第18話 傷口に触りあってしまった。

 とりあえず合わせてみよう、ということになったのは、その一週間後だった。


 珍しくその日の午後、FAVは一人で出向いていた。前日の仕事が夜遅くまでの予約客だったので、その振り替えが本日の午後にきたのだった。翌日は自分の非番だってのでちょうど「1.5連休」な気分でよかったのだ。

 TEARはバイトに行ってから来る、ということである。

 たどりついてみると、P子さんは来ているけど、スーパーに買い出しにマリコさんと出ているということだった。

 そして家主のHISAKAは、と言うと、楽器屋に、注文したクラッシュ・シンバルが来ているというので、それを取りに行っているという。

 では現在誰がそのことをFAVに告げたか、と言うと、残った一人しか居まい。MAVOである。

 その日はそれでも、ひらひらのワンピースだのエプロンドレスだのではなく、長袖のTシャツにジーンズ、といったラフな格好だった。実際どう見たって、そっちの方が似合うな、とFAVは思う。

 ポリシーという奴だろうか、と自分を納得させる。


「で、いつ頃連中帰ってくるって?」

「それでもそろそろ来ると思うんだけどな……」


 あいまいな返事。

 正直言って、FAVは他のメンバー達の性格には全くもって文句つけようもないほど気に入っていた。

 FAV自身が結構ぐずくずと思い悩むタイプなので、HISAKAにせよTEARにせよすぱすぱと割り切るタイプというのは、うらやましいだけでなく、付き合っていて、前向きなエネルギーをくれる。

 P子さんの一見ぼーっとしているようなあの態度は、妙に安心できる。マリコさんのクールに全てを割り切る姿勢もなかなかすっきりして好きである。

 だがMAVOだけはどうも苦手だった。おそらくエナやマナミと会っていたら、エナあたりにもそういうことを感じるのではなかろうか。

 ある意味では自分に一番良く似ている。それも自分の好きじゃない部分の。

 声は別である。あのHISAKAから渡された「新曲」には、心底敬服した。

 FAVはもともと日本のロックでバラードという奴を認めていなかったけれど、これだけは認められると、素直に感じたのだ。

 だいたいいくら寝込んでいるような時だって、音楽を聴いて泣いてしまったことなんてない。TEARに見られたのは不覚だったと思うが。

 何となくぼーっと待っているのも手持ち無沙汰だったので、FAVはソファで大判の写真雑誌を見ながら、ジャケットのポケットから煙草を出した。

 ライターの音にMAVOは振り向く。軽く眉をひそめる。


「あ、ごめん、嫌いならやめるよ」


 習慣というのは恐ろしいものである。

 いつのまにか、煙草もアルコールも当たり前なものになってしまっていて、気をつけないと煙草が嫌いな人が居る、ということ自体を忘れそうになる。

 まあそれに、彼女はヴォーカリストだし、と煙草を消す。


 ところが。


「ううん、そうじゃなくて」

「何?」

「好きなのかもしれないけれど…… 身体に悪いよ」

「あー…… でももうずっとだし……」


 高校二年くらいの頃からだから…… 今更言われても、と彼女は内心つぶやく。


「でも、女のひとには良くないって、絶対にあると思うし」

「……」


 危険信号が走る。


「煙草吸ってる女のひとって、それがそのままお腹の子どもに伝わるってことあるし…… 吸っているひとの方がやっぱり、病弱な子ども産みやすいって言われているし」


 ―――うるさい。


 FAVは頭を軽くかきむしる。


 あんたにそのことで言われたくないんだ。あたしの関係ないことに。関係できないことに。


 MAVOは気付いたか気付かないか、とにかく続ける。

 その良く通る声が、直接、頭に突き刺さる。

 良く通る声だから、余計に突き刺さる。


「それに、煙草って、緩慢な自殺って言われてるし……」


 柔らかい口調と時々顔を出す妙にムズカシイ言葉のオンパレード。

 FAVの一番聞きたくないコトバ達が一つ一つ、あの涙を流させた曲と同じ声で突き刺さる。


「ちょっと黙ってよ…… アナタの声、すごく、響く」

「あ、ごめんなさい」

「それに、煙草がゆっくりした自殺だっていうなら、あんたは何なんだっていうの」

「え」

「違うの?」


 FAVは立ち上がり、MAVOの手を掴んだ。

 少し長すぎるくらいの長袖の下には、いつものようにブレスレットが両方に。

 その片方を苛立ちのまま、抜き取った。

 彼女の手からすり抜けた。


「!」


 MAVOは目を一杯に広げた。

 FAVはそのあらわになった右の手首を思いきり引き寄せた。

 予想はしていたけれど。

 不自然な方向に走った傷跡。

 小指側から斜めに外側に向かって下りていく、生々しいまでの。


 急に頭が冷えていくのを感じた。


「MAVO……」


 いけないことをした、とは思った。

 彼女は動かない。どうしちゃったのだろう。

 と、その時だった。


「だから」

「え」


 平常の彼女なら、まず出さないような低音が響いた。

 そして、勢い良く、FAVを座っていたソファに突き飛ばした。あの大人しそうな子から出た力とはとても思えないほど強く。


「知らないくせに」


 確かにそう言った。

 形のいいくっきりした目はまばたき一つさせず、MAVOはFAVに近付いた。

 ひざでバランスを崩した足を押さえつけ、前髪を留めていたアメリカピンを一つ抜く。

 ぱらりと彼女のはちみつブロンドが垂れた。

 アメリカピンの先は、丸まってはいない。切りっぱなしだ。そして片方の手でFAVを押さえつけ、もう片方で腕を取ると、ひじ近く、白く柔らかいところへピンを突きつける。


 !


 痛みが走る。

 動けない。FAVは声と視線で留められた標本になった気分だった。


「あんたの手は綺麗だもの」


 じっと据える視線。綺麗な目だ。


「わかんないのよ。誰にも傷つけられたことがないんでしょ」


 ぐっとそのままピンを押さえつける。

 何て力。痛い。

 なのに逃げられない。押さえられているからだけじゃない。

 確かにそれも何か慣れているようで怖いというのもあったが、彼女の声があまりにも耳に入ってくるので、その声に絡み取られて、身体が動かない。

 押さえつけたピンをそのまま彼女は力一杯動かした。


 ちょっと待ってよ、どうして、そうなるの、いったい何、どうしてそんなことするの?


 考えがぐるぐる回りだす。自分の白い腕から一本の赤い筋が走る。

 彼女の声も、FAVの手の痛みも確かにあるのに、どうしても現実に起こっていることには思えない。


 助けて。


 FAVは無意識に、誰かの姿を思い浮かべていた。


 と、その時、勢い良くドアが開いた。


 下の方だけストレートの髪が、大きな胸が、アクセサリーが揺れる。

 TEARはMAVOをFAVから引き離すと、大きく両手で頬を挟んではたいた。くたり、とその力が抜ける。

 手慣れた様子で彼女を持ち上げ、対面のソファに寝かせる。

 何て力。そして割と無造作だった。


「ごめん。遅れた」


 ぬけぬけと、そんなことを言う。深呼吸すると頭に一気にきた。


「……」


 FAVは気が抜けた。ぐらり、と身体が傾くのを感じる。

 そしてふかふかの―――



 気がついた時には、HISAKAとP子さんも戻ってきていた。


「痛」


 腕に包帯がぐるぐる巻きにしてある。


「MAVOは?」

「向こうで眠らせてあるけれどね」


 リーダー殿はあっさり答える。綺麗な顔が不安半分、不服半分にしかめられている。


「とにかく今日の音合わせはパスね。仕方ない。ごめんねFAVさん」

「うん」


 そう答えるしかない。引っかき傷に近いだろう、腕の傷は、ひりひりと痛む。


「じゃあ今日はこれで散開。TEAR今日暇?」

「あーと、あたしこのひと送ってくわ」


 そう言ってFAVの方を指す。てさっさと帰り支度を始める。

 P子さんはTEARを呼び止めると、二つテーブルに置いてあったコンビニの袋のうち一つを彼女に、持ってきなさいなと渡す。

 TEARは感謝、と言いつつ音を立てる袋を受け取る。


「P子さんは?」


 FAVはたずねる。彼女は何事もなかったような顔で、


「ワタシはもう少ししたいことがあるから居ますよ」

「うん」

「行くべー」


 玄関でTEARが呼んでいる。

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