第5話 白い妖精さん

 タケルは夜ベッドに入ると、いつも楽しかったことを思い出すようにしている。それは学校のことでもいいし、ゲームやテレビやマンガ、笑えるYouTubeだったり好きな音楽だったり、どんなことだっていい。とにかく気楽に、頭を空っぽにするようにしている。

 悪夢を見ないようにするための儀式のようなものだった。


 しかし今日はうまくいかない。タケルはスマホを放り投げ、タオルケットを頭からかぶって丸くなった。夏だと言うのに、身体の芯から冷え切っている。

 憂鬱で不安な気分をどんなに紛らわせようとしても、楽しいと思えることなど何もなく、うっかり気を抜けば夕方に見たあの不気味な白いモノのことで頭がいっぱいになってしまうのだ。

 今夜も悪夢を見る予感がしてならない。眠ることさえ恐ろしくなるなんてと、タケルは唇を噛んだ。


 時計の針がカチカチとやたら大きな音で鳴り、返って静けさが際立つ。電気をつけたままにしていても、窓の隙間から夜の闇がじわじわと忍び込んできて、部屋を侵食してくるような気がした。夜が不気味でたまらない。

 何度も何度もアレはただの見間違いだ、気のせいだと自分に言い聞かせるが、いやアレは確かにいたともう一人の自分が反論する。

 もう何も考えたくないのに、不安な物思いは止まらなかった。


 部屋は明かりを点けたままなのに自分だけは闇に包まれているようで、目に映る部屋の景色がだんだんと現実味を失ってゆく。

 暗闇の泥沼に意識が引きずり込まれてゆく。悪夢を見たくなくて、眠らずに起きていようかと思うのに、目を開けているのか閉じているのかもよく分からなくなってくるのだった。


――いや、俺は起きているはずだ。今夜は起きてるんだ……悪夢なんて見たくない。だからずっと起きて……。


 


 痛い。怖い。痛い。怖い。痛い。

 怖い。

 痛い。

 痛い……。


――ごめんなさい、殴らないで。お願いいします。お願いします。もう止めて下さい。殴らないでください。


 タケルは、泣きながら懇願していた。自分の何が悪いのか、何を謝っているのか分からないが、とにかく土下座し謝罪し続けていた。

 しかし大沢は笑い転げるだけだ。

 それをクラスメイト達が取り巻き、タケルを笑う。


「なんだ、本当は弱っちいんじゃないか」

「いつもはいきがってんのにさあ、がっかりだよなあ」


 みんながタケルを見て、笑っている。

 武田が笑っている。

 柴田が笑っている。

 嘲笑っている。


 大沢が、タケルを抑えつけてズボンと下着を一気に引きずり下ろした。

 女の子たちが、キャーっと悲鳴のような声で笑う。

 男子は、ますますゲラゲラと笑う。

 みんなが情けないタケルの姿を見ている。笑っている。


――やめろよ! やめてくれ! 見ないでくれ。笑わないでくれよ。だれか助けてくれよ!


 恥ずかしさと屈辱そして恐怖で、目の前がチカチカした。

 ますます、笑い声に取り囲まれる。

 足を抱えて体を丸めた。


 ふいに断片的な映像が、一瞬まぶたに閃く。


――――鈍く光る刃物――――真っ赤な口紅――――抑えつける大きな手――――笑う男――――ジョキリ――――


 甲高い悲鳴が、タケルの喉を突き抜ける。

 大沢にむき出しの尻を蹴り上げられ、激痛に涙がこぼれた。

 誰も助けてくれないのなら放って置いて欲しいのに、嘲笑を投げつけてくる。暴力よりも一層辛い責め苦かもしれない。

 タケルはぎゅっと目を閉じた。そして何も聞くまいと耳を押さえ、更に身を固く小さくした。

 何も感じたくない、考えたくないと、必死で意識にフタをする。

 そして音が遠ざかっていった。


 と、突然誰かに襟首を掴まれ、強く引き上げられるのを感じた。その瞬間、異変が起こっていた。

 固く縮こまる自分の中から、ずるりと薄皮を破いて、もう一人の自分が引きずり出されたのだ。

 それはまるで昆虫の脱皮のようだったし、また、水中に潜っていたのを引き上げられる感覚にも似ていた。

 救い出された、そう思った。


 何が起こったかよく分からないまま、タケルは立ち尽くしていた。

 最早、周りには大沢もクラスメイト達もいない。

 痛みも消えていたし、ズボンも履いている。

 今までのは、夢?

 しかし、足元には縮こまるもう一人の自分。

 たった今、抜けだしてきた自分の体がそこにあるのだ。


 あたりはまっ白な、何もない空間。

 ゾッとした。


――俺はどうなった? ……死んだのか? まだ、夢は続いている?


「イヤイヤ。夢は終わったさ」


 背後から、いきなり声が聞こえた。

 振り返ると、あの赤い眼が光っていた。アーケードで見た、アレだ。

 寒気が足元から全身の肌を撫でるように駆け上がってきて、毛穴がブツブツと盛り上がる。

 さっきまでとは違う恐怖がわき起こり、タケルはブルブルと震えていた。昼間のように逃げ出したい衝動に駆られるが、この何もない空間の何処に逃げ場所があるというのか。


 ソイツは、青年の姿をしていた。百センチ前後の身長だったが、体のバランスは大人のものだ。

 肌は白く、そう文字通りのまっ白で、まるで光の全く届かない暗黒の洞窟で一生を終える軟体生物を思わせる。

 髪も真っ白で、眉毛やまつ毛までも白かった。瞳だけが、鮮やかな血の色をしている。目鼻立ちのハッキリとした派手に美しい顔の中で、その目が凶々しく光る。

 薄く開いた口から、ヌラヌラと光るナメクジのような舌がちろりと顔を出し唇を舐めた。なまじ美しいだけに、不気味さが倍増していた。


――コイツは何なんだ。ああ、きっと化物だ。俺は化物につかまってしまったんだ……。


「君はもう目覚めている。俺が見えてるんだからね。夕方にも俺を見ただろう?」


 ニタリと笑った。

 TシャツにGパンという、ごく普通のラフな格好は何処にでもいる青年のようだが、中身は絶対に人間ではない。

 タケルはズルズルと後ずさってゆく。


「今、君さあ、俺のこと悪魔だ化物だ妖怪だ、とか思ってるんだろう?」


 ちっちと舌を鳴らして人差し指を振った。


「俺はね、妖精さんなの。小さな可愛い妖精さん。そこのところお間違いなく」


 髪をかき上げ、細い木の葉のように尖った耳を見せて、キヒっと笑う。

 何が可愛い妖精だ、とタケルは思う。妖精と化物の線引きなんてどこで付けるのか知りはしないが、こんな不気味は空気をまとったモノが「可愛い妖精さん」などと呼べるものではないことは解る。コイツはアーケードで、あのイカレた男の首を締めていたのだし。


 白く小さな青年は青ざめるタケルを見つめながら、その足元で絶望し縮こまっているもう一人のタケルにそっと指で触れた。

 すると、透明な球体がそれを包み込んだ。そしてみるみるうちに小さくしぼんでゆき水晶玉のようになると、ソイツの手の中にすっぽり収まった。


「これはさっきまで君が見ていた、悪夢。いやあー、面白かったねぇ。なかなか楽しく拝見させてもらったよ」


 タケルの夢だという、その水晶玉をお手玉のように手の中で弾ませながら、ソイツはいやらしく笑った。

 そしてパチンと指を鳴らした。

 すると、グルグルと高速で色の洪水がタケルの周囲を回転しだした。

 あまりの目まぐるしさにふらりと目眩を感じる。だが目を瞬いた一瞬で色の濁流は鎮まり、タケルは自分の部屋のベッドの上にいる事に気づいた。


 部屋の明かりはいつの間にか消えていたが、何も変わったところは無い。

 遠くでバイクが走り去る音がし、秒針の規則正しいリズムや犬が吠える声、微かな救急車のサイレンが聞こえた。

 いつも通りの夜の雑音だ。確かに、もう夢を見ているわけではないようだ。

 それなのに、目の前には白い化物が立っている……。

 これが現実だなんて、なんてことだとタケルはブルブルと頭を振るのだった。


 化物は水晶玉べろりと舐め上げた。タケルの反応を伺うように上目遣いで、ベロリベロリと楽しそうに舐めている。

 それから白い歯をキラリと光らせて、水晶球にかぶりついた。

 鋭い歯が簡単に突き刺さる。堅そうに見えていたが、まるで熟れきったトマトのようにぶしゅりと潰れてしまい、化物の口の中に飲み込まれていった。

 じゅるり、ぺちゃりと、白い化物はわざとらしく音をたてていた。顔を歪めるタケルを面白がるように、見つめながら。

 そして、指についたどろりとしたものを、長い舌で舐めとり、ソイツは言った。


「ねえ、君。一つ、取引をしないかい?」

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