第9話 白昼の夢魔
タケルは大きくため息を吐いて職員室を出た。
午前中の授業をさぼったので、放課後担任に呼び出されてしまったのだ。いつもギリギリで登校しているし、一限目を遅刻することもたまにある。授業中に寝ていたり、提出物を忘れるなど日頃の態度も悪い、とクドクドと長い説教をされた。
でもそんなことは、今のタケルにとって対した問題ではなかった。
アレに比べれば――。
あかりの言ったことが気になっていた。彼女は色々と知っているようだ。何故かは知らないが。もう一度早く話がしたかった。
トキは助けるとは言ったが、具体的なことは何も言っていない。ハクが現れた時、自分はどうすればいいのか解らないのだ。
タケルは一旦教室に戻ってカバンを取ると、隣の一組の教室を覗いた。
談笑していた数人の生徒たちが一斉にタケルに注目したが、あかりの姿は無かった。もう、帰ったのかとがっかりしてタケルは歩き出した。
その時、強い視線を感じた。眉間の奥がジンジンとむず痒くなるほどだ。
ハッと顔を上げると、廊下のずっと先の突き当りに小さな白い影が立っていた。
――ハク!
どんなに遠くだろうが小さかろうが、あの気配を間違えようはずがない。一度味わってしまった悪夢を喰う魔物の放つ不気味なオーラは、どんなに忘れたくても忘れられるものではない。
真っ白で妖しく美しい魔物が、にぃーっと笑いかけてくる。
冷水を浴びせられた気がした。ハクが一歩踏み出した瞬間、タケルは背を向けダッと走りだしていた。
――なんでもう来るんだよ! 一日待つって言ったじゃないか! 夜中まで来るなよ! ああ、トキ、どうすればいい! 俺を助けるんじゃなかったのかよ。どこに行きやがった、こんな時に。役立たず!
廊下で立ち話をしている生徒達を押しのけ、夢中で走った。階段を駆け下り校舎を出、校庭横の通路を一気に走り抜けた。途中、どうしたんだと声をかけられたが、振り向きもせずに走った。
変に思われようが、嫌がられようが構いはしなかった。今は逃げることしか考えられない。
スピードを緩めることなく、校門を飛び出した。
下校中の生徒たちが、唖然とタケルの後ろ姿を見送っている。その生徒たちに混じって、あかりが校門脇に立っていた。
自分に気付かず走り抜けるタケルを見て、ハクが来たのだと直感し、あかりもすぐに後を追って走りだしたのだった。
タケルは走り続けていた。人を避ける余裕もなく、何度かぶつかり怒鳴られたりもしたが、ひたすらに走り続けることしかできなかった。とにかくハクから逃げたかった。
――ああ、ダメだ。きっと追いつかれるんだ。
どれだけ学校から遠ざかればいいのか分からないが、それでも走った。止まったら、途端に喰われてしまいそうな気がするのだ。
走って、走って、息が切れるまで走り続けた。
気がつくと、金網に囲まれた広い荒れた草地の前に着ていた。
数年前から、ショッピングセンターが建つと言われながら放置され続けている場所だった。道路を挟み反対側は、白い防音壁に囲われた外壁改修中のオフィスビルの裏手で、その続きには、封鎖されたなんとかセンターとやらのガランとした建物があった。
要するに、人けがないのだ。
――失敗だ。なんだって、こんなところに来てしまったんだろう。
タケルは肩で息をしながら、ビクビクとあたりを見回した。
あの白い影は見えなかった。
しかし、ホッとしかけた背中に、再び冷水がかかった。
「はい。おつかれさま」
タケルの体がビクンと震え固まった。息さえも止まる。
やはり、と言うべきかもしれない。
背中に張り付くように、すぐ間近からハクの声が聞こえてきたのだ。
「何もそんなにムキになって逃げることないでしょ」
声がゆっくりと前に回りこんできた。
そして真っ赤な目を光らせて、動揺を隠せずに引きつるように震えるタケルを見上げて笑うのだ。
「ムダなんだから。ね」
全力疾走した上にこの声を聞いてしまっては、もうまともな呼吸などできなかった。ハッハッハッと短い呼吸を繰り返し、タケルはガクリと膝を付いてしまった。
「さて、早速だけどもう決めたかな? 腹が減ってねえ、堪らないんだよね」
もう崖っぷちだと思った。目眩がする。
この魔物は今から何をしようというのか。身震いが止まらなかった。
「昨日、俺が喰った夢、面白かったよなぁ。ねぇ君、イジメてちょうだいオーラ出まくってたよ? 現実でもそうなんだろう?」
ハクはキヒヒと笑って、タケルの周りを歩き始めた。声が楽しそうに弾んでいる。
「ああいうのって、どんどんエスカレートする一方なんだってねぇ? そしたらこの先どーするの、君。ヤバいんじゃないのぉ?」
ドクンとタケルの心臓が大きく脈うつ。
言われなくても分かっていることだ。一番それを不安に思っているのだから。
タケルは俯いて、拳を握った。
「そうだなぁ……ここらで、仕返ししとく?」
「……え?」
「あいつ、あのでかい男、大沢だっけ? あいつにもっと悪果に実らせろよ。な」
ハクがタケルに近づいてきた。
この化物は大沢を差し出せと言う。確かに自分もそれを考えていた。しかし本当にそれでいいのかと、この期に及んでまだ迷っているのだ。
大沢が怖い。それは確かだ。だが、彼を憎みきれない自分も確かにいるのだ。彼を身代わりにしたらきっと後悔するはずだ。いや、大沢でなくても身代わりが誰であろうと、恐らく同じことだろう。
「あれ? 返事がないなあ。んー、じゃあもう君を喰っちまおうかなぁ……」
――ああ、やっぱりそうなるのか。
タケルはグッと体に力を入れ、歯を食いしばり目を瞑った。
頭がくらくらして倒れそうだ。目の前でハクが動いている気配がする。空気が動く度に、タケルの心臓は跳ね上がるのだった。
その時、ハクの尖った声がした。
「おい……貴様ぁ、何か持ってやがるな?」
魔物の声はオクターブ下がっていた。忌まわしげに、そして疑わしげにタケルを見ている。
何のことだと眉をしかめたが、すぐにあかりがくれた銀の腕輪のことを思い出した。
『銀はね、あいつらを封じることができるの』
目を見開き、顔を上げた。
やるしかない。
そう決めてからの動きは、タケル自身信じられない程に素早かった。立ち上がるのと同時にズボンのポケットから腕輪を取り出し、一歩踏み込んだ時にはハクに向かって思い切り突き出していた。
「ギ、ギャーーーー!!」
バチンと大きな音がし閃光が走った。ハクは銀に触れた途端、思い切り後ろに吹っ飛ばされていた。
雑草の生い茂る放置された土地を囲む金網に、まるで磔にされたようだった。そしてずるずると地面に落ちてゆく。
すかさずタケルはハクに向かって腕輪を投げる。
「グア!」
腕輪は胸に命中し、のけぞって倒れるハクの体の上に落ちた。
その体から、シュウシュウと白煙が登り始めた。
ハクは腕輪を払いのけることも出来ず、杭で打たれたようにその場から動けなくなった。
「き、効いた……?」
タケルはへなへなと膝をついた。銀が触れただけで、本当にこの化物が動けなくなるとは驚きだった。腕輪をくれたあかりに、心の中で感謝した。
ハクがゆらりと腕を上げた。
赤い眼に憎悪が満ちている。
「貴様……なぜ銀を……」
ギリギリとにらまれて、タケルは尻をついて後ずさった。
ハクの指がタケルを掴もうとするかのように不気味に動く。だが、ハクはうなだれ腕もパタリと地面に落ち、静かになった。
白煙はまだ上がっている。なんだか、ハクの姿が一回り小さくなったように思えた。
タケルはヨロヨロと立ち上がり、ハクを見つめた。これで、こいつは死んだのだろうか。確認した方がいいのだろうが、近づくことにはためらいがあった。
動かなくなったとはいえ、これが芝居ではないとは言い切れないのだし。
「神崎くん!」
タケルがどうしようかと悩んでいると、あかりの声が聞こえた。
振り返ると汗で濡れた髪を頬に張り付かせて、懸命に走ってくるあかりの姿があった。
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