聖バレンタインデーの決着
西芹ミツハ
決意
ふざけんじゃねえよ、と叫んで、その辺にある物を投げたい気分だった。実際には、わたしはただ、めそめそとボロボロ涙をこぼしてスマホを呆然と眺めることしかできなかったのだが。
スマホを投げるように手放すと、無気力感が、ひどく襲ってきた。涙が、止まらない。
なにが起きたか読者の皆様に、端的に申し上げると、恋人からデートのドタキャンの連絡だった。三か月ぶりの、デートだったのに。
わたしの名前は、
そして、事の経緯を詳しく説明させていただくと、わたしは今日――わたしより先に干支を一周回っていて、同じ会社に勤める現場職でシフト勤務の彼氏――
十八時に迎えにいくから、と昨夜言っていたのに、今しがた十六時に仕事で疲れ果てて無理だとのことだった。
先だって申し上げた通り、彼は電気工事屋なのだが、その勤務は激務だ。そしてなぜ今日、急に無理だと言っているのかというと、昨日の夜に工事に出ていた後輩がへまをしたらしく、事務所から自宅に戻っていたところを仕方なくヘルプに行かざるを得ず、今日も休日の予定が、お客からいいから早くしろとせっつかれ、致し方なくその仕事も終えて、結局昨夜から今にかけて、ロクに寝てもおらず疲れ果てているのだと。だから、今度にしてほしいと。
読者の皆様の、わたしのこの苛立ちに対する心情は、なんとなくわかる。不寛容な女だと思われるかもしれない。だが、まずわたしの言い分を聞いてほしい。
わたしだって、わかっているのだ。いろいろ、わかっている。わたしは、その会社の事務員をしているから、彼の仕事の状況は――実際の工事の大変さはわからないが――スケジュールを見る限りは、ばれたら真っ先にお上から警告が出そうなくらい、真っ暗な闇が蠢いている。まあ会社も今それに対してかなり改善のために、上層部が動いているのも噂には聞いているが、一朝一夕にはゆくまい。
尚、同じ職場で働いているなら、毎日顔を合わせるのでは? という問いはノーだ。私は都内の本社で働くが、彼は東京都を跨いだ別の県の、現場職用の事務所に通っているので、まずめったに会わない。たまに、ごくまれに、本社へ用があるときしか、彼はやってこない。
現場仕事だから、仕方のない職に、ついていることだってわかっている。彼は仕事一番の人間だし、わたしだって、「仕事とわたし、どっちが大事なの?」みたいなテンプレートな台詞を吐きたくない。
ただ、これが一回や二回ではない。ほぼ二分の一の確率でこうなるのだ。そして、わたしは職場恋愛というのを周りに知られたくなかった。それなら付き合うなよという話であるのかもしれないが、周りに知られないよう、ひっそりと予定を合わせなくてはいけないのと、やはり彼が多忙を極めるため、だいたい三ヶ月か四ヶ月に一度しか会えない。彦星と織姫よりかはマシだが、下手すれば半年も会わないことがあった。去年は誕生日やクリスマスだってスルーだった。いや、世の中には一年に一度しか会えないような方も、いらっしゃるかもしれない。それは重々承知している。ただ、彼に対し要望があった。
ちょっとくらいは恋人の気持ちを察してほしいというか、どこにも持っていけないこの気持ちをどうしたら良いのか教えてほしかった。せめて電話をかけてくれるとか、埋め合わせを提示してくれるとか、そういうことで、良かったのだ。一度そう言ってみたこともあるが、でも彼は、約束できないことを言うのは嫌だ。とわたしの言葉を一蹴するのだ。だから、わたしからデートに誘うことは一切止めた。
デートをドタキャンされる度に、わたしは、ひどく惨めな気持ちになる。今回のようなことも有り得るから、あまり過度に楽しみにしてはいけないと思いながらも、それでも期待に胸を膨らませ、三日くらい前からどんな服がいいか、メイクはどうするか、髪が中途半端に伸びているから美容院に行って整えようか、ボーナスで買った美顔器とスチーマーを引っ張り出しては、スキンケアはいつも以上に念入りにと、なんだかんだと、いつもいろいろと積み立てる。そして、結局それらはなにも意味をなさずに、唐突に突きとばされて崩されるジェンガのような物に成り果てて、無意味な自分の努力が馬鹿馬鹿しく思えた。
そのくせ、文句の一つも言えず、せいぜい出来ることと言えば了解した旨を、いつも以上に淡々とした文章で送り付けるという陰険なことだけだ。そしてそんな自分に余計に嫌気が差す。仕事に理解をしている風で、寛容になれない、文句を腹の中に溜めるだけで仕返しも要求も、それ以上もなにも出来ない、利己的な情けない自分が、とても嫌だった。
いつも通り、ぼろぼろ泣いていても、この後のことを考えると余計に、憂鬱だった。わたしは母子家庭だが、母が帰ってきたときのことを考えると憂鬱なのだ。仕事先から帰ってきた母に「デートはどうしたの?」なんて言われないうちに寝てしまうか、もしくは何事もなかったように、「ああ、急な仕事みたい」としれっと言い返すかをしなくてはならない。
わたしは、体質的に瞼が腫れやすい。普段コンタクトのせいかもしれないが、結膜炎にもなりやすいし、そうでなくとも朝起きて痛くもないのに、瞼がむくんで腫れたようになっていることもある。泣くときに瞼を擦ると、余計に腫れるのだと知ったときから、泣くときはタオルを敷いてその上に寝転ぶようにしている。
安アパートのわりに、風呂には追い炊き機能もついているし、エアコンも付いている、我が家の天井を眺めながら、ただ涙をこぼす。こんな惨めな姿を他の人に、たとえ母親だとしても見られるのは、本当に嫌だ。そんな
そんな折、ぼんやりと、わたしはこれは本当に愛されているのか、疑問が出てきた。それに対し、わたしの心が否定できなくなっているのも、感じた。
中学時代も高校時代も大学時代も、全部女子高だったのと、わたしがかなり消極的だったので、良太さんが初めて付き合う人だったのもあって、こういうときの対処の仕方が全くわからなかった。
だから、そういうときは、知識の泉たるインターネットに願うようにどうしたら良いのかを検索をかけて、そうするとインターネットの恋愛記事はたいてい、「彼を信じてあげて!」と安っぽい言葉で返事をしてくる。そして結局、そうだあのとき、彼はわたしのためにこうしてくれた、ああしてくれた、と必死に記憶を揺り起こして、自分を慰める。
だがもう、本当に、信じられなくなっている自分がいる。彼は、わたしが今も好きなのだろうか。わたしは、目をつぶって熱い涙が枯れるのを待った。
それから何時間かして、母が帰ってきた。その頃には、わたしはもう涙が枯れたし、スマホの充電が危うかったので、パソコンを開いてネットサーフィンをしていた。
「おかえり」
「あんた、デートじゃなかったの?」
いつも通りの言葉。ため息交じりの母の言葉に、わたしは曖昧に笑った。ため息を吐きたいのは、わたしのほうだ。
「仕事入っちゃったんだってさ」
「仕事、ねぇ。あんた、よく我慢できるわね」
我慢できてるわけないでしょ、と言いたかったが堪えた。わたしが黙ったままでいると、母のほうが我慢できなくなったようだ。しょうもない男と付き合っているとでも、思われているんだろうか。まあ向こうの方がわたしよりずっと年上だし、そう思われても仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
「あんたたち、本当に好きなの?」
その言葉に、冷や水を浴びせられたように身が硬くなった。好き……。好きなはずだ。だって、デートをドタキャンされる度に、泣いているんだから。会えないさみしさに、泣いているんだから。
――本当に、良太さんが好きなの? ただの執着じゃなくて?
身の内に囁く声を振り払うように、わたしは目を瞑った。
「……放っといてよ」
母が、またため息を吐きながら、狭いキッチンへと消えていった。それを見届けると、わたしは疑問が噴き上がってくるのを、また涙が溢れそうになるのを、抑えるのに必死だった。
彼がわたしを好きなのかと疑問に思うのと同じように、わたし自身も、本当に彼が好きなのかがわからなくなってきた。それを、信じたくなかった。
その疑問が怖くて、気持ちを反らそうと、ふいとカレンダーを見ると、二月十四日、世の乙女たちが一世一代の賭けに出る日が目に飛び込んできた。
ああ、そうか。二月だものな、バレンタインデーは新年と同じように毎年やってくる。来ない日が来たら、きっとそれは全世界の製菓会社が全て倒産したときに違いない。
去年も、一昨年も、そういえば買ったっけなと思い出す。わざわざ都心のデパートまで出かけて、休日でより人がごった返す、大規模なバレンタインの催事場をひたすら、どれが一番喜んでもらえるかと一時間も練り歩いて、決めていた。本当は手作りの物を渡してみたいと思ったけれど、いつ会えるかわからないから、結局、賞味期限が長く持つ、既製品しか買えなかった。
それでも、良太さんが甘い物が好きというのもあるから、ちょっとでも美味しい物をと思って、結構、奮発して買ったりしていた。まだ、今年は買っていない。
その日付を見て、今の気持ちをそろりと覗き込むように振り返り、わたしは立ち上がって、自分の会社用のバッグからファイルを取り出した。今年のバレンタインは日曜日。わたしは土日休みだが、良太さんはその日、どうだったろうか。
現場職はシフト制で土日が関係ない。今月は予定を今日しか合わせてないから、他の日は確認していなかった。現場用のシフトをちゃっかり印刷しているあたり、わたしの執念深い性格が表れているのは無視してほしい。エクセルで作られた表から、彼の名前を探し出し、そろそろと指で彼の名前と日付とをなぞりながら確認していくと、彼もその日は、休みだ。
今日は、二月六日の土曜日、わたしは明日も休み。あの喧騒の中を練り歩くのは、とても気後れするのだが、とりあえずチョコレートを買いに行くなら、明日しかない。仕事終わりには、ただでさえ疲れているのに人混みの中に行きたくなかった。
そしてわたしは、その日に決着を付けようと心に決めた。世の乙女たちが戦うその日に、わたしもわたしの恋に、決着をつけてやる。そう考えたのだ。彼がわたしを好きでないなら、もうそれをすっぱり断ち切ってしまった方が、お互いの為だと信じて。
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