはわざわざ他の言語を学ぶ時間があるの。

 しかも、人間ヒトの寿命を考えるとそれなりに長い時間よ。


 どうしてそんな効率の悪いことをするのかしら、なんて悩んでいたら、うっかり顔がぐにゃりと溶けてしまいました。教室中から悲鳴が上がって驚いたわ。


 全員の記憶を改竄かいざんしているうちに授業時間が終わってしまったから、教師には悪いことをしてしまったかも。

 今日の教訓。ヒトのいる場所では深く考え事をしないこと。


 ところで、私が地球で暮らし始めてから、もうずいぶん長くなります。

 最近「うっかり」が続いているのも、きっと寂しいからだと思います。

 そろそろ故郷に帰りたいのですが、いかがでしょうか?

 故郷の風景や食べ物が恋しいです。みんなに会いたいです。

 どうかお返事をください。待っています。


 今日の通信は以上です。読んでくれてありがとう』


   *


 メッセージの送信を終え、星空を見上げる。

 このあたりの土地は都心に近く、夜でもぼんやり明るくて故郷の星がよく見えない。

 体の奥からツンと寂しい気持ちが込み上げてきて肩がどろりと溶け出す。私は慌ててそれを元の形に戻した。


 私が地球に来てから3287日が経過した。

 活動報告の送信は地球時間で一日一回。これまで一度も欠かさずに送っている。


 最初の頃はたまに返信が届いていたけれど、だんだん間隔がまばらになっていった。

 やがて、気付いたら一通も届かなくなってしまった。

 みんな忙しいのかもしれない。

 それとも、私のことなんてもう忘れてしまったのかな。


 私が地球へやって来たのは、見聞を広めるためだ。

 この星の言葉だと「修学旅行」「社会見学」とか「留学」だろうか。本当はみんな地球に行きたがっていたけど、たまたまクジで選ばれたのが私だった。


 だからこうやって、少しでも地球の様子がわかるようにせっせと活動報告を送っている。

 たとえ返事をもらえなくても。


 地球はとても不思議な星だ。

 まず「海」。水という無色透明の液体がこんなに大量に存在しているというだけでも驚きなのに、海の中にはたくさんの生物がいる。


 海だけじゃなくて、陸にもたくさんの生物がいる。

 小さな星なのに、どうしてこんなに生物がいるのだろう。私が乗ってきた宇宙船と同じくらい大きな生物もいるし、目に見えないほど小さな生物もたくさんいる。


 私は地球上のあらゆる生物に擬態して暮らしてみた。

 鳥や獣、昆虫や樹木、あるいはクジラやイソギンチャクに擬態したこともあった。

 そうしてわかったことは、この星ではヒトという生物が一番幅を利かせているということだった。

 ヒトは他の生物たちと比べて身体能力は著しく劣るけれど、知能が高い。


 地球には以前にも私たちの仲間が滞在していたことがあって、そのときはヒトに擬態して暮らしていた時間が長かったようだ。

 私もその頃の記録を参考にして、ヒトに擬態することにした。


 細長い胴体に、二本の腕と二本の脚。

 頭部をくるむ黒髪。

 そして灰色の「服」が体のほとんどを包んでいる。

 資料によるとこれは「セーラー服」と呼ばれるものらしい。


 以前の仲間と同じ姿に擬態すれば、仲間が私を守ってくれるような気がした。


   *


 地球には不思議で不可解なことが多いが、ヒトの文化はいっそう不可解だ。

 うまく擬態しているつもりでも、周囲からは不審な目を向けられることが多い。

 たとえば、そう、あれはたしか「小学生」というものに擬態していたときのことだった。


 私たちは課外学習で海に来ていた。

 他のクラスが集合写真を撮影しているあいだ、教師の目を盗んで何人かの子どもたちが波打ち際に走っていった。そうするものなのだと思い、私もそれに参加した。


 海岸の近くに、白い灯台がそびえているのが見えた。

 そちらに気を取られているあいだに、予測外のスピードで波が押し寄せてきた。その日は海が荒れていて、海岸には遊泳禁止を知らせる赤い旗が立っていた。


 波打ち際にいた子どもたちは、みんな膝下まで波をかぶって、ズボンもスカートも靴も靴下もびしょ濡れになった。

 彼らは慌てて集合場所へ戻ったのだけど、群れを離れたことがバレて教師にこっぴどく叱られた。

 そのことに不満を持った子どもの一人が私を指して言った。


「なんであいつは叱らないんだよ」

「先生は海に入った子を叱っているんです。勝手に海に入ったら危ないでしょう」

「あいつも海に入ってたよ!」

「嘘をつくんじゃありません。あの子はどこも濡れてないじゃない」

「嘘じゃないもん! 絶対あいつも海に入ってたもん!」


 彼は強情で、譲らなかった。

 このままでは集団行動の予定に遅れが生じてしまう。面倒になった私は彼に催眠術をかけることにした。私の催眠術はとてもシンプルで、目が合った相手に別の記憶を植えつけるというものだ。


 本来は下等な生物をうまく扱うための能力だけど、なぜか地球のヒトには催眠術がよく効いた。特に彼らは、与えられた記憶が真実かどうかは関係なく、自分にとって都合のいいことほどあっさり信じてしまう。


 私と目が合った子どもは「こっち見んなブス!」と吐き捨てて他の仲間のところに走っていった。

 何事かと私の方を見た教師も、子どもたちを叱っていたことなどすっかり忘れて生徒たちを集合写真の撮影場所へ並ぶよう促し始めた。


 海に入れば服が濡れ、しばらく乾かない。

 私はそれを学習した。


   *


 そうやって何度も記憶を上書きしてしまうせいか、私には地球での友達ができなかった。どんなに学習しても、どんなにうまく擬態しても、いつまでも私は「変わった奴」という扱いをされた。


 地球は不可解な星だ。

 地球で暮らす生物はどれも変わっているし、そのなかでもヒトは特に不可解な生物だ。それなのに私のことを「変わった奴」扱いする。

 そのことがとても理不尽だった。


 私は故郷の星へ向けて何度もメッセージを送った。

『寂しいです』

『みんなに会いたいです』

『そろそろ故郷に帰りたいです』

『まだ、私はひとりぼっちで地球にいなくてはなりませんか?』


 でも、3287回の通信に対して、返事が来たのは30よりも少ない。

 みんな、私のことなんて忘れてしまったのかな。

 私が暮らしている場所からは、故郷の星がよく見えない。


 ある日、唐突にそれは起きた。

 望郷の念は堰を切ったように溢れ出し、私の両足をどろどろに溶かし始めた。

 故郷は恋しいけれど、帰ることはできない。

 それならば、せめて故郷の星が見たい。


 もっとよく星が見える場所――そうだ、海に行こう。

 私はそう決心した。


   *


 コウモリに擬態して、まっすぐ海を目指す。

 街の灯りが少しずつ遠ざかり、海に近付くほど星の光がはっきりと輝きを増してゆく。

 眼下に夜の海が広がって、潮風がツンとしたにおいを運んでくる。

 ざわめくような波の音。海岸に幾重もの波が打ち寄せているのが見える。


 海は不思議だ。

 私が地球に来て初めて見たのが海だった。


 ずっと波がうごめいていて、いつ止まるのかと観察していたけれど、片時も止まることがなかった。

 だから私は、海自体が巨大な生物なのではないかと思っている。


 闇夜の中、淡い月光に照らされて灯台が白く浮かび上がる。

 私はその側に降り立った。

 今は灯台に擬態させているが、これはかつて私が地球へ来るときに乗ってきた宇宙船なのだ。


 夜空を見上げれば、きらめくような星空が広がっている。

 故郷の星も――正確には、その近くにある恒星の光も、ここからよく見える。


 天を貫くように、眩い光が駆け抜けてゆく。

 一瞬、灯台の光が故郷の星につながる道をまっすぐ照らしているのが見えた。

 あの道を進んでゆけば、私は故郷の星へ帰ることができる。


 でも、それができないことは知っている。


 あの日、私はみんなが話しているのを聞いてしまった。

 星の近くに生じたブラックホールが以前よりも拡張していて、どうしても避ける方法がないということ。いずれ恒星も惑星も衛星もすべてが恐ろしい重力に呑み込まれて押し潰されてしまうということ。


 遠くの星へ避難しようという話も出た。

 だけど、ブラックホールが拡張する速度は初期に予測されていたよりもずっと深刻で、その魔の手から逃れるほど遠くまで行ける宇宙船はとても頑丈に造らなくてはならない。

 そうして出来上がったのが、たった一人を宇宙のかなたへ送り出して生き延びさせるための船だった。


 みんなはきっと私が適任だと思ったのだろう。

 私は体を小さくするのも大きくするのも得意だし、仲間の誰よりも擬態が上手だから。

 きっと、どこの星に行ってもうまく生き延びると、そう思ったのだろう。


 みんなでクジ引きをして、私が宇宙船に乗ることになった。

 でも本当は、最初から私が選ばれる予定だったのだと思う。

 あのクジは私に罪悪感を抱かせないための嘘だった。


 私が地球に来たのは見聞を広めるためなんかじゃない。

 遠くの星に逃れてみんなの分まで生きて、誰も読まない報告書を送り続ける。

 ただそれだけのために、私は宇宙船に乗って遠い地球まで来た。


 故郷を旅立つ日、私は船の中で自分宛ての手紙を見つけた。

 そこには「我々の分までいろいろなものを見てきてほしい」「お土産話を楽しみにしているよ」「地球での滞在を楽しんでね」などと書かれていた。


 別れの言葉なんて、一言も書かれていなくて。

 だから私は、もう二度と故郷へ帰れないという実感がわかなかった。

 仲間から「帰っておいで」という通信が届くのをいつまでも待っていた。


 ――でも、もう待ちくたびれたよ。


 本当はわかっている。

 故郷の星は、きっとすでにブラックホールに呑まれて消滅してしまったんだ。


 光は一秒間に秒速29万9792キロメートルの速度で進むけれど、それでも広大な宇宙を渡ってくるのには気の遠くなるような時間がかかる。

 今こうして地球から見上げている星の光は、数百光年、あるいは数千光年という距離を旅してようやく届いたものだ。

 だから、そこに光が見えていても、星そのものはすでに存在しない場合だってある。


 ブラックホールは、数万、数億の星を呑み、その終わりには小さな新しい恒星が生まれる。私の故郷の星にはそういう言い伝えがあった。

 そうやって、古い命が消えて新しい命が生まれる。

 だから、滅びは新しい命の始まりだと教えられてきた。

 それなら、私だってみんなと一緒に星に生まれ変わりたかった。


 ひとりは恐い。寂しい。悲しい。帰りたい。

 みんなに会いたい。

 でも、帰ることなんてできない。


 お別れくらい言いたかった。

 今までありがとうって伝えたかった。

 もう二度と会えないんだって、心の準備をさせてほしかった。

 元気でねって言って送り出してくれたみんなの優しさが忘れられない。


 海になんて来なければよかった。

 ただ悲しい現実を思い出しただけだった。


 地球ここでは友達ができなかった。

 それなのに恋人や家族なんてできるわけがない。

 私はこの星でずっと一人ぼっちだった。

 きっと、これから先も。地球で生き続けてゆく限り、ずっとずっと。


   *


 今、私に残されている故郷の星との繋がりは、灯台に擬態させていた宇宙船だけ。

 仲間が残してくれた、生きる希望。

 私だけが生き残ってしまった絶望。


 灯台の前に立ち、外壁にそっと触れる。

 それだけでは足りなくて、私は星々のまたたきに誘われるように自分の体をゆっくりと巨大化させる。そして全身で灯台を抱きしめる。


 悲しみが体の奥から溢れてきて体を溶かしてゆく。

 擬態していた私の体の一部が、足先が、膝が、それを包むセーラー服が、赤いスカーフが、じわりと涙のように溶け出す。

 それは波紋のように少しずつ広がり、やがて海岸線へと向かって広がっていった。


 私の体が海と混じり合う一瞬、海が凪いだ。

 鏡のような海面に夜空の星が映って、まるで宇宙が落ちてきたみたいだ。


 私の悲しみと共鳴するように波がさざめく。

 そのたびに、粉砂糖のように繊細な白い波が舞う。

 海はじわじわと這い上がり、私の体を呑み込もうとする。


 ああ、故郷がブラックホールに呑まれるときもこんな感じだったのかもしれない。

 星を映した冷たい宇宙に全身を覆われ、私は身じろぎもせず悲しみの海をまとう。

 このまますべてが宇宙と混ざり合ってしまえばいいと思った。


 灯台を抱きしめたまま、私はさらに体を巨大化させてゆく。

 もっと大きく。灯台よりも大きく。海よりも大きく。もっと、もっと、もっと。

 手を伸ばしたら月がつかめそう。星にだって手が届くかも。


 そうだ、どうせなら星に、懐かしい故郷の星に擬態しよう。

 海と一体化した私の体は海岸線をゆっくり浸食し、陸の方へ向かう。

 どうせ地球に大切なものはひとつもない。このまますべてが悲しみに呑み込まれてしまえばいいと思った。


   *


 そのとき、視界の隅でなにかが動いた。

 それは小さなヒトだった。


 灯台のすぐ隣には管理棟がある。

 いつのまにかその建物に灯りがついていて、そのヒトはどうやらそこから出てきたようだった。


 月明かりの中でもはっきりわかる白髪。老人だ。

 背筋はしっかりしているものの、彼は驚きのあまりその場から動くことができなくなってしまったらしい。


 枯れ枝のような腕がこちらに向かって伸ばされるのを、私の目がとらえる。

 その姿が、ブラックホールに呑まれた故郷の星の仲間たちと重なった。

 このまま星への擬態を続ければ、このヒトは海に呑まれてしまう。


「……っ」


 迷っている暇はなかった。


 老人から決して目を離さぬよう慎重に、私は自身の内側に湧き出る悲しみを少しずつ飲み込んでゆく。そうやってゆっくり心をなだめ、悲しみをすっかり飲み干す頃には、私の体は元の大きさに戻っていた。


 形作るのは、いつもの姿。

 ごく平均的な身長の、ごく平均的な体型の女子高生。

 セーラー服と赤いスカーフ。白い靴下と黒い革靴。


 私が平素の姿に戻っても、老人はその場から動けずぽかんとした表情で私を見ていた。見たところ、六十年、あるいは七十年ほど生きている個体だろうか。

 ゆっくり視線を合わせ、私は相手に声をかける。


「こんばんは」


(あなたは、なにも見ていない)

(夜の海で、どこにでもいる一人の女子高生を見つけただけ)

 穏やかな視線でそう言い聞かせる。


 はて、と老人は首を傾げた。


「よく見たらまだ若いお嬢さんじゃないか。こんな時間にどうなさったね」

「星が見たくなって、散歩をしていました」


 嘘は言っていない。

 老人もひとまず納得したようだった。


「そうかい。でも、若いお嬢さんが夜に出歩いたらいけないよ」


 優しく諭すような言葉だった。

 私はひとつ頷いてそれを静かに受け取る。


 若い女性が夜に出歩いてはいけない。

 私はまたひとつ、地球のルールを学習した。


   *


 私が灯台に擬態させている宇宙船は、今では「地域の住民たちの手によって建てられた」ということになっている。

 地球に来たばかりの頃の私がこの地域の住民たちに軒並み新しい記憶を与えたからだ。

 おかげで灯台は今やすっかり観光名所となっている。


 灯台のすぐ横には「管理棟」と呼ばれる建物がある。

 これはヒトが灯台をするために建てたもので、近隣の観光案内所も兼ねているらしい。

 老人は、この観光案内所の職員だと名乗った。

 私は彼に招かれて管理棟の中に入った。


 管理棟は3つのスペースに区切られている。

 入り口の近くは、地図が貼られたり、パンフレットや記念スタンプなどが置かれていて、観光客のためのスペース。

 カウンターで仕切られた向こう側は事務所のようになっていて、いくつかの机と椅子、書類棚などが並んでいる。壁には、今までに灯台を訪れた観光客たちの記念写真が所狭しと貼られている。

 さらにその奥は小部屋になっており、簡易的な住居として使用されているのだそうだ。老人はそこに生活用品を持ち込み、この管理棟で寝泊まりしているのだという。


 私は事務所のスペースに通され、椅子に座った。

 緑茶は飲めるかと聞かれて頷くと、陶器の湯飲みに入った熱いお茶を出された。


「熱いから気をつけてね」

「ありがとうございます」


 お礼を伝え、緑茶から立ち昇る湯気ごしに、正面に腰かけた老人を見つめる。

 私は彼のことを

 あの灯台はもともと私の宇宙船なのだから当然だ。ヒトだって、自分の隣家の庭に野良ネコがみ着いていたら、たぶんそのネコの顔くらいは知っているだろう。


「お嬢さん、小学生の頃にもここに来なかったかい」

「えっ……」


 老人からの予想外の問いかけに驚いた。

 たしかに彼の言う通りだ。でも、ヒトは私たちと比べて記憶することが極めて苦手な生物だ。その証拠に、偽物の記憶を与えると彼らはそちらを信じてしまう。

 なのに、なぜ彼は私のことを覚えているのだろう。


 彼は事務所の壁の一画を指した。

 そこには日に焼けた集合写真が貼られていて、小学生に擬態した私の姿も写っていた。


「波をかぶっても濡れなかった子だね」

「…………」


 まさかあの日のことを見られていただなんて。

 奇妙な縁もあるものだ。


「たしかに波をかぶっていたはずなのに服が濡れていないから、不思議に思っていたんだ。さっきだってお嬢さんは海に浸かっているように見えたけど、服は濡れていないね。それで思い出したんだよ」

「…………!」


 記憶の上書きができていない。

 彼は先ほどの光景を

 たまにこうやって、偽の記憶を受け付けないヒトがいるのだ。


「あのっ!」

 私は思わず立ち上がった。

「おや。どうなさったね?」

「わ、私はあなたに危害を加えるつもりはありません! 本当です! 絶対にお約束します!」


 私は何度か、ヒトの見ている前で擬態をしたことがある。

 その反応はだいたい共通していて、悲鳴をあげるか逃げ出すか、怯えて固まるか、あるいは気を失うかのどれかだ。


 それに、ヒトが自分よりも大きな生物に畏怖いふの念を抱くことは知っている。この老人だって、星に擬態しようとしている私の姿を見て驚いて固まっていたじゃないか。

 でも、私はただ故郷の星が見たかっただけで、誰かに恐怖を与えるつもりなんてない。

 すると老人は不思議そうな顔をして、それから大口を開けて笑った。


「ははは、わかった、わかった。お嬢さんは優しいね」


 大丈夫だからお座んなさい、と彼は私を優しく促す。

 まさか、そのような反応をされるとは思っていなかった。


「……あの、あなたは私のことが恐ろしくないのですか?」


 おそるおそる尋ねると、老人は小さく首を振った。


「恐ろしい? たしかにはじめはあまりにも大きくて驚いたけど、お嬢さんはすぐこちらに気付いて波を鎮めてくれたからね。危害を加えるつもりがないのはわかったよ」

「……そんなことを言われたのは初めてです」

「おや、そうなのかい?」

「こうやって誰かとゆっくりお話をするのも初めてなんです」


 のんびりとお茶を飲み、老人はふぅむと唸った。


「こんなじじいでよければ、友達になってくれるかな」

「えっ、いいんですか?」


 突然の申し出に、嬉しくなって顔の輪郭がとろりと溶ける。

 それでも驚かずに、彼は優しく微笑んでくれた。


「孫娘のほうが、年も近くて良かったかもなぁ」

「お孫さんがいるんですか!? ぜひ会ってみたいです!」


 ヒトを含め、地球で暮らす生物は血縁関係にある者同士や一緒に暮らす者同士は性格や好みや考え方が似通うという。

 だから、もしかしたらこの老人の孫とも友達になれるかもしれない。

 私は期待に胸をはずませた。

 しかし、老人は静かに首を振るばかりだった。


「すまないね。孫娘はずいぶん前に海で亡くなってしまったんだよ。もう十年くらい前になるかな」

「……そうでしたか」

「生きていればちょうどお嬢さんと同じくらいの年頃でね。あの子が亡くなった翌年にこの灯台ができたんだ。これも何かのご縁だと、ここで働かせてもらっているんだよ」


 遠い昔を思い出すように、彼は目を細める。

 その視線の先には、事務所の壁に貼られた写真がある。そこには彼がこの灯台の傍で過ごした年月が濃縮されているかのようだった。

 そうやって彼は、灯台を訪れる者たちをずっとを見守ってきたのだろう。

 だから、悲しみの海に呑み込まれようとしていた私のことにも気付いてくれた。


 老人は海で孫娘を亡くした。

 そして、私は故郷の星と仲間たちをブラックホールに呑まれた。

 私たちは、どことなく似ているような気がした。

 それは私が地球に来てから初めて抱く「親近感」だった。


 灯台の窓から吹き込む風が、フクロウの鳴き声に似た低い音を立てている。

 まるで胸の中に穴が開いているみたいな音。

 私たちも同じ。胸の中に寂しい穴が空いている。


「私を見つけてくださってありがとうございます」

 そう伝えると、老人は穏やかに微笑んだ。

「それが役目だからね。もう誰も迷わないように、どんなに遠くへ行ってもちゃんと帰って来られるように、この灯台から絶えず光を送り続けているんだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、故郷の星の光が脳裏によみがえった。

 あの光だって、今はまだ届いているけれど、いつかは届かなくなってしまう。

 それは私の寿命が尽きた後かもしれないし、それよりも前かもしれないけれど。

 もし光が消えてしまったら星の位置は二度とわからなくなる。

 どんなに帰りたくても、帰れなくなってしまう。


「……私も帰りたいです。今からでも帰れるでしょうか」

 ふと、そんな言葉がこぼれた。

「帰り道がわからないのかい」

「故郷へは星の光が導いてくれます。でも――」


 気付けば、私は堰を切ったように自分のことを話していた。

 遠い星から来たのだということ。

 あの灯台は、今は擬態させてあるけれど本当は自分が乗ってきた宇宙船なのだということ。

 仲間が私を送り出してくれたこと。

 故郷の星はブラックホールに呑まれてしまったということ。

 でも、星の光はまだ地球に届いているのだということ。いずれはその光も消えてしまうということ。


 突然こんな話をしたって、信じてもらえないかもしれない。

 私はどこに行ったって「変な奴」だと言われてきたから。

 それでも一度あふれ出した気持ちは止めることができなかった。

 ああ、どうしたら信じてもらえるだろう。


 めまぐるしく考え続けていると、ふと老人の手が私の頭をなでた。

 彼は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、涙を流していた。


「そうか。帰れないのか。それは辛かったね」


 ヒトは感情が昂ると目から水を排出する。

 初めて見たときは奇妙なシステムだと思ったけど、今は違う。

 このヒトは私の悲しみを理解し、ともに悲しんでくれるのだ。今までずいぶん長く地球で暮らしてきたけれど、そんなヒトに出会ったのは初めてだった。


 私は嬉しさで膝が溶け出しそうになるのをぐっとこらえる。

 それでもどうしようもなくスカートが波立つ。


「寂しいんだね」

「……そうかもしれません」

「まだ光は届いているだなんて、それじゃあ余計に辛いね」


 老人がくれる言葉を、私は強くかみしめる。

 そして気がついた。なぜ私は帰ろうとしなかったのだろう。そんなに帰りたいのなら、いつまでも未練がましく返事を待っていないで故郷に帰ればよかったのだ。


「私、故郷に帰ることにします」

「え? でもそれは……」

「まだ光が届いているから。今のうちじゃないと、帰れなくなってしまうから」


 強い口調ではっきりとそう告げる。

 もう迷わない。悲しむ必要なんて最初からなかったんだ。

 私は自分の意思で故郷に帰れるのだから。

 老人は寂しそうに笑った。


「……そうか。そうだね。帰れるなら、そのほうがいいのかもしれない」


 彼の目からまた一粒、涙がこぼれる。

 地球での最初で最後の友達を慰めるように、私は精一杯の言葉を探す。


「話を聞いてくれてありがとうございました。あなたと会えて嬉しかった」

「構わず行きなさい。光が消える前に、早く」


 彼は真っすぐに管理棟の出入り口を指した。

 大きく頷き、私は管理棟を出る。


 外に出ると、潮風が吹きつけてきた。

 夜の海が、私を急かすように唸っている。


 灯台へ手をかざせば一瞬にして擬態が解け、宇宙船は本来の姿を取り戻す。

 白銀に光る船は、故郷へ向かうための道標のようだ。

 私は彗星のようなステップで一気に中央の操縦席へ潜り込み、動力を目覚めさせる。

 海の波が白く泡立ち、小さな流星に姿を変えてパチパチと船に当たって弾け飛ぶ。その衝撃が動力となり、船を夜空へと押し上げる。


 目指すは、故郷の星。

 船を導く光の先、仲間たちが待つ場所へ。

 もう迷わない。まっすぐ、私が生まれ育った故郷の星へ。


 宇宙空間に出るのは久々だ。

 これから私は故郷に帰るまで孤独な旅をすることになるだろう。

 それでも、きっと寂しくなんかない。


 真っ暗な宇宙をくあいだ、地球でたった一人の友達との思い出が、きっと私の心を照らしてくれるはずだから。

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