くちぐせ

沖江まやみ

#1


彼女の口癖は、「幸せなうちに死にたい」だった。


彼女というのはただの代名詞で、そんな大それた関係でもないし、酒を飲みながら誰かと話をしたいときに会うぐらいの女友達だった。



そんな彼女は晴れて、昨日死んだ。



正確には死んだことを僕が悟ったと言ったほうが正しい。朝起きてメッセージを確認したら、


「これ以上ない幸せでした」


と彼女から来ていた。僕は不思議と悲しくなかった。

ただ寝起きで頭が働かなかったからではなく、起きてシャワーをして、朝食をとって、身支度をして出かけ、そして今まで、全くと言っていいほど悲しくないのである。


会うたびに「幸せなうちに死にたい」と言っていたから、ああ、やっと死んだんだなあ、とさえ感じた。

それだけ、彼女はその口癖を繰り返し、僕には受け入れられていたんだと思う。


不謹慎かもしれないけれど、きっと彼女の「幸せである」という最高の表現が死ぬことなんだと僕は推測する。人が幸せで笑顔になるように、涙が出るように、誰かと抱き合うように、彼女は死を選ぶのである。


彼女は生前、こう言っていた。


「あたしが死んだっぽいなって思ったらさ、遺書を探しに来てほしいんだよね。家のポストに合鍵を入れておくから、勝手に入って。」


僕に向けて何か書くからそんなことを言ったのだと思うけれど、その時は少しおっかなくて微妙な反応をしてしまった。

だって「あたしが死んだっぽいなって思ったらさ」と、いかにも「あたしが風邪っぽいなって思ったらさ」というような調子で言うものだから、すんなり受け止めていいものなのか、理解しろというほうが酷である。


けど今ではそう反応してしまったことに後悔までしてしまっている。完全に彼女のおかしな思想によってマヒしてきたのだろう。

だから、彼女が死んだらしい翌日の今日、彼女の家に向かうために、電車に揺られるのである。


扉のすぐそばにもたれかかって、エンドロールのように流れる景色をぼんやり見ていると、少し気持ち悪くなってきた。

僕は乗り物にめっぽう弱くて、電車は特に苦手である。こんなに苦労して行くのだから、遺産相続として三〇〇〇円ぐらい置いておいてほしい。(僕は法律にもめっぽう弱い。)


くだらないことを考えながら、乗り物酔いが悪化しないように、そっと目を閉じた。


立ったまま寝られるほど器用ではないので、目を閉じたついでに、彼女とのことを思い出してみようと思う。


あくまでも僕が見てきたことだから、真実は歪められているかもしれない。


それでも、これが僕の知る彼女だから、僕には僕の中の彼女しか思い出せない。


思い出は、積もった灰色のほこりが厚くなるごとに、美しさが増すのである。

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