61.しとしとと降りしきるかのごとく


「私、嘘をついてました」


 目元は真っ赤だし、目蓋も少し腫れてしまっている。

 それでもやっと泣き止んだ姫野はたびたびしゃくりあげながらもそう口にした。


「嘘…………」


 神谷がオウム返しすると、うな垂れるようにして姫野は頷く。

 

「うちのバスケ部のために入部してほしいだとか、全部嘘です。私は――――ずっと部活に行ってません」 





 もともと。

 姫野桃香という少女は中学でバスケに打ち込んでいた。

 もちろんマネージャーではなく選手として。


 全国の舞台を目指して熱く闘志を燃やすスポーツ少女だった。

 朝も昼も放課後も、夜だって練習に費やしてきた。それくらいバスケットボールというスポーツが好きだったし、向上心の塊でもあった。

 

 しかしチームメイトはその熱意についていけなかった。

 別に全国になんて行けなくていい。とりあえず部活に入っておきたい、できれば運動部に。練習は最低限しかしたくない。一生懸命なんてやってられない、なあなあに流すぐらいがちょうどいい。サボれるならサボりたいし、大手を振って放課後遊びに行ける練習の無い日なんて最高だ。

 そんなぬるい空気の中、姫野だけが異物だった。ほの暗い海中をゆらゆら漂うクラゲの群れの中に、一匹だけ空を目指して飛ぼうとする者がいた。


 姫野はそんな環境が許せなかった。

 

『なんでみんなもっと真剣にやらないの』

『勝ちたくないの』

『私は勝ちたい』

『負けたくない』

『ついてこられないあんたたちが悪い』


 堕落の一途をたどる――姫野の目にはそれが『堕落』にしか見えなかった――チームメイトを尻目に彼女は一層練習に打ち込んだ。

 誰からも嫌悪されていることはわかっていたが、姫野は自分こそが正しいと信じて疑わなかったのだ。


 その結果、どうなったかというと――練習中のことだった。

 突然足に激痛が走り、姫野は病院に搬送され。

 今後一切の激しい運動を禁じられてしまった。


 ただひたすらにあっけなく、そして必然的に訪れた選手生命の終わり。

 まだ成長途中の身体には、姫野の練習量は重すぎた。

 右の膝がどうにかなってしまったということだけを姫野は理解した。


 いや、理解したくなかった。


 呆然自失のままリハビリに取り組んだ。

 ときおり正気に戻ってしまいそうになるのを理性で抑え込んだ。

 冷静になって現状を把握してしまえばすべてが終わってしまうような予感があった。

 同時に、もう本当に終わってしまっているということも理解していた。


 結局自分は間違っていて、見下していた彼女たちの方が正しかったのだと思うとやりきれない気持ちになった。どれだけ後悔しても足りない。

 必死で努力した自分は未来を奪われ、なあなあに取り組んでいたチームメイトたちにはこれからも自由が約束される。バスケをやめるも続けるも思いのまま。

 その事実は姫野の心を打ちのめした。 


 リハビリの結果日常生活を送れるくらいには快復した。

 しかし激しい運動は禁じられたまま。

 中学三年の冬のことだった。


 スポーツ推薦はすべて消えてしまったが、入院中に勉強をして気を紛らわせていたこともあり受験にはさほど困らなかった。

 それでも苦しくて仕方がなかった。母も父も温かく接してくれたが、その優しさが痛かった。何も言わずに少し離れた場所から見守ってくれる兄に、少しだけ救われた。


 そうして入学した高校は何の変哲もない公立高校。

 スポーツの名門というわけでもない学校だ。寮に入るという選択肢もあったが、何やら変人が多いといううわさを聞いてやめた。


 何はともあれ高校という新天地で心機一転頑張ろうと決心していた。その時は確かにそう考えていた。

 ちょっと無理してでも上を向いて、なにか新しいことでも初めて、新しい友達も作って――と。

 努力の甲斐あってクラスの輪には入れたし、明るく振る舞う努力や容姿の良さも相まってそれなりに好かれる位置に収まることができた。成功と言ってもいい。


 間違いがあったとすれば、バスケ部に入部してしまったことだった。


 ほんとうに、自分はとち狂ってしまったのかと思った。

 結局自分はバスケを諦められなかったのだと気付かされてしまった。

 マネージャーという形でも縋りつかずにはいられなかった。


 先輩たちは眩しかった。

 優しくて、ひたむきで、以前は姫野が目指していた全国という大舞台を怖じることなくまっすぐ目指して日々努力していた。

 当初は彼女たちをサポートしていくのも悪くないかなと本気で思っていた。


 だがそれは最初のうちだけだった。


 目の前の光景があまりにも眩しくて眩しくて、眩しすぎて――羨ましい、と思うようになるにはそう時間はかからなかった。

 どうして自分はあそこにいないのかと呪いすらした。


 そうして――気が付けば姫野は部活に行かなくなっていた。

 同級生の中に他にバスケ部に入部した者はいなかったから、心配して様子を見に来てくれるのは先輩たちばかりだった。

 それでも何も言えない姫野に困り果て、諦めてしまったのか、それとも愛想をつかしてしまったのかはわからないが、今では誰も見に来ることはなくなった。


 本当は、毎日放課後には体育館へ足を運んでいた。

 でも、あのボールがバウンドする特有の音を外から聞くたび足がすくんで吐き気を催した。そうなってしまうともう無理で、勝手に踵を返す自分の足に、泣きそうになりながら俯くしかなかった。


 体育館に行こうとしては何もできずに引き返すだけの日々。

 行かない日が重なってゆくたびに、体育館への道のりが遠のいていくような気がした。


 そんな暗澹たる日々を忘れさせてくれたのは兄から勧められた『アストラル・アリーナ』だった。

 別の世界に、違う自分。嫌な現実を忘れさせてくれた。

 

 そしてその世界でミサキを見つけた。

 いつの間にかファンになっていた。

 有志が立ち上げた非公式ファンクラブにも真っ先に入会したし、彼女の公式戦は幾度となく、というかほぼ毎回見に行った。


 そんなことをしているとあっという間に時は過ぎ――あの球技大会で神谷を見つけた。

 目を疑った。素早い身のこなしを存分に活かしたドリブルで敵のディフェンスを抜き去っているのを見た瞬間、その姿がミサキと重なった。


 間違いない。彼女だ。


 運命だと思った。彼女もまたバスケをやっていたのだ。

 なんとかして近づきたいと思った。

 だから口から出まかせを並べ立てて――彼女がバスケ部の人たちに確かめたりすればすぐに瓦解するというのに――神谷と接点を持った。

 罪悪感はあったが、湧きたつような高揚感がそれを上回った。

 いつの間にか自分と同じくミサキの大ファンと化していた兄に話すと悶えるほどに羨ましがっていた。


 でも、あの日。

 やっとゲーム内で神谷ミサキと対面して。

 そして、


ラブリカ姫野さんもマネージャーじゃなくて選手として参加すればいいんじゃないの?』


 痛いところを突かれて――そこから先の記憶ははっきりしない。


 でももうそんなことはどうでもいい。

 姫野桃香は――私は、先輩を騙していた。

 それだけが事実。


 きっと私は許されない。

 誰も私を許すことはない。

 

 傷つけて、傷つけて、結局自分自身も傷ついて。

 これからずっとこんなことを繰り返すのかと思うと、目蓋は涙を押し出すことをやめてくれなかった。

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