191.さよならリグレット


 どうして気にしないでいてくれるなんて思っていたのだろう。

 どうして騙されていてくれるなんて侮っていられたのだろう。


 目の前で圧倒的な存在感を持って震えている後輩が、何も感じていないなんて――そんなこと、あるはずがなかったのに。

 

「教えてください、先輩。私の記憶が抜け落ちたあの日……いったい何があったんですか」


 ベッドの上、同じ布団の中。

 息遣いさえ精細に聞き取れてしまう距離。


 くりくりとした大きな瞳は、暗闇の中でもなおその光を失わず、その視線でもって神谷を射抜く。

 揺らぎつつも逸らされることは無く、神谷にも逸らすことを禁じているかのようだった。

 こんなものを見せられては誰だってわかってしまう。

 姫野は今、決死の覚悟で持ってここにいるのだと。


 ずっと抱えていたのだろう、と思う。

 

「それは…………」

 

 言うべきか、そうでないか。

 以前にも立たされた岐路に再び立ち尽くす。

 

 マリスに感染した者は前後の記憶を失い、それに伴い精神が衰弱する。

 しかし、忘れても抱いた感情は残ってしまう。

 だから姫野は理由のわからない罪悪感と不安感に苛まれてきたのだろう。

 

(……でも)


 本当に言うべきなのだろうか。

 例え今は苦しんでいてもいつかは風化する。

 それに、今でさえこれだけ思い詰めているなら――こうして泊まりに来て、同じ布団の中で訴えかけてくるほどに思い詰めているなら、真実を知った彼女はどれだけの衝撃を受けるだろう。


 姫野が慕ってくれているのはわかっている。

 だからこそ、彼女が慕うその先輩を傷つけたと知れば、それこそ深く深く傷ついてしまうかもしれない。

 その可能性が頭をよぎっては、もう何も言えなかった。


「…………桃香は変なモンスターに襲われただけ。だから大丈夫だよ」


 囁くように、慰めるようにそう言った。

 できる限り優しく、傷跡に触れるような声色で。

 

 しかし、姫野は――――


「…………っ、どうして」


 ひどく傷ついたような顔をして。


「どうして……大丈夫って言うんですか……!」


 こぼれた涙を拭いもせず、神谷の袖に縋りつく。

 顔を神谷の胸元に埋め、震えながら今まで抑え込んでいたものを溢れさせていた。

 

「な……なんで、そんなに優しくするんですか……そうやって先輩が優しくするたびにっ……すごく痛くなるんです……苦しくなるんです……! もう……嫌なんですよ……」


「――――……」


 しゃくりあげながら感情を吐露する姫野を前にして――愕然とした。

 自分のしてきたことの意味を、その愚かさを突き付けられてしまったからだ。


 優しさ? そんないいものじゃない。

 残酷な優しさなどという洒落たものですらない。


 神谷はただ怯えていただけだ。

 傷つけることに。向き合うことに。

 自分可愛さで、姫野から逃げていただけだ。


 何がいい先輩でありたいだ。

 何が彼女のためになにをしてあげられるか、だ。

 何が。何が。何が。


 馬鹿馬鹿しい。

 最初からずっと……出会った時からずっと。

 神谷は姫野を泣かせてばかりだ。


「…………桃香」


「……っ」


「ごめん。わたし、ずっとひどいことを桃香にしてた」


 気づくのが遅すぎた。

 もっと早くに気づくチャンスはあったはずなのに。


 マリスと戦い熱を出した神谷のお見舞いに来てくれたとき。 

 放課後遊びに連れ出したとき。

 姫野が取り巻きのしでかしたことに感づいたとき。


 そのことごとくで未練がましく自分の嘘に縋り付いて。

 先輩失格だ。


「全部話すよ」


 許してくれとも、許さないでくれとも言えない。

 嫌わないでくれとも、嫌ってくれとすら言えない。

 そんな資格はとうに失った。


 昔からそうだ。

 とてつもない大失敗を犯して誰かを傷つけてしまったとき、まず最初に考えることは『消えてしまいたい』だった。

 目の前のことから逃げて、責任から逃げて、罪から逃げて。

 でも、今はもう逃げられない。

 それに、もう逃げるのは嫌だった。


 すべてが遅かったのは確かだが――少なくとも、気づけて良かったと、そう思った。





 それから、神谷はぽつぽつと話し始めた。

 謎のモンスター、マリスの存在を。

 自分とフランだけがマリスに対抗する術を持っていることを。

 そして、姫野ラブリカがマリスに感染してしまったこと。

 マリスと化したラブリカと神谷ミサキが戦い倒したこと。


 いま話せることを、洗いざらい全て話した。

 隠すことは簡単だったが、この期に及んでそんなことはしたくなかったし、できなかった。


「…………私は」


 か細く震える声が耳朶を震わせる。

 ともすれば聞き逃してしまいそうなほどに頼りないその声は、姫野が発したものだった。


「私は、そんなことをしてたんですね。そんなことを……忘れてたんですね」


 ぎゅ、と神谷の袖をつかむ手に力が入る。

 頭の中でぐるぐると情景が回る。神谷の言葉をトリガーに、奥底にこびりついていた記憶の一部が浮き上がってくる。

 断片的で、ぼやけているが、確かに残っている。


「少しだけ思い出しました。あの時、私は……自分が抑えられなくなって、暴れ狂って……そして、先輩をこの手で……」


 震える左手を、暗がりの中で見つめる。

 他の記憶よりわずかに鮮明なそのシーン。

 槍のように変化したこの腕で、自分は神谷を突き刺して……。

 

 そして、その時の感情も驚くほど鮮明に蘇った。

 あの瞬間、自分は――壮絶な快楽を感じていた。想い人を傷つけることを心の底から悦んでいた。 

 信じたくない、と瞼を強く閉じてもその情景が消え去ることはない。


「……あはは……私、終わってますね。ずーっと先輩にもみんなにも、迷惑かけてばっかだったんだぁ……」


 喉から漏れた乾いた笑いと同じように、涙は涸れて一粒すら出ない。


 それは、隠すよ。

 こんなの知らない方がいいに決まってる。

 誰だってそう考える。

 守られていることにも気づかずに――知りたいとばかり。


 それでも、あの日、最後の記憶。

 必死で止めてくれたミサキの影が脳裏によぎる。

 それだけがかすかな希望となって姫野の心を支えていた。


「…………っ」


 暗い谷底へ落ちていくような姫野を、柔らかく温かい何かが包み込んだ。

 それは、今まさに目の前にいる人の温もりだった。

 小さな身体で、それでも優しく抱きしめてくれているのだとわかった。


「桃香はなにも悪くない。悪くないんだよ……全部マリスのせいなんだから」


「でも、そうしたのは私です。あなたを刺したのだって、私なんですよ……?」


「……わたしね、いい先輩であろうとしてずっとかっこつけてた。でも上手くいかなくて、どうしたらいいんだろうって悩んでばかりで……結局大切な後輩を悲しませてる」


 必死だった。

 自分にできることは何か、どうしたらこの後輩を悲しませずにいられるか、そしてより良い方向へ導いてあげられるか――などと。

 そうやって傲慢なことばかり考えていたから空回って。


「わたしは桃香を泣かせてばかりだ。いい先輩になんてなれなかったんだよ。だから……だからせめて、迷惑くらい好きにかけてよ。迷惑かけられるの、嬉しいよ」


 告白であり、懺悔だった。

 本当は姫野の全てを迷惑だとは思わない。

 しかしそれを伝えても意味がないだろう。大切なのは、彼女の気持ちだけなのだから。

 だからひたすらにすべてを受け入れる。神谷にできることはそれだけだった。


「だめな先輩でごめん。でも、たった一人の後輩のことは大切にしたいって思ってるから……もう自分を責めないで」


「先輩……」


 ああ、この人はほんとうにずるい。

 そんな必死に訴えかけられたら……もう何も言えなくなってしまう。

 この小さな身体で、有り余るくらいに想ってくれていた。そのことだけで満たされる。

 

 何が――何がだめな先輩だろうか。


 涸れたと思っていた涙がまた溢れ出していた。

 でも、嫌な涙ではなかった。

 おぼろげな視界の向こうで神谷がかわいらしくうろたえるのが分かる。

 そんな愛しい先輩を安心させるように姫野は笑った。 


「ありがとうございます、先輩。私、先輩に出会えてよかったです」


 そう呟いた直後、その日ずっと緊張していた疲れからか壮絶な眠気に襲われ、姫野の瞼は落とされた。

 小さく開いた口からは静かな寝息が聞こえ始める。


 神谷は驚きに目を見開いた後ゆっくりと細め、後輩の柔らかな髪を優しく撫でる。

 

 ――――始めて会った時はあんなに強引だったのに、変わっちゃって。


 姫野桃香は守るべき対象などではない。

 むしろ助けられてばかりだったように思う。

 どこに出しても恥ずかしくない自慢の後輩だ。


 眠り姫を起こさないように、神谷はそっと呟く。


「……ごめんね桃香。わたし頑張るから。桃香が恥ずかしくないような先輩にきっとなるから……見ててね」


 それだけ残して、壮絶な眠気に襲われた神谷も意識を落とす。

 窓の隙間から差し込む月光が、二人の少女を優しく照らしていた。

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