106.Your pleasure
ざわざわと喧騒。
駅のホームにいると、いやでもたくさんの人の声が聞こえてくる。
そんな中でも目の前の後輩の声ははっきりと聞こえた。
「で、デート? わたしと? 今から?」
「はいっ!」
確かに明日のクリスマスパーティの準備は今できる分はあらかた終わらせてしまったし、今日の夕食までまだ時間がある。
神谷は念のため尻ポケットに入れてきた財布を確認しつつ、自分より少し背の高い後輩を見上げる。
「今からだとあんまり時間取れないけど、別の日じゃダメなの?」
「…………そもそもデートしないとは言わないんですね」
「え? あー……確かに」
盲点だった。
断るという選択肢もあったのか。本格的にこの少女に甘くなってしまっているらしい。
しかし後輩というのは初めての関係なのだからそうなってしまっても仕方がない。なんというか、妹ができたような気分なのだ。
だから仕方ない。
「小声で言ったんだから聞こえても聞こえないふりしてくださいよ」
「無理言うねー」
「――さっきの質問ですけど、別日じゃダメです。今日じゃないと」
「どうして?」
「どうしてもです。あと拒否権ないですからね。『貸しイチ』です」
そういえばそんなのもあった気がする。
以前ゲーム内で試合をした後、ロビーに帰ってきた
そういう借りがある。
「もしかして……定期入れ忘れたのってわざとだったりする?」
「……さあ? どうでしょうか。先輩はどっちだと思います?」
行きましょうか、と歩き始める桃香に悪魔の尻尾を幻視した。
どっちでもいいな、と思った。
デートとは言いつつ遊べるのはせいぜい三時間ほど。
できることは大して多くはない。
「パンケーキ専門店って初めて来た」
「最近うちの学校で話題になってますよ。おいしくて、安くて、学校から近くて、しかも映えるって」
間食にはちょうどいい時間でしょう、と言う桃香曰く、つい最近できた店だという。
ほぼガラス張りになっていて、全体的に白っぽい内装。
席は少なめで、他の客もあまりいない。本当に人気なのだろうか、と疑いたくなる。
「お待たせしました」
恭しくパンケーキの乗った皿を持ってきた背の高い店員さんに会釈しつつ、スマホを取り出して一枚撮影。あとでアカネたちに自慢してやろうと決める。
対面を見ると桃香も撮っている。たしか彼女は何かしらのSNSで結構なフォロワーを抱えていた気がする。またあとでアップロードするのだろう。
そんな彼女を見ていると、そういえば自分のアカウント全然動かしてないな……と思い至る。桃香に作れと詰められて言われるがままものなので、あまりモチベーションが無かったのだ。
パンケーキは特に変わったところのないオーソドックスなもの。特別分厚いわけでもふわふわしているわけでもない。
上にバターと生クリームとブルーベリーソースが乗っている、ありふれている外見。
とりあえずナイフで切り分けフォークで口に運んでみる。
「ん! うあー、生クリーム染みる~……」
「たしか先輩って甘いもの好きでしたよね?」
「好き! 来てよかったー、おいしいよ」
良かったです、と微笑む桃香につられて神谷の口元も綻ぶ。
これだけでも誘いに乗って正解だったと思える。
「…………あれ? ちょっと待って、甘いもの好きって言ったことあったっけ?」
「………………………………」
「意味深な笑みやめて!」
この後輩は何かしらからかいを入れてこないと気がすまないらしい。
まあでも、懐いてくれている証拠だね、などと思いつつ、二口目を口に運んだ。やっぱりおいしい。
思いのほか大満足だった。
「あーおいしかった、また行ってみようかな。っていうか自分でもアレ作ってみたいな……」
「あのお店の公式サイトに簡易版のレシピが載ってるらしいですよ」
そうなんだ、後で見なきゃ――などと言いつつ歩を進める。
以前にも二人で来た道だ。なんとなく行き先がわかる。
日も傾いてきた。おそらくここが最後になるだろう。
「ゲームセンター……でいいの?」
「はい! 思い出の場所ですから」
そんな感じだったっけ、と首をひねる。
前にいろいろあって桃香が弱っていた時、半ば無理矢理連れてきた場所で、それだけだ。
その時だってうまく元気づけられたとは言いがたい。その時のことを思い出すと胸に隙間風が差し込んできたような心地になる。神谷は首に巻いたマフラーに口元をうずめた。
「さっそく行きましょう! 時間は有限ですよ」
桃香が言うのなら、と意気揚々と自動ドアをくぐる背中に続く。
…………これでいいのだろうか。
やはりと言うべきか、特筆すべきこともなく。
ただ普通に楽しく遊んだだけだった。
これはデートと呼べるのだろうか。
どうしても『楽しませてもらった感』がぬぐえない。
「日が短くなったね」
「そうですね」
暖房の利いた店内から、寒風吹きすさぶ外へ。
スカートで来なくてよかったと外出前の自分の判断を褒める。
遊んだあとのここちよい気だるさと、ふしぎな物足りなさというか、心残りを感じた。
「ねえ、今日楽しかった?」
「なに言ってるんですか。当たり前じゃないですか」
「……だったらいいんだけど」
嘘とか気を遣っているとかそういうことも、たぶんない。
本当に楽しかったのだと思う。
きっとそうに違いない。
会話も少なく、歩いていると駅につく。
改札がすぐに見える。彼女はいつもここを通って家路につく。
桃香が改札の前で立ち止まる。振り返って、幾度かの逡巡のあと、
「あ、あの! もう…………」
何かを言おうとした瞬間だった。
ブブブブ、と神谷のスマホが振動する。メールではない。通話の着信だ。
どうすればいいのかわからず桃香を見つめると、眉を下げて、どうぞ、と手をひらひら振った。ありがとうと断って応答する。
『あ、沙月さん。今どこにいます?』
聞きなれた綺麗な声。園田みどりだ。
「あれ、みどり。買い物終わったの?」
『今寮に帰ってきたところなんですけど、アカネちゃんが心配してましたよ。出てったきり全然戻ってこないって』
「あちゃー……」
そういえばデートのことを連絡するのをすっかり忘れていた。
帰ったらまた叱られるな、と苦笑する。
もうすぐ帰るから待っててね、と残して通話を切る。
「…………そろそろお開きかな」
「そう、みたいですね」
冬の日は沈むのが早い。
今日桃香と会った時駅の窓からしみ込んでいた陽の色の光はすでに鳴りを潜め、空には月が浮かぼうとしている。
「…………えーと」
「あ、大丈夫です。私も私で用事があるので、このあたりで」
「そうなんだ…………」
沈黙が横たわる。
もどかしくて、ここから離れるべきじゃないような気がして、しかしとっくにデートは終わっている。
「……じゃあ、またね」
「はい! よいお年を」
そういえばもう年末だ。
来年まで会うことはないのかもしれない。
ゲームの中で会うことはあるかもしれないのに――と思ったが、あそこではラブリカであって桃香ではない。そういうことなのだろう。神谷もまたミサキというアバターを纏って活動している。
リアルの神谷とゲーム内のミサキは違う。意識しているわけではないが、その外面には少しの差異がある。ラブリカもきっと同じだ。あそこではだれもがリアルと違う自分になっている。
だけど、違うことと同時に、自分自身でもある。
以前ミサキが作り出した、存在と非存在の狭間である虚像のように。
だから桃香の背中に向かって呼びかける。
「桃香ー! 前の試合、応援しに来てくれてありがとー!」
「……っはい! またいつでも行きます!」
いてくれるだけで嬉しかった。それだけは伝えておきたかった。
改札を通り、手を振ってホームへの階段を降りる桃香の頭が見えなくなってから、神谷も振り返って歩き始める。
お気に入りのスニーカーが左右交互に歩道のアスファルトを踏みしめる。
完全に日は落ちて、夜。
横を見れば道路を走る車たちのヘッドライトが流れ星の群れみたいに見えた。
以前、桃香に対してできることが何もない、と途方にくれたことを思い出す。
今も同じ気持ちだ。
わたしは他人が自分に求めていることを、察することが苦手だ。それはきっと自分の価値というものを本質的に信じられていないからだ。
他人の感情に対して鈍感というわけではない。むしろ聡いほうだろう。
……いや、どうかな。わかってるつもりになってるだけかも。
とにかく。
誰かの感情が自分に向いた瞬間、わたしの目は曇る。うまく捉えられなくなる。
きっとわたしは、桃香が本当に望むことを何ひとつしてやれないのではないかと思う。
他人の考えていることが手に取るようにわかればいいのに。
そうしたら、その人が求めていることを、できる限り叶えてあげられるかもしれないのに。
だけどその人が自分のことを知ってほしがっているかどうかはわからない。
心にメスを入れて、開いて――中身を見ようとしたら、赤黒い血があふれ出て、止まらなくなってしまうかもしれない。
そう思うと。思ってしまうと。
踏み込もうとするこの足は、この手は、臆病にも震えてしまうのだ。
桃香と接すると、よくこんな気持ちになる。
きっと先輩として何かしなければという想いが強くなってしまうからだろう。
気負っている。それは自覚している。
「難しいな…………」
どうするのが正解なのだろうか。
いや、そもそも人と人との関係に正解などあるのだろうか。
わからない。
あの金髪碧眼の錬金術士――フランに対してはこんなふうに思うこともないのに。
得体が知れないからこそ気が置けない。
知る必要がないから肩の力が抜けているのだろう。
でも、
「いつか知りたいよ」
大切に想っている人たちのことは、なんだって。
すべてでなくともできるだけ。
あなたのことを、わたしは知りたい。
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