第23話 誕生日おめでとう
物心ついた時には、すでに母子家庭だった。
母親と二人きりの生活で、父親はいなかった。顔も知らなかった。親戚もいるのかいないのかさえも分からない。
ただ、祖母には一度だけ会ったことがあった。随分小さい頃のことだが、祖母の家、つまり現在住んでいるこの家に遊びにきた記憶があるのだ。
あかりは八才の時、母親に捨てられた。
母親は一日中働いていて、あまり家にいなかった。あかりはいつも一人で留守番をしていたのだ。
朝から晩までテレビを見ていた。小学校に入るまではテレビが友達だった。幼稚園には行っていなかったから、同じ年頃の友達なんていなかったのだ。
暴力は無かったがほとんど構ってもらえず、いつも一人きり。風呂も入らず同じ服を着続けるのは当然で、冷蔵庫が空の日は何も食べられないこともあった。
そしてあかりの年齢が上がってくると、母親は数日単位で家を空けるようになっていった。はじめは一晩だけ。それが二日になり三日になった。
きっと仕事が忙しいのだとあかりは思っていた。仕事が大変なのだと思っていた。
でも、寂しくてたまらなかった。
学校から帰って来ると、一人きりの部屋の中で、母親が帰ってくるのをひたすら待っていた。ひもじいのを我慢し冷蔵庫の僅かな余りものや水だけを飲んでいた。部屋を汚さないように出来るだけきれいにしようと、散らかったゴミを集めたり服をたたんだりして、ただいまと笑顔で母親が帰ってくるのを待っていた。
――私が何もできないからいけないんだ。悪い子だからいけないんだ。ごめんなさい。良い子になるから許してください。お母さんに迷惑かけないから、どうか帰ってきて下さい。
あかりは、自分が良い子になればきっと帰ってきてくれる、今帰って来ないのはまだ良い子になれていないからだ、そう信じていた。良い子でない自分は罰を受けているのだと。
その時の母親の家出はいつもと違っていた。三日経っても、母親が帰ってくることはなかった。
四日目、あかりは学校に行かず、ずっと家で母親の帰りを待ってた。もしも学校に行っている時に、母が帰ってきて自分がいなかったら、また居なくなってしまうかもしれない。それが怖かったのだ。
五日が過ぎ、一週間が過ぎ、十日近くなった時、インターホンが鳴った。
あかりの顔に笑みが広がった。母親が返ってきたのだと喜び勇んで玄関へと向かった。空腹でふらふらとしていたが。
だがドアの向こうにいたのは、担任の教師と児童福祉司だった。二人はあかりの姿と部屋に立ち込める臭気に絶句し、しばし立ち尽くしていた。
来るのが遅くなってごめんねと泣きだした女教師を、あかりはポカンと見つめていた。
「ものすごくがっかりしたのを覚えているわ……なんでお母さんじゃないのって」
そのまま、あかりは保護され、病院に連れて行かれた。
翌日、入院しているあかりのもとに血相変えた祖母が現れた。
祖母は目を真っ赤にして、あかりちゃんあかりちゃんと呼びながら抱きしめてくれた。
祖母と母親は面差しが似ているから、まるで母親に抱かれているような気がして、涙が止まらなかった。
「でもね、お母さんはここには来ないんだって解っちゃったのよね……。もう会えないんだって。お祖母ちゃんが来たのは、そういうことなんだって」
あかりが祖母の家で暮らすようになってから半年後、ようやく母親の行方が分かった。彼女はなんの縁もゆかりもない遠い町で、一人で暮らしていたそうだ。
母親はあかりになかなか会いたがらなかったが、祖母が何度も説得してやっと面会にくることになった。そのいきさつを知らなかったあかりは、母親に会える日をただただ楽しみに待っていた。
そしてその日、期待を込めて母親を見つめるあかりにかけられた言葉は「死ななかったのね……」だった。
祖母の怒声と、ガシャンという食器の落ちる音を聞きながら、あかりは意識を手放した。
ああ、自分は生きていてはいけなかったのだ。産まれてきてはいけなかったのだと。
目が冷めた時には、もう母親はいなかった。
ガラガラと自分が崩れていきそうになる。
――どうすればいいの?
――死ねばいい……
――どうして私が死ななきゃいけないの?
――それは、良い子になれなかったから……悪い子だから……
――ねえ、悪い子って何? 私の何が悪かったの?
――生まれてきたのがいけなかった……
――でも! 産んだのはお母さんじゃない! 私が勝手に一人で生まれてきたんじゃないのに! お母さんが私をこの世に生み出したのに!! それなら悪い子を産んだお母さんも悪い子だよ。そうでしょう?
――悪い子は死ぬしかないんでしょう……ねえお母さん、一緒に罰を受けてよ……
「あの人も死ぬべきだって思ったの。本気で死ねばいいって、いっそ殺そうって思ったの。殺して自分も死のうって。八つの子がよ? 我ながら酷い育ち方をしたもんだって、笑っちゃうわ……」
あかりは母親を憎悪することで、壊れそうになる自分の存在意義を何とか保とうとしていた。悪い子は死ななきゃいけないと教えてくれたのはあの人なのだ。その教えの通りに、悪い子である彼女を殺すことが自分が生まれてきた意味なのだと、懸命に思い込もうとしていた。
そうやって憎しみを育てていた頃、ハクが現れてしまった。
さぞや美味そうな悪果がなっていたことでしょうよ、とあかりは自嘲気味に笑うのだった。
「私ね、ハクにごっそり喰われたあと、空っぽになっちゃったの。心の中、なんにもないのよ。憎しみも悲しみも全部なくなって、なんにも考えられなくなって……。そしたら、この世から消えてしまいたくなっちゃたの。塚本くんが言ってた話よく解るわ。自殺していった子達がどんなふうだったか」
タケルは、ずっと黙って話を聞き続ける。
肯定も否定もしない。いや、できなかった。
「おばあちゃんが止めてくれたの。泣きながら抱きしめて頬ずりして、何度も謝りながら、何度も大好きよって言いながら……。だから死なずに済んだの。……暖かかった。おばあちゃんが、あったかい種をもう一度芽吹かせてくれたの……」
何故かハクも、あかりを食らいつくそうとはしなかった。
常に彼女の周りをついて回っていたが、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて眺めているだけだった。
こうして、あかりは自ら命を絶つことなく、生きてこられたのだという。
その代わり全ての感情が希薄になった。母親への憎しみは嘘のように薄らいで、関心さえ失ってしまった。なにかもが空虚だった。
漠然とした死への誘惑は残っていたが、それさえもどうでもいいと思っていたのだ。
それから八年が過ぎ、今日母親からの手紙が届いた。
「憎いって、気持ち、忘れてた、のにね。八年経って、やっと、また、お母さんを、憎いと思えた。不思議……それが、嬉しい……」
たどたどしく、言葉をぶつ切りにしながらあかりはつぶやく。
タケルは、腕の中にいるあかりを壊れ物を扱うように慎重な手つきで抱きしめる。かける言葉など見つからない。
「図書カードだなんて……私がよく本を読んでるって、何で知ってんのよ。……私のこと、なんで知ってんのよ……」
あかりは泣きながら笑った。
今できるありったけの笑顔でタケルを見上げた。
涙でグシャグシャで腫れた目をしたあかりが、最高に綺麗だとタケルは思った。
「神崎くん。ありがとう。聞いてくれて」
もう、夕闇でお互いの顔がぼんやりとしか見えない。
チリリリ。
風鈴の透明な音が響く。
おずおずとあかりの髪を撫で、タケルは囁く。
「……なあ、瀧本。誕生日っていつ?」
「明後日……」
「よかった」
「何が?」
「誕生日まだ過ぎてなかったから。今からでも、プレゼント用意できるなって。……少し早いけど、誕生日おめでとう」
タケルに言える精一杯の言葉だった。
あかりの頬に、また涙が流れた。
「やだ。ばか。カッコつけないでよ。……そんな事言われたら、勘違いしそう……」
照れ臭そうに微笑むあかりを見て、鉄の鎧の影から素の彼女が顔を見せてくれたような気がした。いつか、あかりの鎧をすべて外してあげたいと思った。
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