決着


 買い物を経てから、十四日までの間はずっと気をもんだ。急に駄目だと言われるかもしれないと、暇さえあれば、ちらちらスマホを見てしまうほど、半ば憑りつかれたような心持ちでいた。そのせいで仕事も何回かミスをするし、目も当てられない。


 だが、天はわたしの味方をしてくれた。前日の夜遅く、明日迎えに行くときに連絡すると連絡が入った。わたしは相変わらず三日前からスチーマーと美顔器を引っ張り出して、スキンケアを入念に行ったり、メイクや服装について考えていた。本当に自分でも馬鹿げていると思ったが、もはやこれは、デートの前に行う儀式みたいなものだった。


 当日、十四日の朝、彼から、これから迎えに行くと連絡が入った。デートの日は、必ずわたしの家まで迎えに来る。これがわたしたちのデートの鉄則だった。現地集合でいいと何度か言ったが、なぜか折れてくれないので、そのままになっている。


 一時間後、彼が着いたと連絡をしてきた。わたしは家を出て、彼の運転する車に乗った。


「どこか行きたいところ、ある?」


 静かに聞いてくる彼に、わたしは頷いた。


「良太さんの家に行きたい」


「……、すごい今汚いから、別の所じゃだめ?」


 気まずそうに、彼は言う。


「だめ」


「本当に汚いよ」


「関係ないからいいの」


 念押しするように言う言葉に、わたしはきっぱりと突っぱねた。渋々、彼は今まで来た道を戻ってくれた。その間、他愛ない話をしたが、互いに言葉少なだった。正直なところ、この前はごめんぐらいの一言くらい言えよと思ったが、それは胸の中に一度収めた。言いたければ、後で言えばいいと思ったからだ。


 半年ぶりに訪れた彼の部屋は、前より雑然としていた。本当に忙しかったのだろう。生ごみはちゃんと出しているようだったが、腐らないプラスチックや缶系統のごみ袋が何袋もあって、部屋を狭めていた。そして部屋の中に作業着がいくつも干されているのも、部屋を狭めている原因の一つだった。


 前に料理を作ってほしいと言われたときに、調味料もなんもないのに作れるわけないだろというのを、オブラートに三重くらい包んで言ったことがあるが、キッチンもたぶん変わっていないだろう。廊下を通るときにちらりと見たが、相変わらず自炊はできていないようだ。床に置きっぱなしの服が、それでもちゃんと畳んであるあたりは、やっぱり几帳面な彼を物語っている。


 半年から少し前にも、家に遊びに行きたいと言ったときも、部屋が今汚いからだめだと言われたことがある。ただその後、彼が高熱を出して休んだのを会社で聞いて、思わず押し掛けたことがある。

 スポーツドリンクとレンジで温めて食べられるお粥を三日分くらい買って、これから行くと連絡だけした。そのとき、駅に着く時間がわかったら連絡してと言われて素直に連絡したら、高熱でふらふらなくせに、わざわざ、わたしを駅まで迎えに来るというわけのわからない所業をしでかしてくれたのだ。


 でも心配してくれるのが嬉しくて、なにも言えなかった。その日は、幸い次の日が休みなのもあり、心配だから泊まって看病した。そうしたら次の日にはとても元気になって、びっくりしたものだ。そのとき彼は、「美紀が来たから元気になったんだ」と、調子のいいことを言っていた。


 そんなことがあったこの部屋で、照れくさそうにしながら、座布団を出して座らせてくれた。


 会ったらいろいろ、文句を言ってやろうと思っていたのだ。


 なんで、会ってくれないの。わたしって、そんなに優先度低い? そんなに会いたくないようなことした? 誕生日もクリスマスもスルー、いや忙しいのだってわかってる、でもかまってほしいのよ! そう色々、文句を言ってやるつもりだった。


 でも、彼の姿を三か月振りに目にしたら、言えないかもしれないという気持ちが出てきた。あんなに憎らしかった人なのに、今はどうして、ただ会えて嬉しいって、まず思ってしまうのだろうか。どうしてわたしの心は、こんなにも気弱なのか、それとも喉元過ぎれば熱さを忘れるなのか。


 相変わらず素は仏頂面だったが、この人は、わたしを見るときは、嬉しそうな優しい笑顔を浮かべるのだ。意識し始めてからも、今も、やっぱりずっと。他人から見たら、ただのおじさんなのかもしれない。でも、わたしにとっては一番大好きな、人なのだ。揺らいでいる自分の心が、本当に憎らしい。


「部屋、汚くてごめんね」


「……ううん」


 静かに、彼が言った。なんとか返事ができたけど、駄目だ、ここで負けてはいけない。いつもここで、なにも言わないでなあなあにしたままだから、ずるずるずるずる、付き合っているんだか付き合っていないんだかわからない関係になるのだ。そんな関係を断ち切りたいから、わたしは今日、約束を取り付けた。ちゃんと、言いたいことを言わなくちゃ。それでも、それ以上口が開けなかった。


「大事な用って、どうしたの」


 それでも黙っているわたしに、平淡に彼は聞いてきた。息を思い切り吸った。手に提げていた紙袋を差し出す。


「バレンタイン、だから。チョコ、持ってきたの。――それと」


 甘い物が好きだから、嬉しそうに受け取ってくれた。


「わたしのこと、好き?」


 いろいろ考えていた。じゃあ実際に、どうやって決着をつけたらいいのかと。


 友達が少ない、というかもはや、いないわたしは相談できる相手がいなくて、結局、いつもどおり、知識の泉であるインターネットに頼らざるを得なかった。そして大いなるインターネット様は、恐る恐る検索するわたしに対し、無情にも「わたしのこと好き?」って聞くのはよくないとか、そういう記事がわんさか出てきた。でも、もうこの言葉しか、わたしは彼の愛を確認する術を、持っていない。


 すでに顔面が崩壊していた。まだなにも言われてないのに、勝手に涙が出るし、鼻水は出るし、嗚咽が出るほど泣いた。メイクも崩れただろう。男の前で見せる顔かと思ったが、それぐらい、ふわふわとした綿菓子の上を歩くような不安感だけが、強かった。

 そんな様子を見て、引くこともなく、ただぽつりと、ごめん。と言われた。それは、わたしのことが嫌いになった、という意味ではないのはわかった。


 ただ違う、そうじゃない。わたしが言われたいのは、そういうことじゃないのだ。謝られたいわけじゃない。でも余計に涙が出てきて、静まるまで、彼は待ってくれた。


「わ、わたしは、不安なの。わたしは、良太さんのことが好き、大好き。だけど、デート断られるし! 忙しいの、だってわかって、でも、もうどうしたらいいの!」


 最後はもうほとんど、悲鳴みたいに、わたしは叫んだ。自分でも子供みたいだ、と思った。彼を困らせたくない気持ちと、もういっそ困り果ててしまえと思う気持ちがぶつかって、火花を散らしているのを感じた。


「……ごめん」


「そんな、こと、言わないでよぉ」


 また振り出しに戻ってしまった。涙が止まらない。本当に最低な気分だった。


「……おかしいな、美紀の笑顔を守りたいなって、思ってたのに。結局、泣かせてる」


 ぽつりと漏らすような言葉に、わたしは泣くのをこらえるのに必死になって、なにも言えなかった。


「美紀を傷つけるなら、別れた方が、いいのかな」


 静かに、彼はそう言った。わたしはただ首をぶんぶんと横に振った。なんだよ、もう。立場が逆転してしまったようで、本当に最悪だ。


「ちがう、ちがう……。わ、別れたくて、言ってるんじゃない……。いや、別れたいなら、それは、それ、だけど。好きなの、嫌いなの、どっち!?」


 また叫んでしまった。


「好きだよ。大好きに決まってるだろ」


 顔を赤くして、彼は即答した。そのままわたしを抱き寄せる。

 ――が、鼻水が付きそうで、ちょっと待ってティッシュちょうだい、と押しとどめてしまった。さすがにうら若き女性がこの姿なのも酷い話だった。苦笑気味に、彼はティッシュの箱を渡してくれた。とめどなく出てくる鼻水を処理し終えると、わたしは彼に向き直った。


「……それなら、それでいいの。良太さんが、ほんとはわたしが嫌いなら、別れた方がいいと、思った、だけだから」


「ほんとに?」


 今度は彼が不安そうに聞いてくる。なんだよ、お前のせいでこっちのほうが不安なんだよばーか! と言いたかったが、それはさすがに我慢した。


「そう、だよ。それを、確かめたかった、だけ。……騒いでごめん」


 ぐずぐずの鼻声で、わたしはそう言った。


「ううん。思ったことは、今日みたいに言ってくれたほうが、ずっといい。不安にさせて、ごめん」


 心底申し訳なさそうに、彼は言う。確かに、わたしもなにも言わずに来た。それが、お互いに溝を作っていた。少しは連絡するように、しよう。わたしも反省するべきだった。


 全部彼が悪いと思っていた。でもそれは違う。わたしも、なにもしてこなかった。


「わかった。あと誕生日スルーされたのは、とても根に持っている」


 ここぞとばかりにわたしはそう言った。誕生日は十一月だったが、未だに根に持っている。やはりわたしは執念深い性格である。


「それは本当にごめん」


 蒼ざめた顔で彼は謝った。本当にたぶん忙しくて忘れていたんだろう。まあしょうがない。いや腹は立つが。


「じゃあ、今度なんか、美味しい物食べさせて。それでいいや」


 ある程度、平静さを取り戻すと、わたしは頭突きするように彼の胸に頭を押し付けた。みぞおちに入ったらしい、呻く声が聞こえたが無視した。

 彼は優しく、わたしのことを抱きしめてくれた。


 決着が、ついた。彼がわたしを好きでいるなら、それでいい。わたしは彼が好きなのは、間違いがないのだし。お互いが好きなら、それでいい。またなにか、問題が起きたら、ぶつかりにいこう。そう、思った。

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