60.桃色なみだ


 中学の時のことを時々思い出す。

 ボールをひたすらに追いかけるのが楽しく仕方なかったあの日々のことを。


 あの時少しでも周りに目を向けていればと思うことはいまだにある。

 しかし同時に、そうしていたら自分は部活を楽しめていただろうかとも考えてしまう。

 何のために始めて、何のために続けるのか。別にプロになりたいわけでもない、学校という区切られた世界と時間の中でそこまで打ち込む理由は何なのか。


 それは人それぞれあるだろう。

 でも神谷にとっては『楽しいから』以外に無かった。


 成長するのが楽しかった。

 昨日できなかったことが、今日できるようになるのが楽しかった。

 周りが自分のことを認めてくれたのが嬉しかった。

 自分の居場所ができたようで、嬉しくて仕方なかった。


 …………最終的にはその居場所を自らの手でめちゃくちゃにしてしまったけど、それでも。


 あの短い期間のことを、悲しみこそすれ否定まではしたくない。





「――――――――ってことがあったんだ」


 中学1年のころのことを話した。

 友達に誘われてバスケ部に入部したこと。

 最初は上手くなるのが楽しくて、どんどん打ち込んでいったこと。

 それが原因で拒絶されてしまったこと。


 もともとは、出会って間もない後輩に話すつもりは無かった。園田や光空にだって最近になって初めて打ち明けたくらいだ。

 でも相手とわかりあいたいなら、まずは自分から胸襟を開くべきだと思ったのだ。


「せんぱい……わたし、」


「でも」


 おそらく謝罪しようとしたのであろう姫野の言葉を遮る。

 何も悪いことなんてしていない。

 これは『知らなかったから』で済ませられることだから。


「でも、わたしバスケ好きだよ。もう部活に入ることはないし、それどころか本気で打ち込むことは金輪際ないけどそれでも好き」


「…………っ」


 まだ熱に浮かされた赤い顔で、神谷はふにゃりと笑う。

 謝ってほしいわけじゃない。負い目を感じてほしいわけでもない。

 とにかく聞いてほしいことがあったのだ。


「嬉しかったんだ」


「……うれし、かった?」


 うん、と頷く。

 あの球技大会の日から付きまとわれてきて、なぜかそれを本気で嫌だと思うことはなかった。

 むしろそれを楽しいと感じる自分がいたことを、神谷は否定できない。

 否定したくない。


「しつこく勧誘されてさあ、鬱陶しいって思うはずなのに……なんか嬉しくてさ。なんでだろーってしばらく考えてたらわかったんだよね」


 ああ――恥ずかしい。

 こんなことは熱が出てるから言えるのだ。

 自分の想いを開いて見せるなんて、いつもならそうそうやらない。

 たくさんの羞恥心と、ひとつまみのすがすがしさに身を任せ、神谷は言葉を紡ぎ続ける。


「わたしがバスケするところを見て、すごいって言ってくれて……ああ、わたしのバスケを好きになってくれる人がいるんだって……それが嬉しかった。同時に、バスケ好きだってことを思い出したんだ」


 その先に悲しい結末が待っていたとしても、ボールを追いかけた日々の楽しさは無かったことにはならない。

 そのことを姫野に思い出させてもらった。

 クローゼットの奥に押し込めた思い出がきらめいていたことに気付けた。


「ごめんね、やっぱりわたしはバスケ部には入れない。でも……ありがとう、姫野さん」


 みんな自分のバスケを疎んだ。

 嫌って、憎んで、遠ざけた。

 でも姫野だけは近づいて来てくれたのだ。

 それが打算的なものだったとしても――神谷は嬉しかった。


 布団から右手を抜き、ベッドの傍らに座り俯く姫野の頭を撫でる。

 彼女は何も言わない。しかし小刻みに震えていて……その様子をいぶかしんでいると、


「う……っく、うえええん」


「え」


 頭を撫でていた神谷の右手を掴んだかと思うと胸元で抱き、姫野は泣きじゃくり始めた。

 ぼろぼろと落ちる涙が彼女のスカートに斑点をつくる。

 横隔膜の震えが手から伝わってきて神谷は困惑する。泣くほどのことを言ってしまっただろうか、と。


「ごめ、ごめん、なさい……! 私、は、ぅっ、ひどいことを」


「ちょっとちょっと、なんで謝るの」


「私、は――――」


 そのまましばらく姫野は泣き続けた。

 泣き止むまでまともに話ができないほどに、彼女は涙を流していた。

 謝罪以外口にできないほどに。

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