第二十五話 追い詰められる巫女(前編)

   

 セルヴス・マガーニャは、寝間着でも部屋着でもなかった。白いシャツと裾の広い青ズボン、つまり、いつも通りの僧官姿だったのだ。

 この格好のまま、セルヴスが寝室の天井裏に隠れていたことを、彼女は知らない。だからアデリナ・オレイクは、少し誤解してしまった。わざわざ着替えて追いかけてきたのか、と。

「ご苦労なことね、セルヴス。……いいえ、『七色の魔術小僧』と呼ぶべきかしら?」

「アデリナ様に、その名前で呼ばれる日が来るとはねえ。思ってもみませんでしたよ」

 セルヴスは余裕の態度で、少し苦笑いを浮かべる。

「あの二人、そこまで俺のことを喋ったんですかい? 仕方のない連中だなあ。しょせんは宗教家と娼婦に過ぎない、ってことか……」

 冗談じみた口調は、そこまでだった。セルヴスの声が、鋭利なカミソリのような、ゾッとする響きに変わる。

「そこまで知られたとあっては、二つに一つだ。仲間になるか、ここで死ぬか。あんたに選ばせてやるぜ、アデリナ」

「仲間になんて! なんで私が!」

 殺し屋の発する特異な空気を感じながらも、気圧けおされることなく、アデリナが示したのは拒絶の意思。

 それを聞き流すかのように、セルヴスは、少しだけ穏やかな声に戻す。

「ああ、そうだ。アデリナ様、いっそのこと、俺の情婦になりますかい? ほら、モナクス様とカルロータ様の関係みたいに」

 声だけ聞けば、従者としてのセルヴスを思い出させるような部分もある。だがその目は、アデリナが見たことのないものだった。まるで、食いしん坊の若い巫女たちが、甘いお菓子を前にした時のような目つきだ、とアデリナは思ってしまう。

「あまり小娘ガキは好みじゃないんだが……。まあ、一度でも肉体からだを重ねてしまえば、情も湧きますからね。俺はあんたを好きになれるし、あんたも俺に惚れるだろうさ。どうせ生娘なんだろ? 女の悦びってやつを、叩き込んでやるぜ」

 だんだんと、セルヴスが本性を現してきたようにも思えて……。

 アデリナは、悲痛の叫びを上げる。

「冗談じゃないわ! あなたと、そんな関係になるくらいなら……」


 もしも、セルヴスに抱かれるくらいならば。

 もしも、今すぐ誰かに純潔を捧げなければならないとしたら。

 そう考えた時。

 アデリナの頭に浮かんできたのは、今日の昼間、楽しい一時ひとときを過ごした相手の顔だった。

 ケンと名乗った少年は、一緒に勇者様の世界を垣間見た、二人だけの仲間であり……。

 今の今まで、彼に対する気持ちは、恋愛感情とは違うと思っていたのだが。

 他に親しい男性の知り合いがいないから、彼を思い浮かべたのか。あるいは、自覚のないまま恋心を抱いていたのか。

 アデリナは、自分でもわからなくなってしまった。

 しかし。

 ここで彼について口にしたところで、答えにはならないだろう。

 だからアデリナは、ブンブンと首を振って、頭の中のイメージをかき消しながら、宣言する。

「……それくらいなら、私は死を選びます! 舌を噛んで死にます!」


 アデリナとしては、思い切った意思表示だったのに、

「へえ、そうですかい。まあ、それならそれで構いませんよ。殺す手間が省けるってもんだ。さあ、自害しておくんなさい」

「……」

 冗談っぽく受け流されてしまい、目に涙が浮かぶ。

「おや、いざ死のうとしたら、怖くなりましたかね? もしかして、きっかけが必要?」

 と言ったセルヴスは、軽くポンと手を叩いてから、言葉を続ける。

「ああ、そうか。『それくらいなら』と言いましたからね。俺に犯されそうになったら、という意味でしたら……」

 やわらかい口調のまま、しかし気持ちの悪い目つきで、セルヴスは一歩、アデリナの方へと足を踏み出した。

「ひっ!」

 小さな悲鳴と共に、後退あとずさりするアデリナ。しかし、すぐに背中が何かに触れたので……。

 振り返るまでもなく、背後に白壁の商家があったことを思い出す。同時に、もう逃げ場はないのだと、今さらのように悟った。

「……この場で今すぐ、犯して差し上げればよろしいので? そうしたら、見事に自害してくださるので?」

「ひ、ひとを呼びます! 誰か、助けてっ!」

 アデリナは、精一杯の大声を上げる。

 助けが来るはずもなかったが、全くの無駄ではなかったらしい。

 ジリジリと迫りつつあったセルヴスが、少し困ったような顔をして、その足を止めたのだ。

「あんたがいくら叫ぼうと、どうせ誰も聞いちゃいねえでしょう。でも厄介だから、実力行使させてもらいますぜ……。フルグル・フェリット・フォルティテル!」


 夢の中で聞いた呪文だ! 魔法の雷が来る!

 そう悟ったアデリナは、呪文詠唱から魔法発動までの一瞬のタイムラグの間に、バッと大きく、横へ跳び退いていた。

 しかし。

「おや、これは凄い。けようとしなすった。でも……」

 ニヤリと笑うセルヴス。

「……体の方が、頭で考えたようには動きませんでしたなあ」

 そう。

 アデリナは回避を試みたのだが、彼女は喧嘩すらしたことがないほど、全く戦闘経験のない素人娘だ。

 頭から浴びるのだけはけられたものの、雷は右脚に直撃。全身が痺れて倒れこみ、もはや意識も消えかけていた。


「ふむ。かろうじて、まだ息はあるようですな」

 セルヴスは近寄るまでもなく、アデリナの状態を正確に把握する。

「もう放っておいても、どうせお陀仏でしょうが、ここは確実を期すためにも……」

 動けぬ身では、回避は無理。

 今度こそ仕留める。

 そのつもりでセルヴスは、再び呪文を詠唱しようとしたのだが……。

 突然、斜め後ろから強い殺気を感じて、

「誰だ! そこにいるのは!」

 大きく叫びながら、振り向くのだった。


――――――――――――


 同じく深夜。

 地方都市サウザの街中まちなかを、闇に紛れて走る者があった。

 体には、ぴったりとフィットした黒装束。顔にも黒い布を巻きつけており、肌色が見えるのは両目の周りだけ。そこから覗く青い瞳は宝石のように美しく、逆に目立つ形にもなり得るのだが、その点、本人は気づいていないのかもしれない。

 殺し屋モノク・ロー。

 昼間は大道芸人『投げナイフの美女』として暮らす彼女が、今は本来の暗殺者スタイルで行動している。それには、ちょっとした事情があった。


 発端は、一昨日の昼間、巫女の従者らしき男を見かけたこと。

 男の発する空気は、明らかに、裏の世界の人間のものだった。そんな男が宗教組織に潜り込んでいるのを不審に思い、その日の夕方、モノクは裏仕事の仲介屋を訪ねた。

 その仲介屋――通称『おやっさん』――は、オモテの顔としては、刃物屋を営んでいる。モノクは、オモテではナイフ投げの芸人であるため、仕事道具を買いに来た、という顔をすれば、立ち入りやすい店だった。

 裏の世界の情報に詳しいおやっさんから、それとなく話を聞き出そうとしたところ、

「他の殺し屋についてペラペラ喋るのは、仁義に反する」

 と、彼は難しい顔をする。だが、すぐに態度を改めて、

「とはいえ、他ならぬお前さんの頼みだ。現役ではなく、足を洗った連中の情報なら、別に構わないだろう。少し調べといてやるよ」

 そう言ってくれたのだった。

 続いて、昨日。

 オモテの仕事場、『アサク演芸会館』にて。

 楽屋における雑談として、街中まちなかを歩く巫女と従者を見かけた、という話を持ち出してみた。巫女というものは外ではなく寺院の中で働いているものではないのか、と不思議そうな顔で。

 すると。

「ああ、それならおそらく、神託の巫女でしょうね」

「最近、噂になってるよなあ。モノクさんも、聞いたことないかい?」

「東の寺院だ、って話ですよ。いや一口に『東』といっても、東地区には、いくつも寺院がありますが……。その寺院なら、確か……」

 芸人仲間の一人が、懇切丁寧に、寺院の場所まで教えてくれたのだ。

 そこで、今日の午後。

 少し時間があったので、自分で問題の寺院を見に行こうかと思ったのだが。

 寺院に行くまでもなかった。向かう途中で、例の怪しい従者が通りを歩いているところに遭遇。しかも彼は、誰かを尾行している途中らしく……。

 驚いたことに、男が追いかけているのは、モノクの知り合いである二人。裏仕事の仲間として組んだことのある、ゲルエイ・ドゥとみやこケンだったのだ。


 最初は軽い好奇心だったが、こうなると、事情は少し変わってくる。自分たちの裏仕事にも関わってくるかもしれない。

 再びおやっさんの店へ行こうと決めたのだが、二日前にも顔を出したばかりだ。『投げナイフの美女』が刃物屋へ行くにしては、頻繁すぎる。

 だから今度は、人々が寝静まった深夜、誰にも見られないようにして忍び込んだ。彼女本来の、黒装束に身を包んで。

 その結果。

 モノクは、おやっさんから、貴重な情報を入手したのだった。

 その従者が引退した殺し屋なのだとしたら、該当する人物は一人。背格好から判断すると、通称『七色の魔術小僧』。いくつもの魔法を操る凄腕の魔法使いだったが、いつのまにか裏の世界から姿を消して、今は行方が知れないという。


「引退したはずの『七色の魔術小僧』……。それが、神託の巫女で有名になった寺院に居座り、しかも、その巫女の従者にまでなっている……」

 誰もいない夜の通りで、ふと呟くモノク。

 男が魔法使いであることと、巫女が神託を授かるという話には、何か関係があるのだろうか。ゲルエイを――こちらの仲間の魔法使いを――尾行していたことにも、それが絡んでくるのだろうか。

 色々と考えながら、帰り道を急ぐモノクだったが。

 その時。

「……誰か、助けてっ!」

 遠くからの悲鳴が、耳に入ったのだった。


 おせっかいかもしれない。そう思いながらも、現場へ向かうモノク。

 見えてきたのは、白いシャツに青い裾広ズボンの男と、寝間着の上に薄いナイトガウンを羽織っただけの女。

 女は倒れていることもあり、この暗闇では、誰だか全くわからない。だが、彼女に襲いかかっているように見える男の方は……。

 小柄で坊主頭。あからさまに漂う、悪事の空気。

 間違いない。彼こそが、たった今モノクが思い浮かべていた男、『七色の魔術小僧』だ!


 もはや『おせっかい』とは言っていられなかった。

 凶行を止めるつもりで、わざとモノクは、強い殺気を放つ。

 続いて。

 懐から取り出した投げナイフを――オモテの仕事道具ではなく裏で使う黒いタイプを――、ビュッと飛ばすのだった。

   

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