0.3.謁見
和服を着た一人の男が、古い屋敷の縁側に座っていた。
その屋敷は非常に立派で、玄関には唐破風が付けられているという格式の高さだ。
男は胡座をかきながら、隣に置いている一振りの日本刀を撫でて迷瞑想に入る。
吹いている風は弱いが、集中する事によりどんな弱い風であろうと、何処から吹いてきているのかが分かった。
息を深く吐いてから、ゆっくりと胸一杯に酸素を取り込んで一度止める。
それからゆっくりと吐き出してから、もう一度息を吸って止める。
これを繰り返していると、腹の底から胸に上がってくる冷たい物が体を走り抜けた。
これが何かは分からないが、男はこれを意識しながらいつも瞑想をしている。
数十回の呼吸で、腹に残る冷たい何かは呼吸法をやめて普通に戻しても胸や背中を走り回る。
これがなんだか少し面白い。
日課である瞑想を終えた男は目を開ける。
そこには先ほど待て見ていたであろう立派な庭が再び姿を現すはずであったが、どうしたことか、白い空間に男は座っていた。
はて、ついに仏にでもなっただろうか。
そんな冗談を頭の中で呟いたが、心は随分と乱れていた。
それもそうだろう。
急に全く知らない場所に飛ばされたのだ。
この状況で落ち着けと言う方が無理だという話なのだが、男は極力表情に出さず平静を装っていた。
これは侍のプライドとも言える物ではあるが、慌てたところで何かが変わるはずもない。
冷静でいなければ理解できる物も理解できないのだ。
男は現状を把握するため周囲をも渡してみるが、残念ながら何もない真っ白な空間であるため、何も見つけることができなかった。
その結果に肩を落とすが、このまま何もしないという訳にはいかない。
隣に置いてあった愛刀を掴み──。
「む?」
あるはずの場所に手を伸ばすが、その手は空を掴む。
……無かったのだ。
どうやら男は体だけこの空間に飛ばされたらしく、身の回りの物は一切なかったのだ。
流石に刀がないとなれば慌てるしかない。
身を守る術が消失してしまったのだから。
「なんと……! 葉隠丸が……ない……」
あの刀は男にとって命と同じくらいに大切な物であった。
物心ついた頃には、すでに自らの腰に居座っており、何かあるごとに抜いたり振ったりしたものだ。
長年の苦楽を共にしてきた刀だからこそ、その刀に対する執着は強い。
その執着は愛とも表現できる物である。
男は必死になって刀を探すが、どうにも見つからない。
真っ白な空間は何処までも続いているため、下手に動く訳にもいかず、暫くはその場で愛刀を探し続けていた。
シャン、シャン。
愛刀を探していると、頭上より鈴の音が鳴り始めた。
その鈴の音は僧侶の持つ杖の先に着いているような鈴の音ではあったが、その正体を見てそうではないというこが分かった。
白い空間の天井より、服に鈴を散りばめた何とも美しい女性が舞い降りてきていたのだ。
男はその異様な姿に驚き、腰に手を当てて構えるが、獲物がないことを思い出して数歩下がることにした。
まずは相手の出方を見よう。
そう思って数歩退いた後、その女性は男と同じ位置まで舞い降りた。
姿をよく見てみれば、天女の様な衣を身に纏っているようではあるが、何とも煌びやかで眩しい。
しかし、その天女の持っている物を見て男は目を見開いた。
愛刀、葉隠丸だ。
見間違うことは決して無い。
黒い鞘には緑色の葉隠れ模様が描かれているのだから。
あれは男が特注で刀鍛冶に頼み込んだ模様であり、恐らくこの日の本には一振りしかないものだと自負していた。
しかし何故あの天女が刀を持っているのか、男には理解できなかった。
そもそもここは何なのだろうか。
まずあの天女はなの者なのか……。
考えれば考えるほど疑問が出てきてしまうため、ここからどうしようかと考えを巡らせていた。
しかし、こちらが声を掛ける前に、天女の方から声を掛けてくれた。
「初めまして。私はこの世界の神の一人、ナリアです」
「……神……だと?」
神と言えば神社に奉られている者達のことの筈だ。
しかし男が知っている神のなかに、そのような短い名前の神は存在していない。
名の知られていない神も勿論いるだろうが、その様な神がわざわざ一人の人間をこの様な場所に連れてくる意味が分からなかった。
「ああ、そうですわね。貴方はこの世界を知らないのだから無理もありません。私は生と死を司る神なのです。そしてこの世界は貴方にとって異世界、と言うことになります」
「申しておる意味が今ひとつ理解できぬ。某は死んだのか?」
「死んでいません。貴方は元いた世界から転移してきたのです」
また訳の分からない単語が出てきた。
転移とはどういう意味なのだろうか。
これはこの天女に説明させているだけでは状況が理解できないと判断した男は、こちらから質問を投げかけることにした。
「天女よ。まず問うが、某は死んでいないのだな?」
「はい」
「ではここはなんだ?」
「私が作り出した空間です。転移、転生してきた人物は一度ここに留めるのです」
「……分からぬ。では某を元の世に返してはくれぬだろうか」
「それは出来ないのです……」
「何故」
幸いながら男には未練などは無かった。
がしかし、住み慣れた地を離れるというのはあまりしたくはない。
この天女が言った異世界という意味は全く理解出来ないが、元住んでいた場所ではないと言うことは理解出来る。
なので今すぐにでも帰って日常を過ごしたいのだが、どうやらそれは不可能のようだ。
「貴方の魂はこの世界にすでに拘束させられたからです。無理に引きはがすと魂が崩壊して輪廻転生も出来なくなるのです」
「なんと……」
「ですが、この世界であれば、問題ありません。前にいた家などはありませんし、生活もがらっと変わりますが……良いところですよ」
とは言われたが、そうそう簡単に受け入れられる物ではない。
神であればそのくらいのこと何とかして見せよ、と言いたくなるのを堪え、頭を抱えて腰を下ろした。
「……そもそも……何故に某は……てんい……? をさせられてしまったのだ?」
「それは私の監督不行き届きでございます」
「……?」
また妙ちくりんな言葉を使われたが、とりあえず話しを聞いてやることにする。
「神は私以外にもおります。その神が暇つぶしのために、他の世界から魂を引っ張ってきて、自らが管理する世界に放り投げ、その様子を見て楽しんでいるのです。これは禁忌とされている事なのですが、私では事態を押さえることが出来ず……」
「娯楽となっているのか」
「はい……。それに問題がありまして、他の世界から魂を引っ張ってくると、世界の軸がぶれて貴方のような何にも関係ない人が、無差別にこの世界に放り投げられているのです」
この世の魂と、男がいた世界の魂はあってはならぬ存在。
しかし、混ぜることによって死んだ人物がこの世界で転生する事態が起こってしまうことがあるようだ。
男のように記憶を残したまま転移してくることも珍しくなく、天女は今非常に困っているのだとか。
「……まず、某の愛刀、葉隠丸を返してはくれぬか」
「条件があります」
「……申してみよ」
最初からこれが狙いだったのかと、男は少し呆れたが……背に腹はかえられない。
大人しく天女の申し出を聞くことにした。
「貴方と同じように数人の侍……と言うのですか? その方々がこの世界に来ております。その方々を……殺して魂を解放し、この世界の軸もぶれを修正して欲しいのです」
「…………某に人殺しをしろと申すか」
「剣はそのためにある物だと思いますが」
あながち間違っていない返しを聞いて、確かに、と一部納得するが、それでも間違っている事はある。
「確かにその通りである。が、その答えだけでは物を一つしか見えておらぬ様に思える。神というのに若い」
「……で、どうなのですか?」
少し不機嫌になったようだが、男はそれを無視して頷いた。
「見返りが必要だ」
「見返り……ですか?」
天女は少し首を傾げた。
これだけの大きな仕事をするのだから、何か大きな見返りがないと、受ける事は出来ない。
その見返りが刀を返してくれると言うことなのであれば、あまりにも小さすぎる報酬である。
「では、その侍たちを全員殺した暁には、願いを一つ叶えましょう」
「ふむ。お主が何処までの願いを聞き届けてくれるかは分からぬが、まぁそれで良いだろう」
「疑わないのですか?」
「何を疑う事がある? 神であれば国を生やすことも容易ではないか」
少なくとも、男のいた世界ではそれが普通である。
神の物語というのは、ほぼ不可能な事をいとも簡単に行ってしまうものだ。
むしろ出来ない事の方が少ないまである。
この天女が何を驚いているかは分からないが、とりあえず交渉は成立した。
しかし、まだ聞いていないことがある。
「この世界には何人の侍がいるのだ?」
「十二人です。因みに居場所は分かりません。自力で探し出してくださいね」
「難儀な……」
神であれば全てを知っていてもおかしくないのだが……。
しかし、十二人の侍がこの世界に来ているとは思わなかった。
想像している以上に、この世界の軸はぶれているようだ。
交渉が成立し、聞きたいことも聞いた。
そしてようやく葉隠丸を返してくれた。
やはりこの刀でなければしっくりこない。
今度は無くさないように腰に帯刀し、鍔に親指を掛ける。
「そういえばお名前を伺っておりませんでした。何というのですか?」
「某か」
男は葉隠丸を撫でつつ天女に向かって顔を上げる。
「木幕 善八である」
「そう。じゃあ善八さん。貴方をこれから私達の世界に飛ばします。まずは周囲の人達を頼ってください」
「ふむ……乗り気にはなれぬな」
「まずはこの世界を知らなければなりません。大変でしょうけど、頑張ってください」
「うむ」
この事態は非常によろしくないことなのか、詳しい説明を聞く前に、天女は話を進めてしまって木幕を転移させた。
それに一抹の不安を憶える木幕ではあったが、大して変わらんだろうと思い込むことにして、十二人の侍を探す旅に出るのだった。
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