ノイギーアの朝未き

花散ここ

甘くても苦くても①(VD編)

 穏やかな冬の日だった。

 わたしは自室のソファーに寝転がって、レオナさんに借りた恋愛小説を読んでいた。お行儀がいいとは言えないけれど、部屋の中にはわたししか居ないので問題ない。


 差し込む午後の日差しも、冬には珍しいほどに暖かく、わたしは夢と現の間をさまよっていた。屋根から落ちた雪が、どさりと重たい音を立てる。それでもわたしの意識は浮上しない。

 これはもう、寝てしまおう……そう思って、最後の力を振り絞って小説に栞を挟む。ぱたんと静かに本を閉じ、あとは瞼を落とすだけ――



 ――コンコンコン! コンコンコン!


 扉を叩くノックに、わたしの意識は一気に覚醒した。びっくりして思わずソファーからずり落ちそうになってしまうほど。

 心臓が早鐘を打って、動揺の醒めないわたしは周囲を見回した。何があった。


「クレアさん! 大変です!」


 切羽詰まったようなレオナさんの声。

 わたしは慌てて扉に向かい、大きく開く。そこには深刻な顔をしたレオナさんが立っていた。


「どうしました? 何があったんです?」

「クレアさん、バレンタインデーって知ってます?」

「いえ、知らないですけれど……」

「私も知らなかったんです。でもね、この本によると東国にはそんな文化があるんですって」


 そう言って、ずいとレオナさんが本を突き出してくる。

 思わず受け取ったそれは、恋愛小説だった。


「それ、いま流行りの小説なんですけどね。元は東国発祥の小説で、その中にバレンタインデーって文化の事が書かれているんです」


 顔を紅潮させ、興奮状態のレオナさんをとりあえず部屋に通す。

 わたしは受け取った小説の表紙を指でなぞりながら、レオナさんと並んでソファーに腰を下ろした。


「それで、バレンタインデーって何なんです?」

「バレンタインデーは、元々は愛の誓いの日なんですって。それを東国では、大切な人や想い人にチョコレートを贈って想いを伝える日となっているそうですよ」


 レオナさんの説明に、ふんふんと頷くけれど……この後の展開が読めてしまったぞ。


「クレアさん、チョコレートでお菓子を作りましょう! バレンタインデーやりましょうよ!」

「作るのはいいんですが、誰に渡すんです?」

「クレアさんはアルト様に渡して下さい」

「いや、ちょっとそれは……」


 大切な人や想い人に贈って想いを伝える日なんでしょう?

 そんな日にアルトさんにチョコレートを送ったら、それはもう告白しているのと同義ではないだろうか。

 まだ自分の気持ちも濁しているわたしに、それは無理難題過ぎるんだけれど。


「レオナさんは誰に贈るんですか?」

「私はクレアさんに!」

「……わたしに、ですか?」

「ええ、大切な人ですもん。別に恋愛感情じゃなくても、大切な人に感謝を伝える日と私は認識しました」

「それならわたしだって、レオナさんに贈りたいですよぅ!」

「ふふ、相思相愛ですね」


 レオナさんが嬉しそうに笑うけれど、相思相愛?

 というかそういう認識なら、レオナさんだけではなく他の皆に贈ってもいいんじゃないだろうか。


「じゃあわたしはレオナさんと、アルトさんと、ヴェンデルさんとライナーさんに贈ります」

「私もクレアさんの他に、ぃ達にも贈りますか。クレアさんだけに贈ったら拗ねちゃいそうですもんね」


 わたし達は顔を見合わせて笑った。

 チョコレートのお祭りみたいで、何とも楽しそうじゃないか。想いを、ではなくて日頃の感謝を伝える日。そういう認識でいこう。


 何を作るかよりも、何を食べようかなんて悩んでいるレオナさんにくすくすと笑いながら、わたし達は揃って厨房へと向かったのだった。



 厨房で、レオナさんとお揃いのエプロンを着ける。フリルがたっぷりのそのエプロンは気恥ずかしくなるくらいに可愛いのだけど、気持ちが高揚するのも事実。


 昼食の片付けは既に終わり、夕飯の仕込みをするにはまだ早い時間。料理人の方々も休憩していて、厨房の中にはわたし達しかいない。

 それにしても、いつも厨房を快く貸してくれる料理人の皆さんには感謝しかないな。うん、これはアルトさん達だけじゃなくて、神殿の皆さんの分もチョコレートのお菓子を作ろう。夕飯のデザートにでも付けて貰えたらいいな。


 わたしが内心でそんな事を考えている間に、レオナさんが入口に張り紙をしていた。


【立入禁止。特に兄ぃ!】


 それを廊下側の扉に張ってから、しっかりと扉を閉めて鍵までかけている。

 でも確かにそこまでしないと、ライナーさんは入って来てしまうかもしれないな。


「さてさて、何を作りましょうか」


 わたしは水色のエプロンの紐を直しながら、レオナさんに問いかけた。レオナさんはピンクのエプロンだ。

 レオナさんは長い髪を高い場所でお団子に結い上げている。


「私はがつんと甘いチョコレートケーキが食べたいですね」

「じゃあレオナさんにはわたしが、チョコレートケーキを作りますね」

「ありがとうございます。クレアさんは何が好きですか?」


 わたしは厨房に来る前に図書室で借りてきた、お菓子の本を捲りながら考えた。どれも美味しそうで迷ってしまうな。


「あ、これ。このチョコタルトが美味しそうです」


 わたしは大きく絵が描かれたチョコタルトを指差した。隣でそれを覗きこんだレオナさんも、表情を綻ばせている。


「美味しそうですね! じゃあ私はこれを作ります。……分からないところがあったら、教えて下さいね」


 基本、食べる専門のレオナさんは自信なさげに笑って見せる。うん、可愛い。

 このタルトだったらそんなに難しくないから、他の作業をしながらでも手伝えるから大丈夫。


「もちろんですよぅ。では、やりますか」


 腕捲りをしたわたし達は、両手を拳の形にぐっと握りしめて笑った。

 誰かと一緒に料理をするなんて、父さんがいなくなってから初めてのことだ。それがお友達と一緒に作れるだなんて、こんな時間がわたしにも来るとは思ってもみなかった。


 わくわくするし、胸が高鳴る。

 浮かぶ笑みを誤魔化す事もできず、わたしは機嫌良く小麦粉の袋を手に取ったのだった。


 

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