キリンジ・フィールド

以医寝満

キリンジ・フィールド

    1

 ペイファが目を覚ますと、首都プノンペンから人間がそっくり消えてしまっていた。ささいな悪戯が父親の逆鱗に触れ、お仕置きとして閉じ込められた物置でいじけながら眠った翌朝のことであった。

 いつもはこんなに厳しくないのに。

 やっとの思いで物置から脱出すると“誕生日おめでとう”と書かれた垂れ幕が目に飛び込んだ。絵の掛けられた壁、花瓶の置かれた食卓、いつもと同じ椅子の位置。どこもおかしい所などない。そこにいるべき家族がどこにも見当たらないこと以外は。

 一九七五年四月二二日。マノ・ペイファ、五歳。

 人の世では何かの間違いではないかと思わずにいられないようなことが稀に起こる。

 第二次大戦後、世界は東西で二つに割れた。北の怪物をその頭に頂く東側諸国ではあちこちで怪物の落とし子が産声をあげた。

 カンボジア共産党ポル・ポト派、通称クメール・ルージュもその系譜に名を連ねる。一九七五年四月一七日、クメール・ルージュ率いるカンプチア民族統一戦線は首都プノンペンを占領して米国の傀儡政権を打倒。後に民主カンプチアと呼ばれるポル・ポトの独裁政権がここに樹立した。

 首都占領後、すぐさま住民二〇〇万人に対して強制退去命令が下された。プノンペンはものの数日で空の廃都市と化した。

 五歳のペイファにそんなことは分からなかった。家族を探して表に出た。

 街並みはいつも通りだった。爆弾が落ちてきたわけではないらしい。ただ、人だけが見当たらない。

 少し歩いて、道端に積まれた紙幣の山や野ざらしの死体をいくつか見つけた。

 ひょっとして、世界で最後の一人になったのかもしれない。

「――夢かな?」

 歩きながらそう声を漏らしたとき、不意に後方から呼び止める知らない男の声を聞いた。振り返って見ると、数軒向こうの家の影で男が手招きしている。男が妙に挙動不審なので訝しんでいると、しびれを切らしたように駆け寄ってきた。ペイファは身構えながらも自分以外にもまだ人がいるということに安堵した。

 男は声をひそめてペイファに話しかけた。

「嬢ちゃん、どうしてこんなところにいるんだ? お父さんやお母さんは?」

「分からないです。目が覚めたら皆いなくなっていました。……助けてください」

 男は顔をしかめて言った。

「――悪いがどうしてやることも出来ない。とにかく、ここにいたらいけない。ここは、この国はもうダメなんだ。逃げるんだ。街を出て歩け。すぐにだ」

「どこに……?」

「何処でもいい。いや、少し遠くの村にでも行けばもしかしたらご両親に遭えるかもしれない。いいね? それから――ちょっと待ってな」

 そう言うと男は先ほどの家の影に小走りで消えて、またすぐに戻ってきた。

「これを履いていくといい。裸足じゃ怪我をする」

 男は靴を履かせてくれた。丈夫で高価そうな女の子用の靴だ。

「いいんですか?」

「ああ構わない。娘の靴なんだが、もう死んだ。さあこれでいい早く行きな」

 ペイファはぺこりと行儀よくお辞儀をして踵を返し、街の外へ向かってて歩き出した。


 誰もいない街を一人で歩き、疲れたら少し休み、また歩いた。途中、母親と来たことのある店や父親の勤めている学校なんかを通ってみたりした。どこももぬけの殻で、たまに人影が見えたと思ったらもれなく死人だった。死体は臭かった。そういう時は泣きだしそうなのを抑えて足早に、とにかく歩いた。

 そうやって気味悪がっていた死体も、街を出るころにはすっかり見慣れてしまっていた。しかし夜になるとそうはいかなかった。辺りが暗くなってもペイファは歩き続けた。

 月のない夜の闇は深い。時折道の端に寄せてある死体に躓いては、たまらず駆け出したりもした。転んでもまたすぐ起き上がって進んだ。止まっているとそこかしこの死体が動いて向かって来そうで、怖くて仕方がなかった。

 歩いて、歩いて、歩き続けた。

 恐怖と疲労が絶頂に達そうかというそのとき、ペイファは足元に、自分の影を見た。影は次第に濃くなり、それに伴って微かに音も聞こえてきた。後ろを見るとトラックが一台、こちらに向かってくる。ヘッドライトにくらまされながら目を凝らすと運転席と助手席に男が乗っているのが見えた。助手席の男は銃を持っていた。

 ペイファは靴を脱ぎ捨て、近くのぬかるみを踏んで足を汚した。

 トラックがペイファの目の前で停まった。

「おい、何してる。どうしてここにいるんだ?」

 運転席の男が開けっ放しの窓越しに問いただす。

「分か――らない――お母さん……」

 それだけ言ってペイファは声を上げて泣いて見せた。できるだけ大げさに泣いた。

 男が呆れたような顔をして助手席の男と二、三言葉を交わす。すると助手席の男がトラックから降りてきてペイファの手を引いた。

「やれやれ、今日の落とし物はこれで二つ目だ」

 男はそう言いながらペイファを抱えてトラックの荷台に半ば放り込むようにして載せた。トラックが再び走り出したところでペイファは泣き止むことにした。荒れた道に硬い荷台はお世辞にも乗り心地がいいとは言えないが歩くよりは幾分もよかった。

 荷台には特に何も載っていないらしい。まだ目が眩んでいるのでよく見えないが少なくとも横になるスペースくらいはある。

 鉄の臭いがする硬い床に仰向けになる。口の中は泥のような味がした。とにかく今は休みたい。

 眼を閉じようとしたとき、荷台の奥で何かがごそごそ動いて、次いで声が聞えた。

「ねえ大丈夫? もう泣いてない?」

 走行音の中でもよく抜ける、その日初めて聞く女の子の声だった。

「わたしケツァナってゆーの。そっちは?」

「わたしは……ペイファ」

 重い瞼を必死で持ち上げながら答えた。暗くてよく見えなかったが、歳の近そうな女の子が一人、ずいずいと寄って来たのが分かった。

「へ~! ペイファちゃんペイファちゃん! おはなししよっ!」

「うん……じゃあ……おやすみ……」

 ペイファはそのまま動かなくなった。

「あれ? 死んだ?」

 少女はペイファの唇をつついてまだ息があるのを確かめると、隣で横になった。


    2

 ケツァナは苗を植えた。泥が指にまとわりつき、水が跳ねて少し長い髪を濡らした。一歩うしろに進んでまた苗を植えた。すぐ右横で大きな水音がした。隣の女が泥に足を取られて転んでいた。横にいた男がすぐに助け起こして、二言三言交わす。そしてまた作業に戻ろうとしたとき、武装した監視員が飛んできて彼ら二人を叩き、罵り、どこかへ連れて行った。

「ケツァナ、見ちゃダメ」

 左隣にいたペイファが小声で告げる。

「みんなと合わせて。列を乱したら連れて行かれる。喋っても連れて行かれる」

 ペイファは言いながら時折泥の付いた手で顔を触り、脇目もふらず苗を植える。

 ケツァナもすぐそれに倣った。隣の欠員はすぐに補充され、長い一列横隊での田植えが再開された。

 ここ数日は来る日も来る日もこうやって苗を植えるだけの日々だ。


 ペイファとケツァナが出会った翌日、二人は名も知らない農村でトラックから降ろされた。黒い服に着替えさせられ、知らない女たち数人と共に物置より粗末な部屋に押し込まれた。大人から子供までいろんな人間がいた。男は別の部屋に集められているらしかった。

 それから暫く、照り付ける日の下で水路を掘る仕事をさせられた。二人は周りの人間がするように鍬で硬い地面を掘り、木の籠でそれを運んだ。作業は兵士に見張られていた。

 ある時、“日に二度の食事では働けない”と訴えた者がいた。翌日にはいなくなっていた。歌いながら作業をしていた者や、見た目が美しい者もいつの間にかいなくなっていた。

 そうやって人が消える度、ケツァナが「ふしぎだね」と言ったのでペイファは「そんなことないよ」とだけ答えるのだった。周りの人間は段々と口数が減っていき、ついに誰も不用意に声を発さなくなった。

「まるでアリだね」

 掘った土を捨てるために列を成す人々を見て、ケツァナが言った。


 田植えの季節になると農村の人間総出で苗を植えた。幼い二人にとっては重いものを持つこともなく、水に触れていられるので、水路工事よりはいくらかマシだった。

 朝起きて、働いて、部屋に戻って寝る。その繰り返し。二人は夜寝る前よくにこっそりと話をしていた。

「ねえペイファ、わたしたちいつまで苗をうえるのかな?」

「きっと最初の苗がお米になるまで植えてるよ」

「田んぼ広いもんね! わたしんちの田んぼより広い!」

 ケツァナはくつくつ笑いながら言う。

「ケツァナ、今日あなたの横で転んだおばさんとおじさん、どこに行ったと思う?」

「ん~……下!」

「下?」

「田んぼにね、うめられてるの。そしたらまた生えてくるから。ニョキって」

「稲かな?」

「絶対そうだよ! 人も田んぼからとれるよ! お米みたいに!」

 ケツァナが本気でそう思っているようだったのでペイファは笑いながら少し呆れた。

「間違ってないよ、あの二人は別の田んぼに埋められたんだ」

「そうそう。さっき見たのよ」

 話に割って入ったのは横に寝ていた中年の女二人だった。

 おばさんたち知ってるの? とペイファが言いかけた矢先、一人の兵士が部屋に入ってきた。ペイファはすぐに寝たふりをした。

「お前たち何を話してる。そこの二人だ」

 兵士が指したのは中年の女たちだった。

「い、いええ! 話をしていたのは、この子供二人の方です!」

「嘘をつくな、何を話していた」

 狼狽える女たちを、兵士は冷たく問い詰める。

「その、ただ、どうすればもっとたくさん苗を植えられるか、とかを、ねえ?」

「そ、そうです! もっと効率よく仕事する方法を考えていたんですよ!」

 二人の苦し紛れの言い訳をペイファは背中越しにじっと聞いていた。

「そうか……。それで、そっちの子供二人。お前たちも話をしていたのか?」

「うん!」

 狸寝入りを決め込む覚悟だったペイファの横でケツァナが元気よく返事をした。

 このままだとケツァナが本当のことを話しかねない。ペイファは飛び起きて答えた。

「その、わたしたち二人は、明日もいつもどおり仕事をしようねって、話してました」

 途切れそうになる声を必死でつなぎ合わせた。兵士はやや怪訝な顔をしたが「そうか、分かった」と言って去って行った。

 全身の力が抜けたペイファはケツァナの頭をひっぱたいた。

「いった~い!」

「バカ! ケツァナのバカ! 私たちも昼間の人達みたいに連れて行かれて埋められるかもしれなかったんだよ!」

「埋められてもわたし上手に生えてくるもん」

「稲かな?」

 ペイファはもう一度ケツァナの頭を叩いた。


 翌朝、皆が仕事に出る中ペイファとケツァナ、それに昨夜の女二人が別に呼び出された。大人しく兵士についていくと二台のトラックが用意されていた。兵士が中年の女二人にトラックの荷台へ乗るよう、銃口で指示した。ペイファ達も彼女らに続こうとしたが、

「お前たちはこっちだ」

 ともう一つのトラックに載せられた。

「どうして?」

 とケツァナが無邪気に問うと兵士は“オンカー”の決定だと答えた。

 トラックの荷台にはペイファ達と歳の近い子供ばかりが載せられていた。


    3

 子供達は連れていかれた先で“教育”を受けた。

 先ず、これからは互いを“同志”と呼ぶように教えられた。それから組織――オンカー――の崇高な理想、その正しさ、そのために必要な犠牲。それらを徹底的に叩き込まれた。

 みなが平等。一部の富める者が貧するものから搾取することのない社会。そのためには格差と、それを生む要因を徹底的に排除する必要がある。その為に鍬を手に取って地を耕し、苗を植えよ。財を排し、文を排し、敵を排するのだ。すべては我らの理想のために。

 そういう話を何日も何日も聞かされ続けた。

「ペイファ! すごいね! みんなでお米を作れば皆いっしょに幸せになれるんだよ!」

 ケツァナは眼を輝かせながら言った。

「お父さんがよく言ってたの。『苗の一つも植えないやつが米を安く買い叩く』って。だからうちは貧乏だって。だからね、みんなで一緒にお米作るの、とってもいいと思う!」

「そうだね……わたしもそう思う」

 ケツァナはペイファの手を取った。

「だからねだからね! これからそういう社会を作るためにわたしたちも頑張ろうね! えっと……同志ペイファ!」

「うん、同志ケツァナ」

 少しでも疑問を持つような素振りを見せた子供がいつの間にかいなくなっていることにペイファは気付いていた。


    4

 オンカーによる“教育”において二人は抜きんでて優秀であると評価された。特にケツァナは皆の模範のように扱われた。

  “教育”が全て終了した後、子供たちは人民の監視と裏切者の発見・報告という任を課され、各々新たな農村に送り込まれた。ペイファとケツァナは二人そろって新しい農村へ配置された。農村には二人の他にもオンカーの“教育”を受けた子供たちがいた。

 ケロムもその一人で、ペイファ達よりもいくつか年上の男の子だった。

 子供たちは夜半、農村のリーダー格の同志に召集され、一日の報告をしたりオンカーからの指令を受け取ったりした。 その日もいつものように召集が掛けられた。

「早く行こうよペイファ! 一番乗りしよう!」

 そう言って走るケツァナと渋い顔のペイファが連れ立って集合場所に着いた時には、既にしたり顔のケロムがいた。

「どうだ、お前らより俺が早かった! 俺が一番だ! この俺が誰よりもオンカーに堅く忠誠を誓ってるのさ! お前らはまだまだだな!」

「そんなことないもん! わたしたちだって忠誠誓ってるもん!」

 ケツァナは頬を膨らませた。

「なにを言ったってお前らは俺より遅かったんだ。チビどもはもうデカい顔するんじゃねえぞ」

「わたしたち、顔デカいもん!」

 ケツァナは更に頬を膨らませた。不毛な言い争いはペイファが止めても、他の子供たちが集まってきても終わらなった。結局、村のリーダーが現れるまで続いた。

「さて同志諸君、今回は字が読める者、教師だった者、眼鏡をかけている者、医者、時計が読める者、これらを探して一人三人ずつ、明後日までに報告しなさい」

 子供たちに下される指令は毎回このようなものだった。

 ペイファは指令を遂行するのに毎度骨を折った。大人たちに普通に訊いて回るだけでは皆怪しがって口を閉ざすからである。

 途方に暮れた。そういう時は決まってただ茫然と空を眺めた。

「どうしてお日様は動くんだろう……」

「……お日様が動いてるんじゃない、地球が動いてるんだよ」

 指令を受けた次の日、ペイファが空を見ておもむろに呟くと傍にいた老人が教えてくれた。

「ほんとう? ねえそれほんとうなの?」

「ああ、本当だとも。地球が回ってるから太陽が動いて見える」

「じゃあ、どうして空が青いかもわかる?」

「それは、その……」

 得意げだった老人は途端に言葉を濁し始めた。

「それは空気があるからさ」

 傍で話を聞いていた別の男がそう教えてくれた。

「へえ……知らなかった。ありがとうございます。同志、えっと――」

「……マウだよ。私の名はソウン・マウ」

「僕はメン・ティエンだ。小さき同志よ」

「同志マウ、同志ティエン、ありがとうございます!」


 次の日の夜、ペイファはケロムに呼び出された。

「お前ちゃんと三人見つけられたのか?」

 ケロムがニヤニヤと笑いながら言った。

「もちろん見つけた。もう報告してきたの。一番乗りしたかったから」

「チッ! 俺より先に報告したのかよ……まあいいや。なんたって俺は四人見つけてきたんだからな! 三人しか見つけられなかったお前らとはわけが違うぜ!」

 ケロムはふんぞり返っている。

「四人……? ほんとうに四人も見つけたの?」

「ホントさ! デロ・トル、ソロ・ミルト、タム・イェリ、コウン・ムナ! こいつらみんな眼鏡を隠してるところを見たんだ! きっと本を読んだから目が悪くなったんだ」

 ペイファは大きく息をついた。

「すごいね、ケロムは。やっぱり敵わないよ。そうだ、報告はできるだけ後……うん、最後にしてみるといいんじゃないかな?」

「は? なんでだよ」

「最初と最後は印象に残りやすいって言うでしょ。一日の最期にケロムの報告を聞いたらリーダーもきっと驚くよ。名前を覚えらえて、オンカーにも一目置かれるかも」

 ケロムは少し考えるような素振りをして、

「チビのくせにたまにはいいこと言うじゃないか」

 と、満足げに白い歯を見せて笑った。

「じゃあわたしはもう寝るから。さよならケロム」

 そう言って別れた後、ペイファは急いでケツァナの下へ向かった。

「ケツァナ、リーダーに報告しに行こう」

「でも、わたしまだ二人しか見つけてないよ……」

「私も。でもいいから早く!」

 ペイファは彼女の手を引いて強引にリーダーの下へ引っ張っていった。


「同志、報告です。ソウン・マウとメン・ティエンは元教師。デロ・トルは字が読めます」

「えっと! サリ・テネリとサリ・ラタリの兄弟は時計が読めます! あと――あ! ソロ・ミルトは字が読めます!」

 二人とも打ち合わせ通りのセリフを言った。ペイファは胸をなでおろす。

 しかしそれもつかの間だった。

「どうやって突き止めたのですか?」

 リーダーの質問に、ペイファの心臓は跳ねるような脈を打ち、吹き出た汗が額を伝った。もちろんペイファは答えられる。でもケツァナはソロ・ミルトがどうして字を読めると分かったのか、答えられない。打ち合わせではケロムから聞き出した名前と罪状しか話していない。そうでなくても、ケツァナのことだ、頓珍漢な答えをしてリーダーに不審に思われるかもしれない。例えばそう――。

「えっと、ふつうに訊きました!」

 とか――。言った。ペイファが想定した最悪の答えを、ケツァナははっきりと口にした。

 その瞬間、心臓が一際長く一回、脈を刻んだように感じた。死を覚悟した。

「よろしい」

 けれども、リーダーの返した言葉は予想だにしないものだった。

「それでこそ幼く純粋無垢な諸君を使う意味があるというものです。これからも励んでくださいね、同志ケツァナ、同志ペイファ」

 リーダーがそれ以上詮索することはなかった。

 翌朝、二人が報告した大人は勿論、加えてケロムも村から消えていた。

「同志ケロムは職務怠慢と小賢しくも仲間を陥れるような策を弄そうとしたため再教育の対象に選ばれました。同志諸君はそうならないようにより一層精進して下さい」

 とのことだった。

「ケロム、早く戻ってこれらるといいね」

 ケツァナは何の気なしにそう言った。

「そうだね……」

 ペイファは僅かに俯いた。

 そんな日々が続き、二人は共に数えきれないほどの人間を“再教育”の対象として報告した。結局最後まで一度のミスもなく指令のノルマを満たし続けたのは二人だけだった。

 そして三年が経ち、二人は八歳になった。


    5

 「久しぶりだな~」

 ケツァナは時折プノンペンの街並み指さして、あそこが親戚の家だとかこの店によく来たとか言っていた。

「前と全然変わってないね!」

 街からは死体すらも消えているのを見てペイファは「そうかもね」とだけ答えた。


 一九七八年、ベトナムとカンボジアの武力衝突は熾烈を極める。国境付近で歴戦のベトナム兵と火花を散らすのは多くが一〇代前半の民主カンプチア正規兵たちであった。前線で戦う彼らを指揮する者も、衛生兵もみな子供だった。

 今日、この国には大人などいなかった。

 政策の失敗を直視できない政権は国内の惨状を敵の工作によるものと断じた。「腐った林檎は箱ごと捨てなければならない」と、少しでも目についた人間を次々と粛清した。その対象は一般市民にまで及び、ほとんど末端の独断で日夜、政治犯の逮捕尋問と処刑が行われた。

 疑わしきを殺し、それ以外も疑って殺した結果、オンカーによる“教育”を施された純白な子供が残った。子供だけの国が出来上がった。

 ペイファ達の村からもすっかり大人がいなくなって久しいある朝、何人目かの村のリーダーが二人を招集した。

「二人の活躍にオンカーも大変喜んでいる。直上の同志として私も鼻が高い。同志ペイファ、同志ケツァナ。二人には本日付で“S21”での任が与えらる。これはとても名誉なことだ。精進するように」


 暗号名“S21”、トゥールスレン収容所。元は学校だったこの建物に、今は数多くの政治犯が収容されている。

「お願いだ! ペンチは、ペンチは嫌だ!」

 などと声が響く廊下を通って、二人は所長室に通された。

「新たな同志が補充されると聞いていたが、君らがそうか。まあ……人手があるに越したことはない。男は殆ど前線に送られたからな」

 所長は十五、六歳ほどの少年だった。顔はやつれ、妙に乾いた眼をしていた。

「私は所長のシュイだ。諸君は優秀な同志だと聞いている」

「光栄です! よろしくお願いします、同志シュイ!」

 いつも通り快活なケツァナに、ペイファも少し遅れて倣った。

「同志ケツァナ、君の働きぶりには特に眼を見張るものがあるとのことだったがどうやら本当らしい。期待しているぞ。……では一通り所内を見て回るといい」

 シュイはつまらない台本でも読み上げるように言った。


    6

 翌日から二人は本格的にトゥールスレンでの業務に就いた。やることはいたってシンプルだった。

 死体を埋めるのである。

 収容所の敷地の端の方に適当な大きさの穴を掘り、運ばれてきた死体をそこへ放り込んでは土をかける。その繰り返しだった。

 どの死体も痩せこけていたので埋めるだけなら八歳の二人にも容易い。

 とはいえ、照り付ける日差しの下では流石に重労働だし、死体もよく腐る。二人は木陰を好んで選び、そこで作業をした。

「よいしょ――と」

 ペイファに投げ捨てられた死体が音を立てて穴へ転がった。

「土、被せようか」

「待って! まだ入るよ!」

 そう言ってケツァナは積まれた死体の山から手ごろなものを拾い上げた。

「ほら! これとこれとか、バラバラだし!」

 両手に生首を握って差し出していた。左の生首からと舌が垂れる。

「今日はバラバラなのが多いね」

 ペイファが言うとケツァナは両手に持った生首を自分の顔の横に掲げた。

「見て、顔三つ!」

「怖いよ、阿修羅だよ……」

「あはは! 何それ~。あ! ほらこれも見て!」

 ケツァナは右の首を穴へ放った。そのまま空いた右手を左の生首の後頭部に突っ込んでずぼっと引き抜く。

 引き抜かれた手には白っぽい塊が握られていた。

「えへへ、ぷよぷよしてるの!」

「こら! それ脳みそ!」

「のうみそ?」

「脳みそしまいなさい!」

「え~面白いのに」

 ケツァナは後頭部からでろりと脳を流し込むと、生首を穴の中へ投げ入れた。

 そのとき。不意に死体の山の一部が動いた。

「あ、生きてる」

 その僅かな動きに気付いたのはケツァナだった。すぐさま足元のシャベルを手に取り、躊躇なく頭めがけて振り下ろした。

 鈍い音がして、動いた死体は声も上げず、ただの死体に戻った。

「最近仕事が雑だな。やっぱりこん棒で頭を割るだけじゃ死ににくいのかな?」

「ケツァナ、容赦ないよね」

「うん? まあ、だって悪者だよ?」

「そうだけどさ……」

「どうしたの?」

「なんていうか、こんな風に死体を埋めたりするのはなんか違うなって」

「そう?」

「簡単すぎるよ、こんなの」

「まあ確かに、もっと責任のある任務がいいなとは思うけど」

「そうじゃなくて……もういいや。その人も早く穴に入れて」

「はーい。――あ! ねえ見て、また脳みそ出てきた!」

「脳みそしまいなさい!」

 ケツァナは先ほど叩き割ったばかりの頭蓋からででろり、と脳を救い上げて笑っていた。


    7

「同志ペイファ、ちょっといいか」

 ある日暮れのことだった。二人はいつも通り死体を埋めていた。夕涼みを終えて陽が沈む前にもうひと仕事、という時分にペイファだけが所長のシュイに呼び出された。土を顔に付けてから向かった。

 始めは書類整理でも手伝わされるのだろうと思っていた。死体埋めの合間を縫って所長室で仕事を手伝うことは今までにも何度かあった。

 しかし、どことなく襟を正したような面持ちのシュイは所長室ではなく、収容所の中でもひときわ人気のない区画に歩みを進めた。

 ペイファはまっすぐ歩くのがやっとだった。

「そんなに怖がらなくてもいい。君が思っているようなことにはならない」

「し、しかし同志シュイ、私は……」

「字が読める。時計も読める。そもそも新人民だろ?」

 卒倒しそうなところだったがすんでのところで耐えた。図星だった。

 ペイファの家はもともと裕福だった。そうでなければ首都プノンペンに居を構えたりはできない。教師だった父親に比較的早いうちから読み書きを教えられ、数字も五歳にして四則算程度なら不自由なく扱えるようになった。

 子供ながら器量の良さもあり隣人にも恵まれた。

 両親は彼女の将来に大きな期待を寄せた。本を与え、暇が出来れば話し相手になり、知恵を授けた。ペイファもまた自ら進んでよく物を知り、思考する術を磨いた。

 そうやって育んだ知性をすべて無かったことにした。

 粛清を逃れるため、誰の目から見てもただの子供に見えるように振る舞った。

 誰もいないプノンペンで目覚めた日から、今日までずっと隠し通してきた。

 それがいとも簡単に知られてしまった。

「何故、それを……」

「私も所長を任される身だ。人民の来歴を調べるくらい出来る。どうやったかは知らないが上手く紛れ込んだものだ。新人民なんて本来真っ先に処刑されてもおかしくないのに、まさかトゥールスレンまでやって来るとは。よほどオンカーに媚びを売ったと見える。

 私の家は現政権以前からクメール・ルージュの配下にあった。所謂、旧人民というやつだ。一九七五年以降に配下に加わった君たち新人民よりも色々と縛りが緩い。だから今日まで何とかやってこれた。ほどほどに無学を装ってね」

 シュイはやつれた顔で冷淡に語る。声音だけは年相応の少年のそれだった。

「苦労されたんですね」

「私だけじゃない。この国では皆そうだろう。みな平等にな」

 確かにこの国には貧富の差はない。みな等しく貧しい。

 人民とそれを統率する組織、オンカー。人民という括りのなかでは、オンカーに近しい人間ほど特別裕福ということもない。オンカーの人間が人民から搾取し、私腹を肥やしている可能性はないわけではない。しかしトゥールスレンに送られてくる元オンカーの人間を幾人も見てきたペイファは、彼らも人民同様に痩せこけていることを知っていた。

 この国にいるのは貧しい生者か、物言わぬ死者だ。

 一か〇か、それ以外は無い。彼女は常にその二者択一を突き付けられてきた。

「さて、ここだ。入ってくれ」

 そこは使われていない独房であった。扉を持って中に入れと指し示しているシュイを見て、ペイファは死を覚悟した。最後の抵抗のつもりでその場から一歩も動かない。

「……粛清ではない」

「粛清の時はそう言います」

 シュイはため息をつき、ペイファに扉を持たせると一人独房の中へ入り、奥の方の床を壁に向かって押すように蹴った。床の一角は僅かにずれ、それが持ち上げられると人間二、三人が通れる程度の穴が現れた。

「同志シュイ、それは一体……」

「隠し通路だ。この先にこの国の未来がある」


 穴を通った先の扉を開けて部屋に入ると、本が所狭しと並んでいた。電球一つで照らされた薄暗い部屋に本棚などはなく、床や机に雑然と積まれていたり、ある程度秩序立って揃えて置かれていたりする。中には床から天井まで届こうかという山もあった。

 ペイファは見入った。三年前のあの日以来、初めて目にするそれが本であるとことを確かめるように注意深く。

「ここは書庫だ。私が着任した時にはすでにこの状態だった。一体誰がこれだけの量を集めたのやら。――その様子だと大分気に入ったようだな」

 でも今は後にして着いて来い、と、シュイは更に奥の部屋へ続く扉を開けて書庫を後にする。急ぎその後を追う。

 奥の部屋もやはり電球一つで照らされており、お世辞にも広いとは言えない。大きなテーブルが一つ置かれ、それを一〇歳から一五、六歳の子供数人が囲んでいる。

「ここにいるのが全員ではないが、まあ紹介しよう。ムイは医者の卵だ。ごっこ遊び同然の軍医とはわけが違う。ヤンクは前線帰りの逃走兵で武器が扱える。隣のコウは通信機器の担当だ。ヘルマ、声はデカいが――」

「ま、待ってください! 医者だの逃走兵だの……みんな粛清対象者ではありませんか! それにさっきの本も……いったいここは、貴方たちは何なのですか」

 部屋は静まり返った。自分でも思いがけないほどの剣幕に動揺してじわりと気まずさ感じ出したころ、シュイが口を開いた。

「ここは会議室だ。そして我々は反政府の志を共にする者だ」

「反政府――オンカーに逆らうというのですか? そんなことをしたら――」

「殺される、と言いたいんだろう。分かっている。しかし我々は、このまま黙っていても殺されることに変わりはないと考えている。

 君がこれまで生きるためにオンカーに従ってきたことは承知している。しかしこれから先はどうする? 知性の欠片もない農業、疑心暗鬼、粛清。国はめちゃくちゃだ。怪我や病で倒れてもまともな医者が居やしない。国境には敵もいる。君はこんな国で生きていけるのか?」

「それは……」

 ペイファは押し黙る。飢餓、病、粛清、そして敵。どれがいつ我が身を襲うのか。誰もが持つ不安を当然ペイファもまた感じていた。それでも尚、現状に甘んじてきたのは、今日明日を生き抜くため。これからもそうするしかないと思っていた。

「このトゥ―ルスレンに配属される意味を知っているか? ここは未来のオンカー構成員候補の集まりだ。エリート人民ってわけだ。我々はそこに蒔かれた反体制の種さ。

 君の言った通り、ここにいる者は多くが粛清の対象だ。それもオンカーの思い描く世界に必要ないというだけの理由でだ。冗談じゃない。

 ブラザー・ナンバー・ワンの理想のために犠牲になるなど御免だ。我々は我々のやりたいようにやって生きたいように生きる。ただ、そうしたいだけだ。

 ペイファ、君はどうしたいんだ?」

「どう……したいか……」

 どうするか、どうするべきかではなく、どうしたいのか。

 彼女にとってほとんど初めての問いだった。

「私は……分かりません」

 そう言って俯いた。シュイは珍しく口元を緩めた。

「それでいい。君には難しい話だったな。今日はもう戻って休むといい。

 それから、ここには自由に出入りしてもらって構わない。書庫の本も読みたければ好きに読んでくれ。ただし、同志ケツァナにはこのことを話すな」

 そう言われて部屋を出された。


 ペイファは呆然と収容所内を歩き回った。

 身を守るためにはこうすべきだ、とか、生き残るためにはこうするしかない、とか。今までそういう風にしか考えてこなかった。

 そうではなく、状況や立場など一切の条件を無視したとして、本当は自分がどうしたいのか。

 そんな前提の問いに意味があるのだろうか。そもそもそれが分かったからといって、一体何だというのだろうか。

 答えられぬ問いに打ちのめされていた。

 そうして歩いているうちに自分の持ち場に戻ってきてしまった。

「あ、おかえりペイファ! 見て、鉈を貰ったの! 反逆者が生きてたらこれを使えって。試してみたんだけどシャベルでやるよりずっと楽! よく切れるよ!」

 ちょうど陽が沈むころだった。

 にっこりと笑うケツァナの頬と鉈の刃は紅く、また夕陽を受けて光っていた。

 眩しかった。

 ペイファは、収容所が落とす長い影の中からその姿に見惚れていた。


    8

 一九七九年元旦、南シナ海で熱帯低気圧が発生。翌日には台風に変わった。

 同日、その台風のやや北の海域でもう一つ、熱帯低気圧が発生した。

 それは急速に発達し、その日のうちに二つ目の台風となった。

 二つの台風は大方の予測に反し、共に東へと進路をとる。


    9

 一九七九年一月六日、プノンペンは約三年九ヶ月の時を経て今度こそもぬけの殻になろうとしていた。

 二週間ほど前に始まったベトナムによる本格的な侵攻により、カンボジア軍は為す術もなく蹂躙された。いよいよ敵軍の魔の手が眼前に迫ろうという状況に至り、政権指導部は首都を放棄し、北西部のジャングル地帯へと落ち延びる決定を下した。

 この決定がトゥールスレンに届いたのは夜中のことだった。

 就寝中だったペイファとケツァナの部屋にシュイが飛び込んできて「今すぐここを出るから早く表に来い」という旨を吐き捨てるように告げてまた飛ぶように去って行った。

 未曾有の台風上陸二日目の夜だった。

 二人が外へ出るとすぐさま用意されていたトラックに叩き込まれた。トラックはそのまま収容所を発ち、いきおいプノンペンを後にした。

 風雨と悪路に揺れる車内でペイファはケツァナの手を強く握った。

「大丈夫だよ!」

 ケツァナは微笑みながら手を握り返してそう言った。

「だといいけど……」

「敵から逃げてジャングルに隠れるんだよ。夜だし、この天気だし、きっと大丈夫」

「……ケツァナは、もしそうじゃなかったら、とか考えないの?」

「どういうこと……?」

 本当に質問の意味を理解できていない様子を見て、ペイファは飽きれつつもどこか心の奥底では安心していた。

 ペイファはこの状況にあって尚、周囲の人間を疑っていた。

 敵から逃げるなんてすべて嘘で、これからどこか山奥に連れて行かれて、そこで処刑されるのではないか。そんな考えが頭から離れない。

 だのにケツァナはそんなこと微塵も考えていない。

 頭が足りないわけではない。ただ純朴で純白。教えられたことを全て受容する。それ故に飲み込みは早く、何色にでも染まり、そして決して疑わない。

 だからそもそも騙されているなどという発想には至らない。

 確かに今の彼女は国が違えば、或いは時代が違えば頭のおかしい共産主義者だったかもしれない。

 しかし、そんな前提は意味をなさない。

 彼女は今この国に生きている。

 それが唯一絶対の事実なのだから。

 短い時代に愛され、狂った世に祝福された少女。

 ケツァナはまさにオンカーの思い描いた理想の人民そのものだった。

 ねえ、ケツァナ、と。呼びかけるより先にけたたましい銃声が風雨の音をかき消した。

 一度トラックが大きく揺れ、転がった。二人はトラックの荷台から投げ出された。

 嵐の暗闇を横転したトラックのヘッドライトが無造作に照らしている。

 雨風とたどたどしいエンジンの音をかき分けるようにして、森へ逃げ込めと叫ぶ声が聞えた。

 ペイファは立ち上がって尚、ケツァナの手を離してはいなかった。

 悪天候が幸いした。豪雨で地面は泥土と化し、以て投げ出された二人を受け止めた。また、軽く小さい二人の体は重装備の敵兵士よりも早く泥の中を進み、銃撃の的にもならなかった。

 それでも二人は命からがらの思いで暴風に揺られる森へ入り、とうとう追手から逃れた。

 次に二人を襲ったのは寒さであった。一時は二人を助けた雨風が容赦なく体温を奪った。

 特にケツァナはしきりに身を震わせていた。

 ペイファはなんとか木の洞を見つけるとケツァナを押し込んだ。辺りの葉や石を手あたり次第かき集めてから自分も洞に入った。

 集めた葉と石で入口を塞ぎ、服を脱いだ。ケツァナの服も脱がし、絞って大ぶりの葉を何枚か拭う。

 そうして二人は葉をかぶり身を寄せて夜を明かした。


 翌日、先に目を覚ましたのはケツァナだった。

 洞の外に出るとそこら中の水が木漏れ日を弾いてわざとらしい程に森の中が明るい。昨日の嵐が嘘のように静かな朝だった。

 ペイファが目を覚ますと二人は濡れた服を干し、程よくぬるい水の上に並んで仰向けになって陽を浴びることにした。

 淡い熱を感じていたペイファの口からふと声が漏れた。

「死ぬかとおもった……」

「そう? 私は大丈夫だと思ってたよ」

「……どうして?」

 少し眉根を寄せ横目で尋ねたペイファの手を取って、ケツァナが答えた。

「だってペイファがいたもん。今までもずっとそうだったでしょ? 危ないときも、どうしたらいいかわからない時も、いつもペイファが何とかしてた」

 果たして本当にそうだっただろうかと、ペイファは眉一つ動かさない。ケツァナが続ける。

「だからオンカーの指令をこなすときも大丈夫だったし、トゥールスレンでも大丈夫だったし、今日も大丈夫だって思った。多分明日も大丈夫。これからもずっと大丈夫」

 混じりけなしの本心でそう語る彼女を見て、ペイファは例の問いを思い出した。

「ケツァナはさ、どうしたいの?」

 以前シュイから投げられたこの問い。

「私たちは今まで必死で生きてきたよね」

「そうだっけ?」

「そうなの! それで……そのためにはやらなきゃいけないことがいっぱいあった。やりたくないこともいっぱいやった。生きるためにはそうするしかなかった。

 でも、もしそれが全部無くなったとして、何をしてもいいなら、ケツァナはどうしたい?

 ――どう生きていきたい?」

 そう問いかけた彼女自身は、その答えをまだ持ち合わせてはいない。

「どうって――そうだな~。どうもしなくていいかな」

「何もしたくないってこと?」

「そうじゃなくてね」

 握った手をそのままに、ケツァナは上体を起こして言った。

「このままがいいの。この暮らしがずっと続けばいいなって思う。

 朝起きて、みんなで田んぼや畑の仕事をやって、夜になったらご飯を食べて寝るの。だってそれが一番いいんだよ? みんなで同じことを一生懸命やって、みんな同じだけ幸せになるんだよ。私がいて、ペイファがいて、他の皆も幸せで――素敵でしょ?」

「でも今は敵に追われて、食べ物もなくて、オンカーの言う通りにしてたらこうなったんだよ? それでも本当にできると思う?」

 できるよ、と言いながら、ケツァナは手を強く握りしめた。

「ペイファがいればきっとできるよ! 私はグズだけどペイファは何でもできるでしょ。

 今はちょっと大変だけど、敵を倒したらきっと――絶対よくなるよ!」

 二人は静寂の中、陽だまりにいる。

 ケツァナがペイファの顔を覗き込み、影を落としていた。

 髪から木漏れ日を受けて黄緑をおびた雫が滴る。きめ細かい肌に残る水滴もまたキラキラと眩しい。

 その様にペイファは動悸を覚えていた。

「ペイファはどうしたいの?」

「私は……名前を変えたいかな」

 適当なことを言った。

「変えちゃうの? いい名前だと思うけどな~」

「マノ・ペイファ。マノはお父さんの名前。でももう死んじゃってるかもしれないし、いい機会だから下の名前も変えちゃおうかなって」

「じゃあ私がつけてあげる! 新しい名前!」

 ペイファは笑みをこぼし、右手を伸ばしてケツァナの頬に添えた。体はすっかり温度を取り戻していた。

「そのときがきたら、ね」


    10

 年始のインドシナ半島を襲った台風は甚大な被害をもたらした。

 カンボジアはそもそも台風被害とは疎遠で大した対策もとられておらず、今回は政権の愚策がそれに拍車をかけた。

 ただひたすら農耕に従事し、出来た米は殆ど輸出。そうして得た資金で中国から僅かばかりの武器、物資を買い付けてベトナムとの戦線に投入する。

 国土の災害対策、治水などは殆ど手つかずである。木々は倒れ河川は溢れた。

 しかし、ある意味で最も大きな被害を被ったのはカンボジアに侵攻していたベトナム軍であった。

 ベトナム軍は人的、物的共に大きな打撃を受けたばかりでなく、本国ベトナムも同じく台風の被害に見舞われたために補給を受けられなくなっていた。

 結果的に、作戦行動の継続は不可能となり、一九七九年一月七日、ベトナム軍は首都プノンペンを目前としながらカンボジアからの撤退を余儀なくされた。


    11

「フジワラエフェクトって言うんだって」

 おもむろにそう言うペイファを見て、ケツァナは間の抜けた顔をした。

「何それ?」

「台風がね、二つ近づいたりすると互いに影響しあって普通とは違う予想できない動きをする現象のこと。この前のもそう」

「へぇ~~予想できない動き、か~」

 ケツァナは止まっていた手を動かし、作業に戻る。

 ペイファは手を動かしたまま話を続ける。

「そう。予想できないめちゃくちゃな動き。例えば――」

 横目でケツァナを見た。

「一方がもう一方に引き寄せられて取り込まれちゃったり、とか」

 シャベルが土に刺さる。

 南中する太陽が地面に落とす影は濃い。


 一九七九年四月下旬、ポル・ポト政権樹立から丸四年が経った。

 その間に国力が衰退したカンボジアだったが、台風被害からの復興は意外にも順調だった。というよりも、今さら被災したところで元の暮らしとさほど変わりないと言った方が適切である。

 建て直すべき施設も再整備すべきインフラもそもそも存在していない。

 必要だった具体的な復興事業は土砂の片づけくらいのものだった。

 むしろそれに三ヶ月も要したことがかえって国の衰退を如実に語っている。

 その間、栄養失調や感染症による死者が後を絶たなかった。

 結果、人口は更に減少した。僅かながら残っていた成人人口もほぼ完全に消滅し、政権中枢部の人間を除けば書類の上ではゼロに等しい。

 ことここに至ってようやくオンカーは現状を直接把握した。

 そうして、ベトナムとの戦争における事実上の敗戦の責任を負わせる生贄を最後に、粛清の手を止めた。

 ペイファとケツァナはトゥールスレンへと戻った。他に行くあてもなかった。

 当面は復興事業に当たっていたがそれがひと段落したころ、最後となるらしいその死体の処理を任された。


「ねぇ、そのタイフウ――って、何?」

 ケツァナが土を掘り起こしながら無邪気に問う。。

「台風は……でっかい嵐のことかな」

「この前みたいな?」

「そうそう。しかも、動く」

「動くんだ!」

「海の向こうからやって来るの」

「こわい!」

「しかもちゃんと名前がある」

「敵みたい。殺さなきゃ!」

「こわい!」

「ねえねえ、どうしてそんなこと知ってるの?」

 ペイファの手が止まる。一呼吸よりやや長い間があってまた動き出した。

「本で読んだから」

 シャベルの上の土をかえして再び地面に差し込んみながらそう言った。

「本って――それダメだよ! 本は読んじゃけないんだよ!?」

「どうして?」

「どうして、じゃないよ!」

 ケツァナは声を荒げ、シャベルを放り出した。

「教えてもらったでしょ? 勉強したらできる人とできない人の差が生まれて不公平な世の中になるって。だから皆平等の世界を作るために、勉強するのも本を読むのもダメだって! なのになんで読んだの!?」

「読みたかったからだよ」

 掴みかかって肩を揺らしながら怒鳴るケツァナに、ペイファは冷たく言い放った。

「そんなことよりさ、穴。もうこれくらいでいいでしょ。早く埋めようよ」

 ケツァナは黙って俯き肩を震わせている。

「ほら、そっち持って」

 と急かされてようやく手を離し、足元の死体に手を伸ばした。

 合図もなく二人で手際よく死体を持ち上げ、穴の中に投げ入れる。

 死体が音をたてて浅い穴の底へと滑り落ちた。

「シュイ、重かったね」

 ペイファが言うとケツァナは黙って頷いた。

「ねえ、私が本を読んでたこと、誰にも言わないで。じゃないと私もシュイみたいになっちゃうから」

「分かった」

「じゃあ埋めちゃおっか」

 二人は死体に土をかける。やがて死体は見えなくなり、真新しい跡だけが残った。


 翌朝、ケツァナが目を覚ますと部屋にペイファの姿はなかった。


    12

 正午過ぎ、炎天下のトゥールスレンをある男が訪ねた。

 整った頭髪、黒々として糊のきいた人民服、恰幅のいい体つき。どれを取っても一介の人民には似つかわしくないものであった。極めつけは年齢である。今やこの国では五十路をゆうに超えている人間など、政権中枢部、オンカ―の構成員以外には存在しない。

「全く、昨日の今日で忙しないにもほどがある。ここの前所長の処刑を最後に粛清はやめだというのが党の方針なんだがな。かといって、人民の敵を生かしておくわけにもいかない。何故だか分かるか?」

 到着するなり足早に独房へと向かった男は不機嫌そうに語りだした。

 ペイファは独房の格子の内で、座ったまま動かない。

 男が隣に控えるケツァナに独房の錠を開けさせて中に入る。

「私が疑われるからだ。私の管轄であるこの収容所で裏切者の存在を黙認したとなればあらぬ疑惑をかけられる。そういうものなのだ。

 しかし、処刑しようものなら党の方針に逆らうことになる。そもそも、前所長とお前、二人も裏切者が出ること自体があってはならんのだ」

「つまり私はいなかった、と?」

 男は不敵な笑みを浮かべる。

「察しがいいじゃないか。報告は私がもみ消した。受刑者の名簿からも君の記録を抹消させた。これで後は君が死ねば全て丸く治まるというワケだ。

 戸籍なんてあってないようなものだ。誰も気にかけないだろうが、まあ適当な理由でずっと前に死んでいたことにしておこう。病死に餓死に事故死。この国では自然な死因にゃ事欠かない。

 それでは私が昼食から戻るまでには片付けておいてくれ、小さき同志よ」

 ケツァナにそう言い残し、男は独房をあとにした。

 硬い足音が段々遠のき、やがて聞こえなくなったころ、ケツァナの口から言葉が漏れ始めた。

「ダメだったの……ペイファが許してもらえるように頑張ってお願いしたけど。

 ペイファはすごくて、なんでもできるし困ったときには助けてくれるとっても優しくて優れた同志だって。何度も説明したけど、理想の世界にとって邪魔だから殺さなきゃいけないって。オンカーの意思だって。——だから殺さなきゃいけないの」

 格子付きの小窓の外は、ほぼ直上からの日差しが眩く照り付けている。真上からの日光はもちろん窓から房の中に差し込んだりはしない。

 仄暗い部屋で膝を抱えたまま、ペイファはケツァナの言葉に耳を傾けていた。

「ねぇペイファ——どうしたらいいの?」

 罪人の少女は尚も反応らしい反応をしない。

 その様子を見止めてケツァナは堰を切ったように喚き始めた。

「どうしたらいいのって訊いてるじゃん! オンカーはペイファを殺せって、でも私にはペイファがいなきゃダメ。オンカーの理想の世界にはペイファが要らなくて、でも私が思ってる世界にはペイファがいて……。

 オンカーの言うことは絶対……のはずなのに……。もう、もうどうしていいかわからないよ! どうしよう——ねえ! おしえてよ、ペイファ……!」

 ペイファは動かず、ただじっと座っている。

「教えてって言ってるのに……答えてよ! 答えろ!」

 ケツァナがナイフを構える。胸の前で強く、強く柄を握る。

 細腕でとは言え全力を込められたナイフは切っ先が細かく震えていた。

 ペイファは目だけを動かし、ナイフを差し向けるケツァナの姿を見て俄かにほくそ笑んだ。

 おもむろに腰を上げる。歩み寄る。休憩がてら日陰にでも入るかの如くふらりと。

 そうしてケツァナの前に立ち、初めて彼女の顔をしかと見て言った。

「ケツァナは、どうしたいの?」

 予想外の問いにケツァナは動揺した。呆気にとられた。全身がほんの一瞬、硬直する。

 ナイフを構えたまま固まる。

 ペイファはそれを見逃さなかった。

 ふわりと、浮かぶようにケツァナに向かって身を投げた。

 二人の距離は否応なしに縮まる。

 体が重なる。

 やがて床へと崩れ落ちる。

 すべて、あまりにゆったりとした時の中で起きた。

 ケツァナは我に帰ったとき、ペイファの下で天井を見ていた。

 胸のあたりに生暖かい熱を感じ、次いでそれがゆっくりと広がっていく感覚を覚えた。

「ケツァナ聞いて——」

 耳元で、正確には耳よりも後ろ、うなじのあたりから細いが声する。

 見開かれたケツァナの眼は少し泳いだあと、嫌に眩しい小窓の方に吸い寄せられた。

「私はね、苦しかった」

 ペイファは静かに語りだす。

「二人で嵐の中を逃げた時、ケツァナが私に同じこと聞いたの覚えてる?

 私、あの時嘘ついたんだ。

 私は生きるのが苦痛だった。だってこんな世界だもん。他人も自分も騙し続ける。そうするしかない。私にはもう無理だよ。

 でもあなたは違う。誰を欺くこともない。自分自身さえ偽らない。その必要が無い。いつもそうだった。私が必死で、自分を押し殺してやってきたことを。ケツァナは当たり前みたいにやってた。

 家のお手伝いでもするみたいに人を殺すし、虫取りのかわりみたいに死体で遊ぶし。ちょっと怖かったんだよ?

 ケツァナはそうやってありのまま生きてた。世界がそれを許してたんだよ」

 ペイファの体から流れ出す熱を肌で感じ、次第に強くなる鉄の臭いと揺らぎだした視界に意識を朦朧とさせながら、ケツァナは声を聞いていた。

「ケツァナといると私の方がおかしいのかもって本気で思うこともあった。私もケツァナみたいに生きられたらって思った。

 でも違った。分かったの。私がどうしたいのか。

 だからあの時の答えを教えてあげる。

 “あなたみたいになりたい”じゃない。

 ケツァナ、私は————————」

 その先を囁いたきり、ペイファはもう動くこともしゃべることもなかった。

 二人はしばらくそのままぬるい血だまりの中にいた。


 ひどく耳障りな音でケツァナは再び我に帰った。独房の扉が壁に打ち付けられる音だった。昼食を終えた男が戻ってきた。

「済んだようだな。……何をしてる、早く死体を片付けるんだ。同志……」

「——ペイファ。私の名前はペイファです、同志」

 血まみれの少女は起き上がりざまにそう告げる。

「そうか。では同志ペイファ、死体を片付けたら身綺麗にして来なさい。君には当面ここの所長を任せることにした。まったく、要職の若年化は留まる所を知らないようだ」


    13

 一九八〇年代に入り数年が経ち、カンボジアが国力衰退の底にたどり着いたころ、民主カンプチア首相兼カンボジア共産党中央委員会書記長が病に倒れ、間もなく死去したとの発表がなされた。

 後継者として書記長に就任したポト・ペイファはすぐさま国の首相に就任すると自ら党を解散させた。次いで国号をカンボジア人民共和国と改め、反ソ越の姿勢を誇示することで国家としてその地位を国際的に承認させるに至る。

 その後、自国の窮状を公開して広く国際的支援を求め、復興に臨んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キリンジ・フィールド 以医寝満 @EENEMAN

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ