コロッセオの死神

七海けい

第1話:ある剣闘士の最期


 ──執政官ポンペイウスの年。ローマ。


 俺は、イリュリクム人だ。

 イリュリクムって言うのは地名で、地中海──ローマ人が言うところの我らが海mare nostrumの北東部、ダルマティアと呼ばれる地域だ。


 俺は、イリュリクム人の誇り高き戦士だ。

 ……ぃや、戦士だった。

 ……否。今も、誇り高い戦士である。……ということにしておこう。


 俺は、全イリュリクムの自由のため、ローマ支配に抗った。

 腰抜けのローマ兵士を五十人以上切り伏せ、あの忌々しい鷲の軍旗を踏み付けにした。


 だが、ローマ人は狡猾だった。腰抜けは、だいたい狡猾な生き物なのだ。

 買収された仲間の誰かが、俺と、俺の仲間たちをローマ人に売り渡した。


 俺は偽の情報に従って、森の中に潜み、ローマ軍団を待ち伏せしていた。

 そこを、あっけなく捕えられたのだ。


 そして今、俺は闘技場の地下にいる。

 俺は「剣闘士」として、ローマ人の「見世物」として、狂乱の中に果てることを運命付けられたのだ。

 己が死ぬまで、同胞との無意味な殺し合いを強いられる。己が死ぬまで、手枷と鎖と監視が付け回る。



 ローマ人は、剣闘士試合に嗜好を凝らす。

 古代ギリシアの神話に描かれるような、英雄の一騎打ちを演出することもある。

 ローマ軍の「勇姿」を喧伝するために、大規模な集団戦を再現することもある。

 

 無論、役者は全て、戦争捕虜と罪人だ。

 ローマ人は一滴の血も流すことなく、俺たちの死を、観客席から見守っている。


 ローマに反逆した者は、哀れな最期を遂げる。

 ローマに反逆した者は、ローマの慰みになる。


 ローマ人は、確かめたいのだ。

 ローマ人に敗れた者たちが、決して報われないということを。



 俺たち剣闘士の試合には、大金が賭けられる。元老院のお偉いさんや貴婦人が、船一隻は買えそうな金額を俺たちに掛ける。


 俺は「イリアヌス」という名前を付けられ、初めての試合に出た。

 それは、地味な試合だった。相手は、腰が抜けたサムニウム人──中部イタリア生まれの非ローマ人だった。俺は、彼を瞬殺した。


 彼の骸はすぐに回収され、彼の血痕は、新しい砂で覆い隠された。彼の痕跡は、徹底的に隠された。まるで、彼という存在が、初めから存在しなかったかのようだった。


 俺は、しばらく返り血を拭うことができなかった。

 それを拭っては、彼の存在を、彼が生きた証を、完全に消し去ってしまうのではないか。

 俺は、本気でそう思った。


 戦場には、死体が残る。どうしようもない腐臭がして、蠅がたかる、見ているだけで反吐が出そうな、死体が残る。

 死体が残るって、幸せなことだ。

 俺は、本気でそう思った。



 俺の勝利は、ビギナーズ・ラックではなかったらしい。

 俺は、華々しい10連勝を挙げた。

 俺からしてみれば、ただ単純に、死にたくないというだけの話だった。


 正確に言えば、俺は「あんな」死に方はしたくない。という話だった。


 俺を管理するローマ人の興行師は、満面の笑みだった。


「──イリアヌス。君の働きは素晴らしいよ! 御陰で、我が興業団の評判は鰻登りだ」


 興行師はそう言うと、また、新しい剣闘士を買うために、奴隷市場へ出かけていった。


 あの興行師は、どうやら余り人を見る目がないらしい。

 買ってきた剣闘士は、みんな長持ちせずに死んでいた。

 この前も、まだ16才のガリア人少年が死んだばかりだった。


 気に入らない。

 俺は、そう思っていた。


 俺が必死に生きようとすればするほど、ローマ人は歓喜する。

 俺が剣闘士を殺せば殺すほど、ローマ人は歓喜する。


 じゃあ、俺が死んだらどうか?


 ……ぃや。

 俺が試合に負けたら、ローマ人は相手の勝利を見て歓喜するだろう。

 俺がここで自殺したら、興行師は困るだろう。

 だが、多くのローマ人は、俺のことなど、そのまま忘れ去るだろう。


 難儀な話だ。

 俺は悶々とした思いを抱えたまま1年間、連勝を重ねた。

 途中、引き分けることもあった。


 引き分けでも敗北でも、ローマ人の観客が許せば、剣闘士が助命されることはあった。

 要するにローマ人は「白熱した」「鬼気迫る」「手に汗握るような」「とにかく面白い」剣闘士試合が見たいのだ。


 その時、俺は閃いた。


「そうか、その手があったか……」



 俺にとって、40回目の試合。

 試合の直前に、興行師が声を掛けてきた。


「──イリアヌス。もし今回、君が勝ち星を挙げれば、君は解放奴隷になれる。つまり、ローマの二級市民として、かなりの自由を手にすることができる」


「そうですか」


 俺は短く答えた。


「──もし、やりたい仕事がないなら、いっそ、うちで働かないか? 剣闘士の訓練官として、我が興業団の屋台骨になって欲しい」


「考えておきます」


 俺は短く答えた。


 俺の戦績は、35勝2敗3引き分けだった。

 今回の相手は、余所の興業団の看板剣闘士だった。


 相手の戦績も、ちょうど同じくらいであった。

 だから、オッズも同じくらいだろうと思った。


 ──この試合。勝った方が、ローマ人の温情によって、自由を手にする。


 ローマ人の関心は極めて高く、興行師を喜ばせるには十分すぎる、大勢の観客が闘技場に押し寄せた。


 500人か、1000人か。

 ぃや、1500人のローマ人がひしめき合っている超満員の闘技場で、二人の猛者が向かい合った。


「──始めよ!」


 主催席には、俺の興行師と、相手の興行師が並んで座っていた。

 お互い、自分の看板剣闘士に大金を賭けていた。


「──お前に恨みはないが、ここで死んでもらう」


 相手の男は、トラキア人だった。

 トラキアは、いにしえから戦争と傭兵で潤ってきた地域だった。

 俺がローマに来るより前、イタリアで大反乱を引き起こしたスパルタクスという剣闘士も、トラキア人だったらしい。とにかく、トラキア人は気性が荒く、そして腕が立つのだ。


 相手は、正方形の盾と湾曲した剣を構えていた。

 一方の俺は、腕通しの丸盾と短剣を携えていた。


 互いに一進一退の攻防が続いた。

 相手が湾曲剣を振り下ろせば、俺は丸盾を掲げて受け止めた。

 俺が盾の影から短剣を突き出せば、相手はそれを振り払った。


「しぶといな……」


 相手は言った。


「お前こそ……っ」


 俺は、観客の声に耳を澄ませた。


「──素晴らしいっ! 実に良い試合だ!!」

「──なぁ、いったいどっちが勝つんだ!?」

「──イリアヌス、勝ってくれ! 頼むっ!」

「──トラキア人のプライドを見せてみろっ!!」

「──お前には今日の飯代が掛かってるんだ!!」


 良い感じに闘技場は暖まっている。


 俺は、相手に全神経を集中させた。


「ぜぇ……、ぜぇ……、」


 相手は、息を切らし欠けている。

 相手の鋒は、だらしなく地面の方を向いている。


「いくぞっ」

「──!!」


 俺は、相手の方盾を短剣の一撃で叩き落とした。

 ガシャンッ、という音と同時に、俺は足払いを仕掛けた。

相手は仰向けに倒れ込み、観念したように剣を落とした。


 俺は相手に馬乗りになると、短剣を両手で逆手に持ち、高く振り上げた。

 歓声が、最高潮に達した。





















 俺は、短剣を腹に叩き込んだ。

 ちょうど自分の肝臓に、鋒を突き込んだ。


「なっ……」


 相手は、呆然とした顔をしていた。


「何で……」

「拾った命……大事にしろよッ……」


 俺は、仰向けに斃れた。


 意識が飛ぶ、何秒か前。

 興行師2人の、青ざめた顔が見えた。



 最高潮の興奮が、訳の分からない自殺によって幕引きを迎える。

 ローマの慈悲が、自殺という無意味な行いによって拒絶される。



 こんな酷い試合を提供した興行師は、無能以外の何者でもない。



「へっ……」


 男は、笑った。

 その緩んだ唇からは、赤黒い、ワインのような血が溢れていた。

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