135.悪意の楔
ゴーグルを外し、閉じていた瞼をゆっくりと開く。
電脳の世界から肉体に帰ってきた五感はまだ少しおぼろげで、夢と現実のはざまに浮かんでいるみたいだった。神谷はとてつもなく寝起きがいいタイプだが、これに関しては別物と言っても良い。
それでもこの感覚にはずいぶんと慣れた。意識がはっきりしてくるにつれ、見慣れた自室の風景を目と脳で静かに受け入れる。
意識が飛んでいるとは言え、やっぱり睡眠にはならないなと再確認した。
「夕方か」
時計の針を確認するまでもなく、カーテンの隙間から薄闇を切り裂く夕焼けでおおまかな時間帯がわかる。
何時間も閉じっぱなしだった目にはじわりと痛いが、それがすこし心地よかった。
勢いをつけて身体を起こし、スリッパをひっかけて自室を出る。部屋着どころか寝巻に近いような格好だが、もうあまり気にしない。
寮生である神谷は高校入学から続く十数人との共同生活をしているが、いろいろと慣れてしまった。
木張りの床をぺたぺた歩き三つ隣のドアをためらいなく開ける。
「こんこんがちゃいえーい」
「ちょっとノックしなさいよ! いえーいじゃないのよいえーいじゃ」
「あは、わたしたちの仲じゃんアカネさん」
勝手知ったると踏み入ったのは園田とアカネの部屋。
ちょうどアカネは腕立てをしているところだった。暇があれば鍛えているが、いったい誰を倒すつもりなのだろうかと神谷は不思議に思っている。
「親しき仲にも礼儀ありって知ってる?」
「親しいって思ってくれてるの? うれしー」
「あんたね……ってちょっと、乗るのやめて!」
腕立て中の背中にナマケモノのごとく抱き着いてみるがびくともしない。神谷は小柄ではあるが、それにしても人間一人に上からのしかかられて身体が全くぶれないのはどういう鍛え方をしているのか。
「ね、みどりは?」
「スーパーに買い物。あんた卵が切れそうって言ってたでしょ」
寮暮らしとは言え各々食事は自分で用意することになっている。
その中でもキッチンを恒常的に使っている者……つまり自炊している寮生は現状神谷のみということで、食材の買い出しも主に担当している。
「後でお礼言わなきゃ。あ、そういえばねえ、フランがアカネたちの武器完成したって言ってたよ」
「その体勢で言うのやめてくれない? ……まあ、またみどりと取りに行くわ」
「わたしも一緒に行こうかなー……ん?」
ぴり、と脳に微弱な電流が走るような感覚。
聞こえた。音としてではなく、感覚として捉えた。
猫のようにするりとアカネの背中から降りた神谷はドアへと歩いていく。
「いきなりどうしたの?」
「陽菜が帰ってきたみたい」
「いや、なんでわかるのよ。この寮、防音しっかりしてるはずじゃないの? あんたあの子が帰って来るときの察知能力半端ないわよね……」
神谷たちの暮らす寮は木造ではあるが大声を出さなければ隣室に音漏れは無いし、今いる場所は二階で玄関は一階である。誰かの出入りを聞き取ることはまず不可能のはずだ。
「ふふん、魂で繋がってるからね!」
「きも」
「二文字でここまで傷つけられたのは初めてだよ」
鼻歌交じりに階段を降りていくと、ちょうど玄関のドアが開きポニーテールの少女が顔を出した。
部活終わりだからかジャージ姿でスポーツバッグを肩から下げている。
「陽菜おかえりー!」
小学校の頃に出会い、中学で離れ、高校で再会した。友人の中では最も付き合いの長い相手だ。
明るく、人当たりが良く、交友関係も広い。彼女もまた神谷にとって大切な存在だ。
「ただいま。あはは、なんか沙月がいる気がした」
「わたしも。ごはんにする? お風呂にする?」
「お風呂。シャワーが混んでて浴びられなかったんだー」
「じゃあわたしも入る!」
光空のスポーツバッグを奪ってとてとてと廊下を歩いていく。
浴場も共用だ。そこそこ広く、複数人で入れるものの沸かすのは自分たちでしなければならない。
「え、なんで」
「さっきまでゲームしてたから汗かいちゃってて」
「あーあれか。楽しそうだね」
意識を仮想空間へと落とし込むVRMMOをプレイしているとき、肉体は意識を失っている状態であるわけだが、身体の機能が止まるわけではもちろんなく、寝汗と同じように汗をかく。長時間のプレイのあと――特に激しい戦闘の跡などはログアウトすると汗でびっしょりということがままある。
なのでこんなこともあろうかと事前に風呂は沸かしておいた。
廊下を後から付いてくる光空へ振り返り、後ろ向きのまま歩く。
「陽菜はやらない? アストラル・アリーナ」
「うーん……さすがに部活が忙しいからね。今年で引退だし」
「そっかー……陸上部のエースだもんね」
「期待されてる以上は頑張らなきゃ」
入部当初から頭角を現した光空は陸上部において中核を担っている。
一度スランプに陥る時もあったが、神谷と共に乗り越えた――なんてこともあった。
「楽しい?」
「…………えっと」
楽しい。
そう口にしようとして、言いよどむ。
それを自覚して驚く。どうして即答できなかった?
「どうかした?」
「ううん、なんでもない。だいじょうぶ、ちゃんと楽しいよ」
「……そっか」
楽しいはずだ。
だってずっとやってみたかったゲームなんだ。
だというのに、真っ黒な楔が胸に刺さって抜けない。心の底から楽しいと――はっきり言うことがミサキにはできなかった。
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