第二十六話 追い詰められる巫女(後編)
「誰だ! そこにいるのは!」
叫ぶと同時に。
強い殺気に反応して、そちらへ向き直るセルヴス・マガーニャ。
すると見えてきたのは、暗い夜の大通りを走ってくる人影だった。
黒衣と黒布で全身を隠しており、覆われていない二つの青い目だけが、わずかに存在を主張している。この距離でわかるほど露骨に胸が膨らんでいるわけではないが、そう思って見れば、男性にしては細い手脚。瞬間的に、この黒装束は女だとセルヴスは見抜いた。
いや、そもそも。
黒ずくめという格好の時点で同業者――裏の世界の住人――であることは確実であり、しかも、現在セルヴスに敵対の意思を示す殺し屋など、一人しか思い当たらない。
つまり、こいつは『黒い炎の鉤爪使い』と呼ばれる女暗殺者だ!
そこまで一瞬で理解したセルヴスだったが、まるで彼の頭の中で結論が出るのを待っていたかのように、その『黒い炎の鉤爪使い』が、何かを投擲するような仕草を見せた。
続いて聞こえてきたのは、風を切るような音。
「甘いわ! しょせんは女の殺し屋か!」
たとえ、夜の闇に紛れようとも。
少しでも手の動きがわかれば、投げつけてくるタイミングは丸わかりだ。それに、自分と相手とを直線で結べば、飛んでくる軌道と一致するだろう。
だから、ポンと横に跳んで、余裕でかわしたつもりだったが……。
「……くっ!」
頬に感じたのは、刃物で薄く切られたような感触。
サッと当てがった己の右手を、頬から離して、見える位置へ移すと……。
赤い血が付着していた。
血の量から考えて、深々と切られたわけではない。大騒ぎするほどの事態ではないが、むしろ傷つけられたのは、彼のプライドの方だった。
「あの
まさか、回避運動を予測した上で投げたとは思えない。おそらく、右へ避けられても左へ避けられても構わないように、一度の挙動で、複数の刃物を投げつけたのではないだろうか。
瞬時のうちに、敵の手口を察するセルヴス。ここまでは、さすがに一流の殺し屋、と言われてもおかしくなかったかもしれない。
しかし。
「……ん?」
自分の右手から視線を上げて、再び『黒い炎の鉤爪使い』を視界に捉えようとしたところで、驚かされることになった。
相手の姿は、もう消えていたのだから!
「やりやがったな……」
大きく動揺することもなく。
むしろ落ち着いて、苦笑いさえ浮かべて呟くセルヴス。
気づけば、姿だけではなく、気配すら消えている。どうやら最初の強い殺気は、自分に対する宣戦布告だったらしい。
ならば、こちらも挨拶せねばならない。
「イアチェラン・グラーチェス・フォルティテル!」
先ほど『黒い炎の鉤爪使い』が立っていた地点から、少し右側。真っ暗で何も見えない辺りを狙って、セルヴスは強氷魔法フリグダを詠唱した。
そこに誰かいたならば、空気中の水蒸気と共に一瞬で凍りつき、パリンと砕けていたことだろう。
しかし、そんな事態にはならなかった。ただ空中に氷の塊が出現して、砕けて粉々になっただけ。
「ふん。いいってことよ」
セルヴスは、ふてぶてしく吐き捨てる。
考えようによっては、魔力の無駄遣いなのかもしれない。特に今のセルヴスは、魔力回復のために眠っていたら途中で叩き起こされた、という状態。まだ魔力は全快していないはずだった。
だが向こうだって、刃物の複数投擲という手の内を見せてきたのだ。これくらいは、返礼として相応しいと思った。
続いて。
「フルグル・フェリット・フォルティテル! フルグル・フェリット・フォルティテル! フルグル・フェリット・フォルティテル!」
強雷魔法トニトゥダの三連発。
今度は、挨拶代わりではなかった。もしも自分が相手の立場だったら、気配を消した状態で、どう動き回っているだろうか。頭の中でシミュレートした上で、『黒い炎の鉤爪使い』がいるかもしれない場所に、次々と雷を落としていったのだ。
たとえ命中しなくても、こちらからの攻撃が連続すれば、相手が動揺して、気配を隠し切れなくなる可能性もある。そうなれば、居場所を特定できる……。
そこまで考えた上での魔法攻撃だったが。
「……!」
うまくいったらしい。右の方から、大きな殺気が感じられるのだ。
「イアチェラン・グラーチェス・フォルティテル!」
再び放つ、強氷魔法フリグダ。しかし先ほどと同じく、手応えはなかった。
「ちっ!」
小さく舌打ちした瞬間。
今度は左側から、小さいものではあるが、やはり殺気。この気配は、今対峙している敵のものだ!
「ラクタ・ラピス・フォルティテル!」
今度の攻撃は、強礫魔法ストナダ。大気中の
しかし今は、わざと複数の小石にして、ある程度の範囲に、散弾をばら撒くようにしてみたのだが……。
「けっ。また、手応えなしかよ」
吐き捨てる彼の表情は、少しずつ険しくなっていく。
だが、セルヴス自身は、そのことに気づいていなかった。
「いっそ風魔法で、この辺一帯に嵐を巻き起こしてやりたいが……。あれは魔力消費が激しいから、今の俺には無理だろうし……」
ブツブツと呟きながら、改めて今の状況を考えてみると。
こちらの魔法は相手に当たらないが、相手も攻撃を仕掛けてこない。
これは、少し不思議だった。
最初と違って、姿も気配も消した状態ならば、あの複数投擲の効果は抜群のはず。セルヴスがあの一撃をかわせたのは――完全回避ではないものの浅い傷で済んだのは――、敵の手の動きを感じ取ったからに過ぎない。投擲の場所もタイミングも謎ならば、いくらセルヴスでも、とても避けられないだろうに……。
そこまで考えた段階で、セルヴスは悟った。
「……そういうことかい。隠れたままじゃ、あいつも攻撃できない、ってことだな」
そう、『姿も気配も消した状態ならば』という前提。おそらく、それが難しいのだろう。やはり『黒い炎の鉤爪使い』は、しょせん女。殺し屋としては、二流か三流。気配を隠すことには長けておらず、こちらを攻撃しようとしたら、その瞬間、殺気が膨らんでしまうのではないだろうか。
「だったら話は簡単だ。あんたも俺も、どっちも攻撃できねえ」
互いに平等の、膠着状態。
いや、こちらの方が有利に違いない。敵が殺気を見せた瞬間、そこに魔法を叩き込むと同時に、自分は刃物の襲来を予測して、大きく立ち位置を変えればいいのだ。先ほどのような『ポンと横に跳んで』ではなく、今度は大きく動いて。
そう、相手が殺気をあらわにしてからでも、対処は可能なのだ。
ならば……。
「あんたが出てくるまでに、俺は俺で、自分の用事を済ませてしまうさ」
相手が『黒い炎の鉤爪使い』である限り、敵に背中を向けても大丈夫。そう慢心したセルヴスは、先に『神託の巫女』を――本来の
獲物は姿を消していた。
壁の前に倒れていたはずの『神託の巫女』が、いなくなっていたのだ!
「畜生! そういうことか!」
ここに至り、ようやくセルヴスは理解した。
あの『黒い炎の鉤爪使い』が、殺気を出したり消したりしていた理由。そうやってセルヴスの注意を引きつつ、気配を消している間に『黒い炎の鉤爪使い』は移動して、大きく回り込み……。
セルヴスの狙っていた娘を、見事に連れ去ったのだ。
――――――――――――
「こ、ここは……。わ、わたしは……」
「目が覚めたのか、娘」
彼女の耳に入ってきたのは、冷たく鋭い声。けれども、なぜか温かさも感じられた。
その声が告げた通り、確かにアデリナ・オレイクは、意識を取り戻したのだが……。
とても「助かった」と言える状態ではなかった。
全身には激痛が走り、さらに痺れもあって、手足が上手く動かせない。それどころか、顔にも麻痺があるとみえて、喋ろうとしても違和感があり、目に至っては、開くことさえ出来ない有様だった。
それでも。
先ほどまで殺されそうだったのを思い出すと同時に、今は違うのだ、という状況だけは理解できた。
痛みと痺れのために、体の感覚は当てにならないのだが……。揺れを感じるので、どうやら運ばれているらしい。いや、背負われている、という方が正しいのだろうか。そんな気がする。
そこまでアデリナが把握したところで、再び、呼びかける声が聞こえてきた。
「無理をせず、今は休んでいろ。貴様は重症なのだ。すぐに、治療院へ運び込んでやる」
ああ、やはり自分は運搬されているのだ。おそらく、この人に背負われて。
そう思うと安心してしまい、まるで自分が、母親の背中で眠る赤ん坊になったかのように思えてしまう。
だが、それは幻想。間違いなく、この声の主は赤の他人。
「あ、ありがとうございます。助かりました……」
無理をしてでも喋ることで、だんだん普通に話せるようになってきた。現状の肉体における口の動かし方を、脳が理解しつつあるのだろう。
「どこのどなたか存じ上げませんが……。ひとつ懺悔を聞いてくださいませ」
「懺悔だと?」
「そうです。自分でも知らぬうちに、私は悪事の片棒を担がされていたのです」
謎の声の主は、もう止めようとはしない。アデリナを運びながら、黙って耳を傾けてくれているようだった。
「私は神託の巫女。ですが、全ては偽りでした。勇者様の名前を騙っていたのです。どうお詫びしたら良いものか……。もう勇者様に向ける顔がなくて……。本当に申し訳ありませんでした」
気丈に話し続けるアデリナだが、相変わらず目は見えないままであり、体の痛みも続いている。いつまた意識が消えてしまうのか、アデリナ自身もわからないくらいだった。
だから、言うべきことを、全て言っておかねばならない。
勇者様への謝罪を終えたならば、次に語るべきことは……。
「全ては、あの三人の陰謀でした。私は彼らに裏切られたのです。彼らは偽の神託を利用して、押し込み強盗まで働いており……」
「あの三人とは、誰だ?」
黙って聞いていたはずの相手が、珍しく口を挟んだ。
「カルロータ様とモナクス様とセルヴス……」
問われるがままに答えたアデリナは、また、自分の言いたいことだけを口にし始める。
「三人は、先代までの神託の巫女をも殺して……」
ここで、フッと意識が遠くなった。
だが、まだ話は終わっていない。あと、もう少し。
アデリナは、意識を手放さぬように、強く心を保ち続ける。
「先輩たちの悲しみ……。私の悔しさ……。この想いを何とかしてくれる人を探して……。おそらく、あの占い屋さんの人脈なら……。南中央広場の占い屋さん……」
そこがアデリナの限界だった。いや、そこまで
成し遂げた安心感から、顔に笑顔さえ浮かべているアデリナ。
彼女の表情を見ることは出来ないものの、
「貴様の気持ちは、確かに聞き届けたぞ。だから安らかに眠れ」
と、小さく呟くモノク・ロー。
意識不明の巫女を背負ったまま、黒装束のモノクは、治療院へと急ぐのだった。
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