図書館の人

山下真響

図書館の人

 図書館の住人。と言うと聞こえは良いが、彼の半径三メートル以内には誰も近づきたがらない。仕立ての良い高級スーツを着た白髪混じりのその人は、書架の間を歩く姿から、分厚い本を捲るその指使いに至るまで品格があり、そこにだけ非日常の凛とした空気が漂っている。


 ただ、臭いが酷かった。なぜなら、彼は図書館の住人。文字通り、昼間は図書館の中で過ごし、夜は図書館の敷地内にある古びたベンチに横たわる。そして図書館には、風呂というものも存在しない。

 つまるところ、ホームレスの類いなのだった。


 私は彼のことを「紳士」と呼んでいる。彼ほどリアルな紳士を私は知らない。おそらく、かなり育ちが良いのだろう。本を読む姿勢も良い。物の扱いも丁寧で、音を立てることはない。銀縁の眼鏡を時折外して、レンズを磨く流れるような所作も素晴らしい。さりげなく、他の利用者が放置したり、間違った場所に片付けてしまった本を正しい書架に戻してくれていることも、すっかり日常茶飯事だ。


 私はまだ二、三度しか会話したことはない。私はこの県立図書館のアルバイトで、司書の資格と接客業の経験を武器に勤め始めて三年目。彼がこの図書館に住み始めてからは、早三ヶ月が経とうとしていた。


 残暑が厳しい九月。秋の足音が聞こえ始めたこの季節は、紳士の色気をより一層濃いものにする。新しく入った本を書架に並べていると、本と本の隙間に彼が見えて目が合った。


 どうしてこんなに素敵な男性が、このような生活をしているのだろうか。しかし、尋ねる機会なんてない。図書館に住む紳士は、本を借りて外に持ち出す必要が無いので、貸し出しカウンターにも現れないのだ。利用者カードさえ見れば、名前だけでも分かるのに。と思ったところで気がついた。


 名前が分かれば、もっと知りたくなってしまうのではないか、と。歯止めが効かなくなるのは怖い。もはや若くない私は、もう昔のようなリスクを顧みない行動はできなくなっていた。


 人に関わるのが怖い。けれど、生きていく、稼いでいくためには人と関わらねばならない。でも図書館ならば、人と同じかそれ以上に、たくさんの本と出会うことができる、と思い込んでいた。


 けれど現実はそう甘くない。人員削減の波が押し寄せて、年々正職員もアルバイトも数を減らしていく。仕事の量は増えることはあっても減ることはない。


 世の中自体が荒んでいるのか、来館者の中にはクレーマーに近い暴言を吐く方も多く、そういった人と相対しながら疲弊していく毎日。勤務年数が浅くても、四十にもなるとすぐに微妙な場面で矢面に立たされてしまう。結果、本とは出会ってもすれ違い状態ばかり。


 最近は、図書館の民間委託の噂もよく耳にするようになった。もちろん、うちの図書館の話だ。私はアルバイトの身の上なので、なかなか詳しい情報が入ってこない。私は以前勤めていた会社を過労と精神疾患で退職し、しばらく療養した後に今の仕事に就いた。


 私は、これからも図書館で働くことができるだろうか。そして彼は。彼は、どうなるのだろう。この地域は比較的温暖な気候とは言え、冬になると朝は氷点下の気温になる。



   ◇



 十月になった。あれから私は紳士に声をかける機会が二回あった。そして今も、必要にかられて私は紳士に話しかけようとしている。あまり近づくことはできない。何しろ彼は、男子トイレの中にいるのだ。


 洗面所部分は、お手洗いの入口からも丸見えだ。彼は服を脱いで、水で絞った雑巾で身体を拭っていた。清掃業者が日常的に使っている不潔な布。


「すみません。他の利用者さんから、クレームが入りまして……」


 この方は、どこの誰がなぜ何のために何をどう駄目だと言ったのか、などと尋ねてこない。こんな尻切れトンボな声掛けだけで全てを理解する。


「いつもすみません」


 彼は丁寧に頭を下げると、男子トイレの奥へと消えた。私の中では、ある決心が定まりつつあった。



   ◇



 その日、私は四時半にあがって一度家に帰ると、夜九時になるのを見計らって再び職場を訪れた。閉館時間を一時間も過ぎれば、同僚にも会わないだろう。


「こんばんは」


 さりげない風を装いつつ、声をかける。道路からも目につかない、植え込みの茂みの影にあるそのベンチは、彼専用となりつつあった。どこかで拾ってきたであろうダンボールと毛布に包まれた紳士は、静かにこちらへ顔を上げる。彼は眩しいものを見るかのように目を細めた。


「すみませんが、少しお付き合いいただけませんでしょうか」


 互いに顔見知りだけれど、何も知らない。あまりにも不審な誘いにも関わらず、彼は微かに笑って頷いた。


「いいですよ」


 どうやらこの紳士、声質も私のツボらしい。自分から話しかけておきながら、すぐには本題を切り出せない私だった。


 私は、紳士と連れ立って歩き始めた。駅前に着くと、中がガラ空きのバスに乗る。整理券は私が二人分を取った。彼は黙ってついてくる。支払いももちろん二人分まとめて済ませた。


 どこにでもあるチェーン店に入る。日用雑貨から家電まで何でも置いている。この時間帯になると、開いている店の選択肢がほとんどなかった。私はカジュアルウェアのコーナーを目指す。紳士の着替えを買うのだ。彼には似合わないかもしれないが、私の財布には優しい価格帯の品揃えだ。予め買っておいても良かったのだけれど、この歳になっても独り身の私は、一人で男性の下着などを用意する勇気が出なかった。


 紳士に視線で「自分で選んで欲しい」と訴える。彼は、また微かに笑って、売り場の中を歩き始めた。私は厚手のコートも勧めた。紳士は手を振って拒否しようとしたけれど、安っぽい買い物カゴに一着を押し込んだ。


 相変わらず臭いは酷い。すれ違いざま、あからさまに顔をしかめる人も多い。私は慣れてしまったのか、いつものキツイ鼻づまりのせいなのか、それ程気にならなくなっていた。


 服を買った後はお風呂だ。これが今夜の目的だった。近くにスーパー銭湯があり、そこへ彼を連れて行く。彼はさりげなく道側を歩いて私を危険な車から守ろうとするし、もちろん荷物は全て自分で持つ。行く先に立ち塞がるドアを開け閉めするのも彼だ。元々上流階級だったかもしれない人には失礼かもしれない、と思いつつも、私は正直に告げた。


「やはり、臭いは」

「何から何までありがとうございます。このお礼はいずれ……」


 紳士は沈痛な面持ちで俯いてしまった。きっと、「いずれ必ず」と言いたかったのだろう。でも、先の見通しが立たない生活をしている彼は、嘘などつくことができなかったらしい。私は居た堪れなくなって、私も風呂に入ると言い残し、慌てて女湯の暖簾をくぐった。


 男性は烏の行水というイメージがあった私は、いつもよりも手早く身体と髪を洗い、少し悩んで顔の化粧も落とし、風呂の受付カウンター前の休憩所に戻ってきた。


 紳士は、なかなか戻ってこなかった。

 私は、畳の上に三角座りし、賑やかな家族連れを何組も見送りながら、テレビのバラエティ番組を他人事のように眺め続けた。随分と時間が経ったけれど、私は心を無にして待ち続けた。


 肩を叩かれた時には、驚いて声も出なかった。


「もしかして」

「ありがとうございます。すっきりしました」


 一瞬、誰か分からなかった。伸びっぱなしだった髭は剃られ、髪まで短くなっていた。紳士が、施設内の片隅を指差す。理髪店があった。なるほど。少しはお金を持っていたようだ。


 改めて紳士の顔を見る。

 考えていたよりも、ずっとずっと若かった。下手したら、親子ほどの年の差があるのではないかと思い込んでいたのに。なぜか胸の中がざわついた。


 人が苦手な私が、なぜこんなにお人好しなことをしているのだろう。しかも、名前も知らない人にだ。


「行きましょう」


 自分の口から出た声だというのに、それは酷く冷たかった。とても風呂上がりとは思えない程に。


 私と紳士は連れ立ってまたバスにのり、図書館前に戻ってきた。私はさも当然という風に彼を定位置であるベンチ前まで送り届ける。間もなく夜中だ。足元からひんやりした空気がよじ登ってくる。


「おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 家に帰って、自分の顔を鏡で見るのが怖かった。部屋に入ったら、電気もつけずに布団の中に潜り込み、何もかも忘れて眠ろうと思った。



   ◇



 自分で蒔いた種だ。


 私は風呂の一件以来、紳士のことがますます気になるようになってしまった。何より、その顔がいけない。すっきりして、若干の清潔さを取り戻すことで、あんなにカッコ良くなるなんて聞いていない。


 心の中では不満を垂れ流しているというのに、私は性懲りもなく紳士に近づいていく。手には、いつもより重いランチバッグを携えて。


「あの」

「席を移動します」


 またいつもの、臭いクレームだと思ったのだろう。私は首を横に振った。風呂以来、その手のクレームは来ていない。ただ常連さんからは、気味が悪いとは言われているようだけれど。でも県民が自由に出入りして自由に本と触れ合えることになっている場所である以上、追い出すための名目はどこにもないのだ。と説明させてもらっている。


 彼は、職員の手を煩わせることなく自分の読みたい本は自分で探すし、読んだ後はきちんと元の場所に片付ける。散らかしたり、汚したり、煩くすることもない。図書館利用者の模範とも言える。ただ、貸し出し冊数の統計には貢献してくれないだけで。


 ちょうど、お昼頃だった。私は朝のニュースで浮浪者が若者に襲われて亡くなった事件を知ったショックからか、気づいたら二人分のお弁当を作っていた。誰かのご飯を用意するなんて、何年ぶりだろうか。


「いつも何を食べているんですか?」


 私はテーブルを挟んで彼の斜め向かい側に腰掛ける。真正面には、まだ座れない。紳士は一瞬周囲の様子を伺った後、スーツの内ポケットから黄色の小さな箱を取り出した。所謂栄養補助食品というものである。そう言えば、図書館前の道路にポツンとある自販機で売られていた。


「毎日これを一箱食べ続けるとすると、後十年は生きていけるんです」


 この人は、食事とも言えない食事を、既に三ヶ月以上とり続けていたのだ。私ならば、体も心も悲鳴を上げておかしくなってしまいそうだ。


 それに、十年後はどうするのだろう。ざっと計算すると、その合計金額は一財産になる。それだけの元手があれば、うちのような辺鄙な場所にある2DKの古アパートにでも住んで働けば良いものを。


 紳士はテーブルを透視して、私の手元を一瞥した。私でなければ、誰も気づかないような仄かな笑み。


 静謐な図書館には無音という音がある。その音すら全方位に向かって逃げて行き、私と彼の間には空虚だけが残る。


 対峙して、どれぐらい経っただろうか。初めは、互いに全裸で向き合っているような尖った恥ずかしさがあったが、今は答えの出ない哲学をテーマに議論した後のような疲労感がある。私は急に自分が馬鹿馬鹿しくなって、慌てて席を立った。


 やはり私は、人と関わることが苦手だ。


 弁当は、職員通用口を出たところにある陽だまりのベンチで食べた。消しゴムか何かを食べているようで、何度も喉が詰まって咳き込んだ。残ったもう一つの弁当は、家に帰ってから捨てた。寒い時期だというのに、酸っぱい臭いがした。そのことに、ほっとした。



 ◇



 それから私は、努めて紳士と距離をとろうとした。すると、自然と見えてくるものがある。


 紳士は、虐げられていた。


 いつも同じ窓際の席で優雅に本を読む彼は、当たり前のことだが毎日同じスーツである。もちろん、あの夜以来風呂にも入っていない。臭いが復活していた。グレーの髪は整髪料を大量に塗りつけたようにテカっていて、髭も以前のようにワサワサと口元を覆っている。日本人は長い髭に馴染みのない人が多いからか、それだけで変人扱いする人もいる。図書館に住むなんて気狂いだと喚き散らす人もいた。わざと彼にぶつかってみたりする人も。


 私は書架の影で唇を噛み締めていた。


 湧き上がるこの気持ちは何なのだろう。同情か。哀れみか。それとも紳士を蔑んでいるのか。もしくはもっと方向性の違う、何かなのか。


 私は遠回しに弁当を拒否されたことに、いつまでも傷ついていた。面と向かって要らないと言われたわけでもないのだから、彼の目の前に置きさえすればよかったのかもしれない。後になれば何かと策を思いつくのだけれど、もう手遅れだ。


 その日の夜、私は自分の家にあるカレンダーを一枚捲った。十一月がやってきた。



   ◇



 朝、目覚めて起き上がってみると、息が白くなった。冷え込んでいる。窓は結露していて、そっと指でなぞると映り込んだ明け方の空が涙を流した。


 胸騒ぎがする。

 要するに、女の勘というものかもしれない。


 私はコートを羽織ると、家の鍵とスマホ、財布などを放り込んだ小さな鞄を引っ掴み、転がるようにして家を出た。


 図書館の敷地に入ると、すぐに横幅の広い階段がある。朝の六時だ。人通りは無い。階段を登りつめると、また次の階段が見えてくる。さらにもう一つ。ようやく、彼のベンチが見えてくる。


 ベンチの上には長細いダンボールがあった。いくつかの箱を繋ぎ合わせて作られた住処。インターホンも無いが、扉も無いので、私はその中を無断でそっと覗き込む。中には人がいた。


「あの」


 返事は無い。まだ朝早いので眠っているのだろうか。いや、少し違う。私は、中の人の息がかなり荒いことに気がついた。


「あの?!」


 いつも気の利く紳士は、これぐらいの大声を上げれば起き出してきて挨拶の一つもしてくれそうなもの。けれど、何の返事もかえってこない。


 私は焦った。


「失礼します」


 ダンボールを引きちぎった。簡単に解体できてしまった。紳士は私が無理やり買い与えてしまったコートを着て小さくなっていた。中には、あの日買った寝間着用の服。以前よりも痩せていて、針金ハンガーが服を着ているようだった。スーツはどこかと思ったら、すぐ近くの木立の枝に引っ掛けられている。他の私物は足元の黒い革の鞄ぐらいか。


「大丈夫ですか?」


 明らかに不調な紳士は、赤い顔をしている。私が肩を揺らすと、薄目を明けた。


「すごい熱です。病院に行きましょう」

「臭いが」


 もうこればかりは、拒否されても強引に出るしかない。私も気が動転している。見たくない未来が頭を掠め、恐怖に駆られるあまり声も大きくなってしまう。


「ほら、こんなに近くても気になりませんから。むしろ」


 離れたくない。

 お願い。

 こんなところで死なないで。


 私は紳士の肩に頭を埋めるようにした。彼は驚きすぎたのか、ビクリとも動かない。


「保険証持ってますか?」


 紳士は黒い鞄に視線を投げる。


「この中ですね?」


 鞄を開けると財布が出てきた。中には免許証や保険証もあった。


『赤坂純也』


 年齢は、私と同じ四十二。思わず彼の顔を見る。彼は熱で苦しいのか、低い声でうなっていた。


「やっぱり救急車を呼びます」

「それは」

「じゃなければ、タクシーに乗りましょう」


 幸いここは駅からそう離れていない。流しのタクシーを掴まえるのは簡単だった。紳士改め、赤坂さんを車内に押し込み、ドライバーに病院名を告げる。あそこの診察時間は九時からだ。今からならば、診察券を入れて一番に診てもらえるかもしれない。





 結果、赤坂さんは肺炎だった。かなり衰弱していることもあり、入院することになった。私は彼の入院の保証人欄に自分の名前を書き入れた。


「お身内の方ですよね?」


 看護師さんに尋ねられた私は、一瞬ためらった後、頷いた。そのことに、我が事ながら驚いた。


 病室は四人部屋だが、他には誰もいなかった。点滴に繋がれた赤坂さんの手を握る。初めて目が合った日のことを思い出す。あの時から、この大きな手に憧れていたのだ。たぶんこの人は、かなり前から私の身内のようなものだったのかもしれない。


 目を閉じて眠る赤坂さんは、横顔も綺麗。スーツを纏っている時と同じく、口元は上品に結ばれていた。うっかり吸い寄せられそうになった。



   ◇



 いつの間にか私は眠ってしまっていた。ちょうど今日は休みだったので、仕事は問題ない。


 でも、紳士が私の頭を撫でていた。私はその手を払いのけることもできず、唖然として彼の顔を見つめる。


 こざっぱりとしていた。私の知らないうちに、病院のお風呂に入ったか、看護師に身体を拭いてもらったのだろうか。


「お加減はどうですか」


 尋ねてみると、彼は少し考える素振りをする。手は、私から離れていった。


「恥ずかしい過去は、私が楽になることを許してはくれません」


 赤坂さんは、陽が陰り始めた窓の外の曇り空に目を向けた後、眼鏡を外した。いつもよりも若い印象になる。唐突に始まったのは、彼の昔話だった。


 彼は、十八で結婚し、すぐに子供にも恵まれた。事業を始めたのは二十歳過ぎで、一時はかなり稼いでいたらしい。それが傾いたのが二年前。借金を返しきった瞬間、奥さんからは別れを切り出された。正式な離婚後、貯金も底をつきそうになったところで、美容師になった一人娘のところに身を寄せる。けれど、ものの数ケ月で居心地が悪くなり、出てきたのだと言う。


「どうして図書館に」

「好きなんです」


 私と赤坂さんの目がぴったりと合う。暫し、息をするのも忘れていた。


 静寂を破ったのは看護師だった。検温と血圧測定だけして、すぐに部屋から出ていった。私はそれを会釈で見送って、赤坂さんに向きなおる。


「もう娘さんのところには」


 自嘲気味に笑う彼。


「合わせる顔がありません。こんなお荷物、困るでしょうし」


 おそらく彼は、とても傷ついている。疲れている。こんな顔にはとても見覚えがあった。


 そう、私だ。

 私もこんな顔をしていた時期があった。仕事や健康、誰もが普通に持っていると見なされがちなものを失った時、同時にその手から零れ落ちるものの筆頭が人間関係で。私の場合、元々仲の悪かった実家とほぼ絶縁状態になってしまった。女の癖に下手に学歴なんかがあるからこんなことになったのだ、学費を返せと罵られたことを思い出す。私だって、仕事は辞めたくなかった。結婚もしたかった。子供だって欲しかった。けれど、結局手元に残ったのは孤独だけ。こんなの、選んだ覚えはない。しかし、目の前に転がる現実だ。


 赤坂さんも、世間一般に言う失敗を重ね、路頭に迷い、今は病人である。ふと、自分と重なって見えてしまい、胸が締めつけられる。きっと、身の上を話すことには勇気が必要だったにちがいない。誰にでも知られたいことではないだろうから。


 でも、これを聞いたところで、私に何ができるというのだろう。同じく、目下失敗人生を歩み続けている女であり、他人の私が。


 これまで一度も見せてくれなかったその弱さの影を目の当たりにすると、私の足は竦んでしまう。その一方、自分の中では別の熱が膨らみ続けていた。たぶん、それは嬉しさと愛しさに類するもの。


「私、ずっと不思議だったんです。なぜあんな暮らしをしているのかって。こんな素敵な人が、勿体ないって」


 赤坂さんの喉が動いた。はっ、とした。


「すみません」


 私は頭を下げることで彼の顔を見ないようにした。


 何かが通じてしまった。伝えてはいけなかったものが、伝わってしまったのだ。


 早ければ、彼の退院はおそらく明日か明後日。


「また来ます」

「また会いましょう」


 私は、一度自分の家に帰った。

 すると、自宅に入って一時間もしないうちに熱を出して寝込んでしまい、復活できたのは二日後で。ようやく熱が下がったところで病院に行ってみたが、彼はもういなかった。もちろん図書館にも。


 消えた紳士。

 何の手がかりも、残されていなかった。



   ◇



 翌年の三月。民間委託の話は想像していたよりも随分と進んでいたらしい。四月からだそうだ。働く人員はもちろんリフレッシュされるのだけれど、ノウハウの継承や地元の人の安心感を保つためなのか、一部のアルバイトメンバーの顔ぶれは変わらないことになった。その中には私も入っていて、契約を一年延長してもらえたことにほっと胸を撫でおろしたところである。


 実のところ、図書館が民間に渡ることでアルバイト給料はさらに減った。私のように無趣味で食も細く、安アパートに住んでいるのでもなければ、これだけで生活していくのはかなり厳しいレベルだ。働く時間も少なくて済むのだけれど、規則上副業もできないとなると、死活問題である。多くの仲間はそれを理由に去っていった。そんなある日。



 居た。シャンデリアみたいな古めかしい照明が見下ろすその席は、西側の大窓の側にある四人がけ机、左から二番目奥。いつもの、場所。

 見慣れたスーツ。その背中。髪型はすっきりしている。あの日の理髪店よりも、腕の良い美容師の手でカットされているのだろう。とてもよく似合っていた。匂い立つような、良い男。


 息を殺して彼の後ろ、三メートルのところに立つ。

 気づかないはずの彼が、振り向いた。


「葵さん」


 名前を呼ばれたのは、初めてのことだった。私は反射的に応じてしまう。


「はい」


 彼は席から立ち上がった。最後に会った時よりも、肉付きがよくなっている。そのオーラは、相変わらず紳士そのものだ。


「おかえりなさい」


 やっとの思いで絞り出した声は、自分のものとは思えない程に、女だった。


「ただいま」


 紳士がこちらにこちらへ数歩近づいてくる。ここ、図書館の青絨毯を踏みしめて。この数ケ月間、ずっと抜け殻のようになっていた私に向かって真っ直ぐに手を差し出した。全てがスローモーションで見える。


「四月からここで働くことになった赤坂です。でも、住む場所がありません」


 こんなあざとい顔をする人だったなんて。

 私の頭からは、自分の歳のことなんかすっぽりと抜け落ちていた。咄嗟に、早口でまくしたてる。


「あのよかったら」

「末永くよろしくお願いします」


 まだ、最後まで言っていないのに。


 私はこのまま衝動に任せて良いものか、少し考えようとした。でも、もう遅い。彼に捕まった私の左手は、自ら彼を離すまいとしっかり握り返していたのだから。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

図書館の人 山下真響 @mayurayst

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ