チートとニートのチープなデート
霜月 風雅
第1話 チート 一個目。
そうじゃなければいいと思った。
絶対にそうだろうと確信に近い確証があったのに、それでも、どうか違いますようにと願うように祈って見た。
目を開けたらそこには何もなくて全部、全部、ただの勘違いでありますように、ともう何度目かわからない呪いにも似た願いを唱えながら。
どうか、そうでありませんように。そう、わかっていながら、願った。
私は確かにちょっと世間から外れた場所にいる女の子だった。それは認めよう。勉強も運動もからきしダメで小学校五年生の時の漢字テストで机にカンニングペーパー(この場合はカンニングデスクとも言える)をしたこともあったが先生にこっぴどく叱られそれ以来真っ当に零点ばかりを取り続けていたくらいダメだった。
そんな私が真っ当な人生を歩めるはずもなく見事に就職戦線から早々離脱をし、毎日堕落した生活を送っていたのだった。いや、両親にも友だちにも悪いと思ったけど、だけどさあ、面接官の人たち悪意ある質問しかしないんだもん。あの人たち、絶対日頃の鬱憤を我々で晴らそうとしているよ。
とにかく、私は家にいたのだ。そう、そのはずだったのに。
「えーっと、」
『おいおい、こりゃあ、この辺の娘じゃないぜ。』『ちいと色気が足りないが、胸はあるな。珍しい顔立ちしているし、売りとばしゃあいくらかにはなるな。』
目の前のおじさんたちがしている会話は明らかに日本語ではなくて、学のない私にはいったい何語なのかの判別すら出来ない。あ、でも、英語じゃないのはわかるよ。自慢じゃないけど、私は一応海外留学経験があるのでね。英語はちょっとならわかるのですよ。
「あの、あの、ですね。」
どうしてこんなことになったのか。私は全くもって混乱気味でわからない。そもそも、このどこまでもどんよりとした灰色が広がる空と見渡す限り続く青々とした緑地のある地形がどこなのかもすらわからない。
『ひひひ、お譲ちゃん。どうせ言ってもわかんねえだろうが、俺たちと一緒にきな。』『ああぁ、大丈夫。怖くねえからよおう。』
言っていることはわからないが、なにやらあまり芳しくない方向に進もうとしていることは、おじさんたちの表情でわかる。どんな世界だとしてもやはりおじさんのニヒニヒ笑いというのは何かどうしようもない恐怖を連想させる。
「あの、いえ、何を言っているのかわかりませんが、申し訳ありません。お断り、させていただきまーす!!」
ぺこりと頭を下げて走りだしたけれど、やはりあっという間に回り込まれてしまった。
『待てよ、お譲ちゃん。逃げることはねえだろう。』
ゆらり、ゆらりとまるでラスボスなのかと思うほどの怪しげな動きでおじさんたちが、私を囲む。囲まれると嫌でも目が行くのが、おじさんたちの頭である。テレビなどでよく可愛い女の子が頭に乗っけているのは見たことはあるけれど。東京にある夢の国では老若男女問わず付けているらしいけれど、如何せん私は田舎者なのでそんなところには行ったことはないのだけれど。いや、だから、つまり要するに。
『仕方ないな。お前、そっち持て。担いで行くぞ。』
「い、いぎゃああ。なに、なに、何なの!?獣耳つけたおじさんが、やっぱり変態だったよ、この人たちいいい!!」
めっちゃ渋いおじさんなのに、某ネズミのような大きな耳を頭から生やしたおじさん二人が、私の手を掴んできた。いや、いや、超怖い。なに、これ、超怖い。
どこまでも続く山の中の一本道。人は一人もいなくてどうしようもなくちょっと涙で潤んできた視界にじんわりと浮かびあがってきた黒い塊。
『逃げるな。逃げるな、』
『おい、悪いんだけど、それ、俺にくれない?』
低く良く通る声が、荒げるわけでもなくまるで漫画本を貸してくれと言うかのようにラフにそう言った。いつから現れたのか、どこから来たのか、突然のことに私たちは(おじさんも含めて)声のした方を見つめたまま、止まってしまった。
「うわ、また獣耳だ。しかも、今度は尻尾だけじゃなく身体が毛だらけ。」
『なんだ、お前は、どっから出て来た。』『猫族の奴か。今は、引っ込んでろ。』
じろり、鋭く睨むように(パッと見大きな黒猫な)男の人はおじさんたちに視線を送ると、きっと裏に肉球があるのだろう形をした大きな長い足で一歩一歩近づいてきた。
『いや、俺だって出来ることなら引っ込んでいたいよ。』
何を言っているのか、全くわからないけど、黒猫のお兄さんは目だけを鋭く光らせて口元は楽しそうに三日月を描いて足元もまるでスキップをしているかのような軽やかさ。
おじさんたちは、何事かを叫んでいる。ひょっとするとおじさんたちの仲間なんだろうか。いや、でも、それにしては文字通り毛色が違いすぎるように見える。だいたい、おじさんたちはちゃんと着物着ているし、足元も足袋みたいなの履いている上に手は人間の形をしているけど、黒猫のお兄さんはわかり易く裸だし(だけど、大事な部分は全て黒い毛で隠れているけど)手も足も、まるで猫のそれみたいにもこもことしてさきっちょに鋭い爪が覗いている。
「・・・・黒猫、だ。黒猫が人間になったみたい。」
『だけど、こいつだけは、誰にも渡せないんだよねえ。』
一瞬、真っ黒な双眸が懐かしむように優しく私を見つめた気がした。その瞳に何か感じることがあってそれを思い出そうと呆けた間に、私の手を掴んでいたおじさんたちが悲鳴とともに地面に転がっていた。
「え・・・え?あれ?」
『全く、危なく最初から詰んじまうところだった。大丈夫か?』
いったい何が起こったのか全くわからない私は、地面を転がるおじさんたちと大きな背を屈めて私を覗き込む黒猫のお兄さんを見比べて、え、と、あれ、を口から零すばかりで。
『そうだった、言葉が通じないんだ。えーっと、だ、』
黒猫のおにいさんは思案するように顎に手を当てて、何かを呟いた後、また、私に向き直り、あちこちを確認するように見るとふわふわとした大きな手を私の頭にポンと乗せた。
「大丈夫か?どっか、怪我とかしてないか?」
「・・・・・・はえ?」
今、黒猫のお兄さんは日本語を話したのだろうか。いや、でも、そんなはずはない。きっと、良く似た別の言語だ。ほら、よくあるだろ、掘った芋いじるな。とか、お腹空いた。とか、そういう感じの奴だ。だから、たぶん、これは、違う。
「おい、お前に言ってるんだよ。大丈夫か?まさか、どっか痛いのか?」
「うええ、だ、大丈夫です。大丈夫です、痛くないです。至って元気です。はい。」
「なんだよ、だったら早く言え。どっか怪我したのかと思って心配しただろうが。」
くるくる、左右に揺れる黒い猫耳が、安心したようにハタりと伏せられた。よくよく見れば、黒猫のお兄さんのお尻の辺りでぱったぱったと長い尻尾が揺れている。
「す、すいません。あの、頭が混乱していて。」
「・・・・混乱ね。とりあえず、一個ずついくと、俺様がお前を助けた。あの悪漢どもから。んで、お前はこの世界の言葉はわかんない。だけど、俺はお前の世界の言葉がわかる。」
「そ、そうですか、ええっと、なら、とりあえずありがとうございました。」
やたらと大きい黒目の真ん中がほんの一瞬、鋭い黄色になる。見たことがある、これは猫の目だ。黒猫のお兄さんは、何かを見極めるように私を見ていたかと思うと実に楽しそうな表情を浮かべて近くにあった大きな岩に腰掛けた。
「どういたしました。んで、お前はこれからどうするの?」
「・・・・・どう、って?」
「ここにずっと立ってるわけじゃないだろ?」
「・・・・・・まあ、そうですが。」
「それに、この世界で人間って珍しいから、一人で歩いてるとまたさっきみたいなのに襲われるぞ。まあ、俺がいれば守ってやれるけど。そんで、そういや、お前、なんでここにいるのか覚えてる?」
もう、パンクしそうな頭にお兄さんの言葉が次々と荒波のように襲ってくる。それでも、言葉の端に残っていた疑問に、記憶の一番最後を探す。
「・・・すいません、覚えてないです。」
しかしながら、いったい私はどうしてここにいるのか、全く全然覚えがない。一番最近の記憶は恐らくあの獣耳のおじさんたちに絡まれているってとこ。あとは、なんだか思い出せるけど時系列が整理できない。どの記憶が前で後ろなのか、よくわからない。
「なるほどな。ま、そんなもんだろ。・・・・よし、じゃあ、お前、俺様と契約しろ。」
黒い尻尾が、ぱったぱったと左右に振れて何か懐かしさを感じた気がしてそれを目で追う。なんだか、昔、誰かにぱったぱったをしてくれとねだった気がする。
「け、契約、ですか?」
「そう。お前を一人でこのまま放っておくわけにはいかないだろ。俺様はさっき見たとおり結構強いわけだ。そんで、ここが重要なんだが、お前はたぶんこの世界の人間じゃない。」
「・・・・あぁ、そうですね。私もそんな気がしていました。」
「だろ?だったら、話は早い。元の世界に戻る方法を俺は知っている。」
「え?本当ですか?どうするんですか?」
岩に座って真っ黒な毛で覆われた長い足を組むお兄さんの正面の地面に正座をしながら、尋ねるとお兄さんは得意げにふふんと笑うと、真っ黒な毛で覆われたしなやかな手をぐいっと伸ばした。ぴんと伸びた腕の先で人差し指が真っ直ぐに遠くを指している。
「あの城に住む魔女を倒せばいい。」
「一気に話しがファンタジー!!!」
私は視力があんまり良くないのでお兄さんが指差す先に本当にお城があるのかどうかが良くわからないのですが、果してこのままお兄さんを信じてついて行って良いのか不安になってきてしまいました。
お兄さんは、ドヤっと言わんばかりの表情で私を見ていますが、私はどう反応をしていいのかわからずにお兄さんの指の先を見るふりをしてとりあえず見える範囲の風景を見回した。
「綺麗だけど、寂しいところですね。暗いというか、悲しいというか・・・」
「魔女が、全部持ってった。綺麗な物。美しい物。素敵な物。とにかく手当たり次第にな。そんでなくなった。人間は綺麗なものを作ることが出来るから、魔女が連れてった。だから、この世界で人間は珍しい。もう、ほとんど純粋な人間はいないかもな。」
黒猫のお兄さんは目を猫の色にして私を見つめた。それは嘘を吐いているわけでもないのに、何か大事なことを悟られないようにしているようにも見えて私は戸惑う。
「そう、なんですか。でも、そんな強そうな人を私が倒すことが出来るでしょうか?」
「あぁ、それなら大丈夫。俺、すっごい強いから。さっきも見ただろ?たぶん、この世界で一番強いよ。」
「あー・・・そうなんですか。へえ。」
どうしよう、胡散臭い。ひょっとして変な人種に気に入られてしまったのではないだろうか。ひょっとして厄介な相手に捕まってしまったのではないだろうか。
正座をしていた足が痺れてきてしまったので崩す。そのとき、ポケットに何か入っているのに気づいた。眼鏡だといいなあ、なんて期待したけれど残念ながら眼鏡ではなかった。真っ赤な革で作られた真新しい首輪。
「お、いいもん持ってんじゃん。それ、俺様の首につけな。契約の印な。」
「え、まだ、私契約するなんて言ってませんけど。」
「じゃあ、お前一人でこの世界でやっていけるの?言葉も通じないのに?」
「そ、それは、」
そうだった。このお兄さんと普通に会話成立しちゃっているから忘れていたけれど、私、この世界の人と言語違うんだった。何言われているのかすらわからないんだった。
「ほら、決まりな。俺と契約する!ほらほら、首輪、首輪!」
「なんでそんなに嬉しそうなんですか。」
お兄さんは、嬉しそうに笑うと岩から降りて私の前に四つん這いになって寄ってきた。それが、何か誰かに似ていて記憶の海にダイブする。時系列順がわからないけど、私の記憶に確かに黒猫がいる。私がねだるとめんどくさそうに目を細めて、それでもぱったぱったと尻尾を振ってくれた黒猫がいる。たとえ、耳を引っ張っても、鬚を掴んでもちっとも怒らなかった黒猫がいる。
「クロスケ、」
その猫の名前を記憶から引き摺りだすようにして口に出せば、目の前で首を出して待っていたお兄さんが、少しだけ驚いたように目を見張って思い出したように、にゃあと鳴いた。
「俺の名前だろ?いい名前だな、クロスケ。」
お兄さんが首についた首輪のプレートを爪に引っ掛けて笑う。別にそんなわけじゃなかったけど、否定するのも違う気がして私はそのふわふわの頭をそっと撫でた。懐かしいクロスケの感触がしたようで少しだけ泣きそうになった。
「クロ、」
お兄さんは、まるで確かめるように私の匂いを嗅いでから、擦り寄るように私の体に擦り寄ってきて、にゃあと鳴いた。
黒猫のお兄さん=クロは、尊大な態度と口調とは裏腹にとても優しい猫のようだ。ようだ、というのは今のところ他に比較する猫と会っていないから断定は出来ないだけで主観的に言ってしまえば、優しいと言い切ってしまえるくらいには優しい。
「おい、ご主人さま。今日はもう遅いからこの辺で寝るぞ。」
言われた言葉にわかってはいたけど、違うと信じたかった願いがガラガラと音を立てて崩れていく。あぁ、そうだよね。あのあと、この世界についてぼんやりとした説明を受けている間だけでだいぶ時間経っちゃってたし。それなのに、近くに村とかある感じはしなかったから、ひょっとしたら野宿かな。なんて思ってはいたけど。
「ええっと、えっと、それは、無理かと。」
だいたいにしてここって本当にその何もないただの地面で、一応平成の平和な日本に生まれた私は、野宿はおろかキャンプすらしたことがない。
座ることは出来たけど、寝るとなると話は別だ。だって、虫いるし、草はあるし。
「あー・・・めんどくせえな。ほら、じゃあ、俺の上で寝ろ。」
「・・・・・・・・・・はい?」
クロはそう言うと、ごろりと地面にその身体を投げ出した。いやいや、え、おかしくないですか。あ、おかしくないんですか。確かに、手とか足とかに生えてる毛がふわふわしていて寝てみたい衝動には駆られますが、それは倫理的に大丈夫なんですか。
「別にお前くらいなら、乗っかってても寝れる。」
「あ、いや、・・・えと、じゃあ、お邪魔します。」
クロは全く気にしていないのか、真っ黒な手をそれこそ招き猫よろしくな感じでちょいちょいと動かしている。それに呼ばれるように私はクロのそばににじり寄り、その身体に仰向けに身体を乗せた。
「はー・・ご主人さまってこんくらいの重さだったんだな。」
「え、お、重い!?」
「いや、別に。ただ、・・・・なんでもない。ほら、寝るぞ。」
クロは何か吐き出すように一つ深呼吸をする。私のすぐ下にある喉がひゅうっと動いてその振動が伝わってきた。落ちないように、背中に回された手が温かく優しく私を守る。
この人はいったいどんな人なんだろうか。どうして名前も知らない私を助けてくれるんだろうか。
「あ、そうだ。名前、まだ、言ってなかった。私の名前、透。透だよ、クロ。」
「・・・ゆき、ね。」
低い声が優しくそう呼ぶのを聞いて私はそっと目を閉じた。クロの規則正しい呼吸音が、私に溶けるようにして案外すんなりと私は眠りの中に落ちてしまった。
クロがしてくれたこの世界の話は、様々あったうえにとっちらかっていて良くわからないことが多かったが、やはり私のいた世界とは全く違う世界だということは確かだった。この世界では、様々な種が多種多様な進化を遂げ、様々な種同士が配合を繰り返し広がっていったのだという。世界に溢れるほどいる種類もあれば、世界にたった一種しか存在しないなんて生物もいるらしい。そして、この世界ではファンタジーの世界ではお約束の魔法というものも存在するという。他にも、たくさんの違いがあるようだけどとりあえず、その都度説明を求める方が話を聞くよりも確実だろうということになった。
そうして魔女の倒し方も、後々説明すると言われた。
「で、ここが魔女の呪いがかかっている森な。」
「うっわ、一目で呪われているとわかるビジュアルの森出た。」
魔女を倒すためには、魔女が世界にかけた9つの呪いを解いてからでないと、城にすら入れない。なのでまずは一番近くにある森の呪いを解くべ。ってことになったのだけど。
「ここの奥にある番人を倒すか、番人の守っている宝物を奪うかすると、魔女の呪いが解ける。」
「へえ。クロ、詳しいね。」
アリスとかに出てきたような真っ暗な森は、奥が全く見えない。どう考えてもお化け屋敷の匂いしかしなくて私の足は小鹿のように震えてしまう。
実を言うと、私はホラー系スプラッタ系ゾンビ系がダメだ。怖い。
「あ、ちなみに聞くけど。お前、矛と盾、どっちが欲しい?」
「何、その質問・・・ええっと、盾、かなあ。」
「ふーん、盾、ね。」
クロは、またしても目を猫のようにして私を見た。いったい何をリサーチしているのか、クロは時々こうして私に確かめるように質問をする。そんな時は、だいたいこうして目が猫の目に変わっているのが不思議だ。
「ね、ねえ、クロ。本当に大丈夫なんだよね、番人っていうからには強いんじゃないの?」
「おし。じゃあ、行くか。論より証拠!百聞は一見に如かず!」
えいえいお。なんてまだ戦ってもいないのに勝鬨を上げ始めたクロの後ろを大慌てで着いて行く。魔女の呪いは、9つだけではなく世界中に散らばっているのだという。たくさんありすぎていったいいくつあるのかもわからないらしいけれど、クロは近くまで来ればどこに呪いがあるのかがわかると言っていた。匂いとか、電波とか、そんな感じで。
入る前からわかっていたけれど、やはり森の中は全くと言っていいほど光りが差し込まない。そのうえ、どう見ても普通の森には生えていないような見た目の植物がうようよとしていて私は必死に小走りでクロの後を追いかける。
これ、はぐれたら私は死ぬ予感がする。
「・・・おっと、これは、・・おい、ご主人さま?・・・ゆき!!」
前方で巨大な何かが動くのが見えた。ちょっと、疲れて遅れ気味だった私をクロは慌てて振り向いて暗闇の中で探しているようだった。暗くて遠くて顔は見えない。でも、声は、なんだかすごく必死だ。
何か不測の事態でも起きたのだろうか。
「クロ?ここだよ、こっち。」「っ!!!」
場所を教えてあげようと手を振って名前を大きめの声で呼べば、クロは弾かれたように顔をこっちに向けた。表情は見えないのに、クロが息を詰めたのが聞こえた気がした。
どうしたの、そう問いかける前にクロの後ろ、つまり私の前にあった巨大な影がぴたりと動きを止めた。あれ、何で止まったの。そう口に出す前に、ぎゅうっと何かふわふわしたものに抱きしめられ身体が宙に飛び出した。
「く、クロ?なに、どうし、「口閉じてろ、舌噛むぞ。」
すぐ横に真っ黒な毛があってもうすっかり鼻に馴染んだクロの匂いがして、私は全てを把握しきれない。まるで風を切るように走るクロは何かを避けるように、右に左に上に下に。
正直、酔いそうだ。ジェットコースターは苦手です。ちなみに、3Dもダメ。酔う。
「っと、やべえ。だめだな、こりゃ。」
「も、しゃべ、って、い?うう、吐き、そ。」
「あぁ、悪いな。ご主人さま、ちょっと俺の後ろで吐いてろ。」
ちゃっちゃと片付けちまうから。クロは低い声でそう呟くと私を地面に降ろした。くらくらとまだ地面が浮いている感覚がする。やばい、吐きそう。でも、今朝はそんなに食べてないから、なんかクロが取ってきたリンゴみたいなオレンジみたいな果物しか食べてないから。なんてよくわからないことを考えながら、クロに手を引かれるままその背中に回る。
「うう、異世界にきてゲロ吐くとか、ないわあ。」
深く息を吸って、深呼吸。何度か繰り返しているといつの間にかクロがいなくなっていた。けど、まあ、声は近くから聞こえているから大丈夫でしょ。なんか戦っているみたいな肉と肉がぶつかる音がするけど、大丈夫でしょ。それより、私が吐くかどうかの方が先決問題だ。吸って吐いて吸って吐いて試しにちょっとしゃがんでみたりする。
「大丈夫か、ご主人さまが弱いこと忘れてたぜ。」
戻ってきたらしいクロがそのふわふわの大きな手で私の背中を擦る。ほどよい柔らかさとしっとりとした温かさが心地よく吸い取られるように具合が良くなる。
「あ、なんか少し楽になってきた。ありがと、クロ。あと、そういえば、さっきのはなんだったんですかね?」
しゃがんだまま、私の横に膝を折っているクロ越しに向こうを見れば、やはり暗闇の中に何やら巨大なものが動かなくなっている。もしかしなくても、私が吐き気と戦っている間に戦闘を開始して終了したんだろうか。クロはといえば、さっきとちっとも変わらない姿で心配そうに私の背中を撫でてくれている。
「さあな。けど、血の匂いがしたし、お前のことを狙ってたみたいだから、肉食の何かだったんだろう。ここは普通は人が来ないからお前にとっては危険地帯だな。運んでやってもいいけど、また具合悪くなると困るから・・・よし、俺様の尻尾を掴め。それなら、はぐれないだろ?」
「え、・・・・え、でも、そうしたら、力が抜けるとかそういったことは?」
「なんだそれ。どこの超人サルだよ。平気だっての、ちょっと痛いだけだ。」
「マゾ。」「お前、あの植物に食わすぞ。」
言いながら、クロは背中を撫でていた方と反対の手で私の腕を引いた。引かれるままに足に力を入れる。大丈夫、立てる。吐き気ももう収まっていた。
言われたとおりにクロの文字通り黒い長い尻尾を緩く握ってみる。ふわふわの触感は昔外で触ったススキの先端に似ている。だけど、あれよりも柔らかくしなやかだ。てっきりもっとぼさぼさなのかと思っていたのに、思いのほかの滑らかさに指先を動かして毛を撫でる。
「なんか、気持ちいね。クロの尻尾。ふわふわ。」
「お前、本当に俺の尻尾好きだな。何がそんなに気に入るんだか。」
「ん?」
「おし。ほら、行くぞ。ぐずぐずしてっと他のが集まってくる。」
懐かしそうに照れたように言われた言葉に一瞬、何か引っかかりを感じて首を傾げる。何が気になったのか考えるのを邪魔するようにクロは足早に歩き始めてしまう。歩きながら、考え事ができるほど私はこの場所に慣れていない。あっという間に思考は中断して歩くことに集中する。目の前を歩く真っ黒な背中を、ただじっと一心に見つめていた。
「クロ、なんだかますますあたりが暗くなってきた気がするんだけど。」
「お、よくわかったな。どうやら、夜になってきたみたいだ。こりゃ、この森の中で野宿するしかねえな。」
ええ、マジか。クロが前を向いているのを良い事に私の眉が口が顔の中心に寄る。こんな暗い、しかもなんかよくわからない肉食の生き物がいる森の中で安心して眠れるはずなんてなくないですか。なくなくないですか。
「私に明日は来るのでしょうか。」
「来るだろ。俺様がついてるんだから。」
「何その自信。どっから誰が持ってきてくれるの。半分分けてよ、欲しいわ、その自信。」
クロがちゃんと戦っているところを私は見たことがない。だけど、最初に会ったときと今回のと、どちらも全く怪我をすることなく勝利を収めているところを見るとひょっとするとそれなりに強いんではないかと思ってはいる。
だけど、それとこの森での野宿については話は別だ。
「とりあえず、どっか開けた場所に出るまで歩くか。食い物も欲しいな。腹減った。」
「あぁ、確かに。そういえば、今朝の果物ならあるよ。」
真っ暗で木に隠れて見えもしない空に向かって叫んだ言葉を聞いて、だいぶ忘れかけていたことを思い出す。最初に絡まれたおじさんが持っていた荷物から小ぶりな鞄をクロが、クロが(大事なことなので二回言っておく)拝借したのをなんとなく私が借りていた。というか、クロは身体に何かをかけるのを嫌ったから私が持つ羽目になっただけ。
まるで幼稚園の頃に使っていた鞄のようにペラペラの布を袋状にしたものに同じように布で蓋をしただけの単純な作りのそれを開いて中から無造作に入れられていた果物を取り出す。オレンジのように硬い皮をしたリンゴのような形の果物。今朝、食べるのにとても苦戦したのは言うまでもない。
「お、なんだ、ご主人さま、気が利くじゃん。ちょーだい、ちょーだい。今は、こんなんでもありがたい。」
「はい。あと、もう一個あるから。」
「そういや、他にも何か入ってたよな。ちょっと、見せろ。」
差し出した果物を受け取りついでに、クロは首をにゅうっと伸ばして開いていた鞄を覗き込む。私の知っているものに似ている道具もあれば、全く知らない見たこともない何かも入っている鞄をクロはしばらく、ふんふんと言いながら物色していたけれどやがて興味がなくなったのか、中身を全て把握したのか、手に持っていた果物を食べるのに集中し始めた。
この世界の物には名前がないらしい。らしい、というのはクロの説明を自分なりに咀嚼したことなので本当なのかはわからないからであるが。とにかく、この世界は本当に多種多様にそして自由自在に交配と荒廃を繰り返しているため、最早その種に対する名前をつけることを放棄してしまったのだそうだ。その結果、身内で通じる呼び名はあるものの、この世界共通の呼称があるものはなくなった。
だけど、それでは不便なので私はやることのない旅のその場しのぎの暇つぶしに見たものに名前をつけてみたりをしている。ちなみに、今、クロが食べている果物にはリンゴオレンジと名前をつけた。そのまんまです、特に思いつかなかったんだもん。
クロは器用に歯で硬い皮を食いちぎって中の果肉を食べている。ちなみに、中の果肉はリンゴよりもオレンジに近い。いや、色合い的にはグレープフルーツかな。そんなことを思いながら、鞄を閉じて左右に揺れるクロの尻尾をはっしと捕まえる。
「おいしい?それ。」
「お前も、食う?」
「いや、ちょっとでいいや。」
今朝食べたけど、なんとも言えないその味と見た目のギャップに私の脳と舌が完全にパニックになったことは言うまでもない。リンゴ食ってんのか、オレンジ食ってんのか。マジで混乱すると味覚って案外あっさり狂うんですね。私、知らなかった。だから、たぶん、赤身にマヨネーズとかにんじんにはちみつとかってそういうことなんだよ。試したことないけど、試せばよかったな。ひょっとしたら、本当にそうだったかもしれない。
「村に入れれば、もうちょっとマシなもんが食えるかなあ。けど、お前にとってのマシなもんかどうかわかんねえからなあ。」
クロはクロなりに心配してくれているようだ。クロ一人ならば、ひょっとしたらあの肉食の何か、(とりあえず、森の肉食植と名づけよう。)だって食べたのかもしれない。そう考えるととても申し訳がないけれど、こればっかりは生理現象なんだから仕方ない。
「別に、大丈夫だよ。水分はちゃんと飲んでるから。」
鞄の脇にぶら下がっていた筒状の入れ物(昔話に出てくる竹で出来た水筒に似ている。)には、どうやら飲み物っぽい液体が入っていた。クロが毒見をした結果、おそらく何か高級な滋養強壮の汁であることは確認された。確かに飲んだ感じが蜂蜜レモンに似ていた。これは、美味しいと思ったのだが、名前も作り方もわからないから大事に飲んでいる。
「ま、とりあえず、ここの森の番人を倒してから、村に降りた方がいいだろ。感謝されてお礼とかされるかもしれないし。」
「はは、邪まだなあ、考え方が。」
「いいんだよ、それくらいの方が。・・・おし、今日はここらで寝るか。念のため、火でも起すか。火打石入ってたよな?」
話している間にたどり着いた少し開けた場所に、クロは食べ終わったリンゴオレンジの皮をぽーいと投げ捨てた。虫、だろうか、何か小さい生き物がざわざわと逃げて行ったのが開けた木々の間から差し込んだ光で見えた。
出来れば、見たくなかったその光景が私の背筋をゾクリとさせたのは言うまでもない。
鞄の中から出した火打石をカチカチとしてクロは器用に火をつけた。私は、クロの目の届く範囲を探検しながら薪になりそうな木とか葉っぱっぽいものを集めた。素手で触るのは危ないと言われたので幸いにも鞄に入っていた手袋(しかし、ポイントとしては5本指用ではなく子どもの頃に使っていた雪手袋のように2本指用のであったこと)をつけて慎重に採集と観察を繰り返した。
本当に、何もかもが自分のいた世界と違いすぎて逆に夢を見ているのではないだろうか。と思ってしまう。このまま、クロの上で眠って目を覚ましたら、元の家にいるのではないだろうか、と、思う。
びゅん、明らかに危ない音をたてて私の脇を森の番人の蔓が通過した。
「うわ。」「ち、ご主人さま、危ないからもっと下がってろ。あ、けど、俺様に見える範囲でな。」
なにそれ、どこよ。わかりやすく範囲を指定してよ。だいたい、突然、戦闘を始めた時点で私どうしていいかわからないでしょうが。よくやってたゲームでいうところの、突然敵が現れた。状態でしょ。
うねうねと動くどう見ても、怪しい植物のような大きなイソギンチャクのような生き物が視界に飛び込んできたのはついさっき。これは、なんだろうねえ。なんて思っていた私に、
「あ、これ、これが魔女の呪いだわ。」
なんてあっさりとした報告をクロがしたと思ったら、イソギンチャクの触手がうにょーんと伸びてきた。それをまるで蚊でも払うかのように叩いたクロが、飛び上がるようにジャンプをしてイソギンチャクの奥にある、これまた大きなほら貝に飛び移ろうとしたけれど、見事に伸びてきた触手に足を絡め取られ逆さ吊りです。アンコウの吊るし切りでした。
そんなこんなで私は、吊るされたままのクロに言われたとおりに少し距離をとることにする。けど、どこまで行こうかな。木の間とか安全そうだけど、木が木じゃなかったら怖いしなあ。この石の影とか良いけど、石じゃなかったらやっぱり怖いしなあ。大きな石と見せかけて亀のお化けだったとか漫画でよく見るよね。だったら、嫌だな。
あちこちをくまなく見て回り、点検をする。ちゃんと真剣にやらないと命の危険があるからね。
「あ、あそこはどうだろ。ちょっと、地面が窪んでて身体を潜められないだろうか。」
視力が悪いとこういうとき、困るよね。近くまで行かないとわからないもの。なんて誰のせいにも出来ない愚痴を零しながら窪んでいる地面の点検。ふむふむ、大丈夫そうだな。そう思ってそっと窪地にしゃがみ込もうとした。私の上に何者かの気配と地面に影が、
「なに、お前、うんち?なら、俺、あっち行ってるから、終わったら呼べ。」
「・・・違うよ。」
なんで、戦闘中にトイレしなくちゃいけないんだよ。しかも、こんな戦闘場所のすぐそばとか、どんだけ切羽詰まっているんだっての。そもそもなんだよ。クロが隠れてろって言ったんでしょうがよ。つか、ちょっとさ、倒すの早くね。また、クロが戦ってるところ見逃したよ。どんだけ瞬殺なの、それとも戦っているとこ見られるの恥ずかしいの。どんだけ、照れ屋なの。
「なんだ、違うのか。あ、あれ、倒したから。」
「そりゃ、どうもお疲れさまでした。」
「・・なに、なんか怒ってる?」
「べーつに。」
しゃがんだばかりの足をまた、伸ばして立ち上がる。クロは、不思議そうな顔をして腰を曲げて私を覗き込む。いや、怒ってないですよ。ええ、全く怒ってはいませんよ。ふいとクロから顔を背けると、無残に横たわり所々ちぎれたみたいになっているイソギンチャクが目に入る。なんというか、グロテスクではないけれど、エグイ。だって、なんかまだ、触手とかビクビクしているし。倒れたことで見えるようになった、頭の上みたいな場所にある口から体液みたいなのデロデロ出てきているし。
「あんま、見ない方がいいだろ。放っておけば、呪いが解けてあれもなくなる。」
視界が真っ黒な何かで覆われる。瞼に触れたぷにとした柔らかい感触でなんとなくクロの手だとわかる。クロの手は大きすぎるから、ふわふわの毛が私の口元を掠めてなんだかくすぐったい。それでも、クロのぶきっちょな優しさが垣間見えてなんだか、嬉しい。
言われたとおり、しばらく黙ってクロに後ろから抱きしめられているみたいな格好で目隠しをされていたけれど、だんだんと飽きてきた。しかも、なんか気のせいだと思いたいけど、頭を誰かに嗅がれている気がする。いや、気のせいだと思うけど。
「クロ、もういいでしょ。なくなったでしょ。」
「んー・・あと、もうちょい。」
「・・ちょっと、匂い嗅ぐのやめてよ。くすぐったい。くすぐったい。」
逃げるように捩った身体が、驚くほどすんなりとクロから離れた。それに違和感を感じて視線を合わせると実に愉快そうに笑うクロと目があった。しゅっとした顎が、くいと上を指す。俗にいう顎で指すという行為だが、されたのは初めてだ。戸惑いながらも指された通りに空を見る。
シャボン玉だ。一瞬、そう思った。たくさんのシャボン玉が、ふわふわと灰色の空に向かって飛んでいく。七色に光るそれは、次々と沸いてくる。どこから来るのかと、目だけで追うと、それはさっきまで倒れていたイソギンチャクの身体からだった。まるで溶けるように淡くくすんでそこから泡になっていく。泡になってどこまでも美しい色をした光りが、優しく輝く。
「皮肉だろ。魔女の呪いが解けるときが、この世界で一番綺麗な瞬間なんだ。でも、魔女は自分では呪いを解くことが出来ない。だから、あいつはこうして誰かが解いてくれるのをじっと、待っている。この瞬間を見るためだけに、な。」
クロの言葉は、どこまでも静かで魔女に対する憐れみも、憎しみも、怒りも、感じられなかった。だからこそ、どこまでも美しいこの光景が、なぜか涙がでるほどに悲しく見えた。
「・・・・あれ、」「おっと、そうだった。これを忘れちゃ意味なかったぜ。」
イソギンチャクが全て消えた場所に、一粒取り残されたように光りが落ちていた。軽やかにそれを拾ってきたクロは、私の手にそのビー玉のような取り残された光りを乗せた。ビー玉か。そういや、久しぶりに触った気がする。もう、こんな歳でビー玉遊びとかしないもんなあ。こんな歳、って言ってもそういや、まだ二十歳ですから。ビー玉遊びくらいには興じてもいいんでないかしら。なんてね。
「なにこれ。ビー玉?」
「違う。これが、魔女の呪いを解いたって証拠になるんだよ。すっげー貴重なモンだから、絶対に失くすなよ。あと、無闇に外に出すな。鞄のどっか奥に入れとけ。」
「ふーん、わかった。奥に入れとく。・・・確か、鞄の中に小物入れみたいなのがあったから。・・ええっと、」
ごそごそと、小物いれを探す私の頭を、なぜかクロの大きな手がふにふにと撫でた。
呪われていた森は、呪いが解けると以外にあっさりと抜け出せた。森の番人がいなくなると、外の匂いが強くなるから方向がわかるんだ。とか、クロは言っていたけどちょっとよくわからないので適当に頷いていた。
森を抜けた先には、小高い山がいくつか連なっていた。よくわからないけれど、どうやら私たちが超えてきた森もちょっとした山だったのかもしれない。いや、でも、違うかな。
「お、見ろ。ご主人さま。あそこに、家があるぞ。誰か住んでるかな。」
「あ、本当だ。なんとなーく・・・それっぽいのが、見える。」
「あそこまで降りたら、ちょっと食い物とかもらえるかもなあ。」
なんだかんだ言って私たちは、腹ペコだ。私が持っていたリンゴオレンジも、もうあと一個しかないままだし。蜂蜜レモンみたいな飲み物はもうほとんどない。
「でも、あそこまで降りるのに時間かかりそうだね。」
「まあな。けど、呪われた森も抜けたし、あとはその辺にあるもの食ったって死にやしない。ほら、水も、あそこにある。」
言いながら、クロが指差した先には確かに川が流れていた。チョロチョロと静かな音を立てながら流れる川は透き通っていて中を泳ぐ魚らしき生き物が見えた。
「あ、魚だ。クロ、クロ、これは食べられないの?」
「ん?あぁ、食えるけど、味がなあ。あんまり美味しくない。ちょっと、待ってろ。俺が、旨いのを見つけて獲ってやる。」
クロは言うと、すぐに川に飛び込んだ。本当に何のためらいもなく準備もなく飛び込むものだから、私は何のガードも出来ずにクロが立てた水飛沫を頭から受け止めた。
「・・・・冷たい。」
びっしょりと濡れた自分の服をしみじみと見つめて私はようやく何日も身体を洗っていないことに気がついた。そんなに長い日数ではないにしても、やはり気づいてしまうと臭いような汚いように思えてしまう。目の前で楽しそうに全身を川に投げ出しながら魚を追うクロは、当たり前だけどそのままで今さらだけど、あれは裸だったのだろうか、と、思ってしまう。だとしたら、かなり色々と拙いだろうなあ。なんて思いながらもだとしてもどうしようもないから考えなかったことにした。
「ま、こんなもんだろ。」
しばらく川で水浴びにしか見えない遊びに没頭していたクロはいつの間に獲ったのか、大きな魚(だけど、ちょっと足っぽいのが生えている)を何匹か抱えていた。どうせ、このまま野宿になるんであろうとここ数日で学習した私は、森の出口付近で拾えそうな薪を集めて火を起す準備をしておいた。
「・・・え、っと、これは・・・」
しかしながら、如何せんチャッカマン世代には火打石なんて代物を扱える知識はなかった。だいたい薪は集めたけど、このまま火をつけたって絶対点かない自信がある。たぶん、前にテレビでキャンプの映像見たときはこの周りに石とか置いてたし。この前、クロが火をつけてたときにちゃんと見ておけばよかったなあ。失敗した。
「貸せ。お前はなんもするな。危ないから。」
クロは大げさにそう言うと、ずいと私を薪から放して傍にあった石に座らせた。クロが火をつけて魚を焼いている背中を見ながら、私はこのままでは役立たずになってしまうと危機を感じた。今まで忘れてたけど、私この世界ではクロ以外と会話できないし。クロがいなくなったらヤバイんでないだろうか。
「・・・色々覚えなきゃだな。受け身でいてはいかんだろ。」
小さく決意を呟くと同時にクロが整えた焚き火がパチンと爆ぜた。
やはり、こうなるのか。わかってはいたけど、認めたくなかった現実が今夜も目の前にある。
「おら、ご主人さま。もう、寝るぞ。」
おいでおいで、ともうだいぶ見慣れたクロの招き猫(寝姿バージョン)を見つめながら、ノロノロと最早ベッドになりつつある黒いモコモコに寄って行く。結局のところ、ここに来てからの数日間は私はクロの上で寝ている。いや、でも、以外に寝心地良いのよ。本当にびっくりするぐらいにね。
「あー・・・なんか、あれだね。この世界でクロ以外のちゃんとした生き物にあったことないからだけど、まともな生き物はクロしかいないように思えるよ。」
「なんだそれ。あの村に降りたら会えるって。どんな奴かは知らないけど。あ、そうしたら、あれだな。服も変えるべきだな。その服じゃ、たぶん目立つぞ。」
「・・・ああ、そういえば最初に会ったおじさんたち、こういう服じゃなかったね。なんか、こう、教科書に出て来た昔の人みたいな服装だった。」
「あの村が善意的な村だといいけど。そうじゃなかったら、ちょっとお願いしないとだな。」
「お願いとか言いながら、乱暴な匂いしかしませんが、クロさん。」
ニヒヒと笑うとクロは、腕が鳴るぜ。と言った。なにそれ、戦う予感しかしないんだけど。
「安心しろって、俺様は強いから。絶対にお前を守ってやるよ。」
高らかに言われた言葉に、胸のどこかが不安を感じる。
クロはどうしてそこまでして私のためにしてくれるのだろうか。自分でも、いったい私がなんのためにこうしてここにいるのか、全くわからない私のことを。絶対的な自信で助けてくれる人(正しく言うと人ではないのだけど。)この人のことをもっと知りたい。
「・・・クロ、クロは・・・なんでもない。おやすみ。」
聞くのが怖い。聞いてしまうことが、とても怖い。なぜか、そう感じて私はなんでもないふりをして目を閉じた。ドクドクと聞こえる心臓の音を、そっと意識だけで追いかける。 クロはいったい、何者なんだろう。
黙々と下ってきた後ろを見つめ、このときばかりはスニーカーでよかった。と思った。どう考えても山道だろう道中を思い出しながら、もしこれが万が一でもローファーとかだったら危うく危ういところだったなあ。なんてしみじみ感激していた私に、クロまでもしみじみと呟くのだった。
「お前、あの村に行ったら、靴も変えないとだめだな。俺は履かないからすっかり忘れてたけど、その靴が一番目立つぞ。」
「マジで。マジでか。なにそれ、悲しい。」
思い出があるのかないのか、記憶が曖昧な私にはわからないけど、ここ数日ですっかりと愛着が沸いてしまっているスニーカーとお別れなんてそんな殺生な。
「ま、靴売りがいればの話だけどな。あのくらいの集落じゃあせいぜいお古の服をもらえる程度だな。」
「クロ以外の人と初めて会う。ヤバイ、なんかすっごいドキドキしてきた。」
「あんま期待すんな。だいたいは、俺と同じだから。あ、あと、お前、村人の前では無闇にしゃべるなよ。」
「・・・え、なんで?」
「色々詮索されると面倒だから。」
言ってることが、よくわからずに首を傾げるとクロは心底めんどくさそうにフンと鼻を鳴らしてほとんど叩くように私の頭を撫でた。それから逃げるように、クロから距離を取る。
じゃれるようにして辿りついた村は、特に囲いも門もなくてどこが入り口なのかわからない。そして、最初は視力のせいかと思っていたけど、どう見ても村の中にいる人に耳が生えている。いや、普通に耳は生えているんだけど、違うの。なんかね、なんていうのかな。宇宙人とか妖精とか、そういう類の人に生えている尖がり耳なのよ。しかも、しかもね、老若男女問わず着いてるの。
「うおー・・妖精耳出たー。」
「お前、とり頭か。ここに来る前に言ったこと、もう忘れたのか。馬鹿。」
「な!そ、そこまで言わなくても!!!」
突然の暴言に驚きと戸惑いに口をパクパクとしていると、どこからか若いおじさんが何人かの村人を連れてやってきた。若いおじさんといのは、矛盾しているけれど何しろおじさんは顔の半分が隠れるくらいの仮面を被っているから年齢がわからない。けど、たぶん、なんとなくおじさんじゃないかなああ。
『我々の村に、何か用だろうか。』
おじさんだ。確信できるほど、渋い声が静かに言った。なんて言ってるか、全くわからないけどね。おじさんの隣りにいた綺麗な女の子が不安そうに私とクロを交互に見ている。可愛い。狐耳と狐尻尾生えてる。可愛い。可愛い。
『いや、突然悪いな。少し休ませて欲しいんだ。あの山を降りてきたばっかりで疲れちまってな。』
『あの山を!?お二人で?そんな、だってあの森には、』
何を話してるのかわからんけど、クロの言葉は何か狐の女の子たちを驚かせたようだ。仮面のおじさんも、信じられないものを見るみたいに私とクロを見る。心地悪くてクロを見上げるけど、クロはちっとも私を見ようとはせずに何かを探るように村人たちを見ている。
『何かあったか?俺にはわからなかったが。とにかく、休ませてほしい。それと、服もほしい。こいつに着せるのをいくつか。』
『・・・見たところ、人間のようだが。見たことのない衣服だ。まさか、本物か?』
暇なので足元の砂を蹴っていた私の背中をずいとクロが押した。思いもよらず、私は一歩前に出されてしまう。目の前で仮面のおじさんと狐尻尾の女の子が、じーっと私を見ている。え、なに、今、何の話をしていたの。聞いてもわかんないから、聞いてなかった。
『さあな。山の入り口でぶっ倒れていた人買いのそばにいたから、拾った。俺様、優しいから放っておけなくてね。そういうあんただって、仮面族というよりは人間に近いように見えるな。』
『長、やっぱりこの人たち、怪しいです。』
狐尻尾ちゃんの目が険しい色をして私を睨んだ。話が全くわからずに、驚かれたり、警戒されたりってのはだいぶ気分が悪いな。そんなことを思ったのが顔に出ていたのか、狐尻尾ちゃんは訝しい目をして私を見た。言い訳しようと口を開いてみたけど、クロに言われた言葉を思い出して何も言えずに、また、閉じた。どうしよう、困ったな。他人に言葉を使わずに意志を伝えるって難しい。途方に暮れてため息を吐く。お腹も鳴る。恥ずかしい。
『何が勘に触ったのかは知らないけど、俺は別にあんたが仮面族だろうと人間だろうと関係ない。とにかくこいつのこの目立つ格好と長々山を越えてきた疲れさえなんとかしたいだけ。』
『そうだな。彼女が本当に人買いに買われた人間なら、私も半分同じ血を持つものとして助けないわけにはいくまい。』
『長!』
狐尻尾ちゃんが何事かを短く叫んだ声に驚いて顔を上げると、見計らったように仮面のおじさんと目が合った。あ、目は仮面に穴が空いていて見えるようになっているのね。視力良くないから色まではわからないけど、そこに目があることはわかるのね。
『私も、この姿のせいでたくさんの場所を転々としてきた。この村にたどり着かなければ、今だってそうだったかもしれない。だから、私はこの人たちの辛さはわかるつもりだ。だから、エリー。君が私を心配してくれる気持ちもありがたいが、どうか一つお願いしたい。』
すっと、仮面のおじさんの腕が伸びてきた。クロの身体が一瞬ピクリと動いたけど、何も言わないので私も何も言わずにただ、おじさんの手が私の頭を撫でるのをされていた。
『長が、そういうのでしたら、私には反対する理由はありません。』
『お!じゃあ、交渉成立だな。よっしゃ。感謝するぜ、仮面族のおっさん。』
何かよくわからんけど、おじさんもクロも笑顔で頷いている。なんかうまくいったのかや。でも、それにしては狐尻尾ちゃんはあんまり嬉しそうではないかな。ちらちらと大きな瞳で私を見ている。どう見ても、見ている。
『では、とりあえず、私の家に来てもらおう。食事と風呂を準備する。』
『あー、ありがたいな。こいつが何食うのかわからなくてほとんど食ってないんだ。これでちょっとは元気になるだろ。』
『え、そうなんですか?じゃあ、この子、そんな状態で山を越えたの?』
クロが背中を押す。おじさんと狐尻尾ちゃんが歩き出す。とりあえず、どっかに移動するみたいなので私も背中を押されるままに歩くことにした。時々、何事かを言いながら、二人はこっちを振り向くから私も何かを言わなくちゃいけないのかと思うけど、何も言えないから黙っている。
そうして通された家(よく教科書とか、あと家の近くにあった博物館にあるような昔の茅葺屋根の大きなお家だった。)の奥座敷っぽい部屋で私とクロと置いてかれた。もう、喋ってもいいだろうか。そんな思いを込めてクロを見やると、すんすんと匂いを嗅いでくるくると耳を注意深く動かした後、長い指を口元に当て、どうぞ。と、いつもよりも潜めた声が言った。これは、小さな声で話せってことか。
「・・・・なにが、どうなったの?」
「ま、とりあえずは飯と風呂と服をくれるとさ。ただ、なーんか色々と触れちゃいけない問題があるみたいだから、長居は無用ってとこだ。」
「ふーん、あのおじさんが一番偉い人?なんで仮面みたいなのつけてたの?」
「あれはまあ、たぶん、仮面族だろ。仮面族は、普通の生き物よりも寿命が長い。昔はそれで迫害されたり、色々あったんだよ。そんでそれを避けるために顔の認識ができないように仮面を被るようになった。仮面を被ってりゃ、どれが誰だかわからんだろ?まあ、今となってはそんな理由は関係なくなったけどな。なにせ、仮面被ってんだから、すぐわかる。そんで人間までではないが、あれも希少種だ。あぁ、ちなみにこの世界の言葉では、」
『仮面族、』
へえ、なんかややこしいな。仮面族。仮面族。脳に教え込むように何回か口に出す。その様子をクロはじーっと存外真剣な顔で観察している。目は、やはり猫のように細い瞳になっている。こういうときのクロはいったい何を思っているのか理解できないから、不思議だ。
「やっぱり、あの人たちの前では喋っちゃだめなのね?」
「まあ、絶対とは言わないが・・・あまり、積極的には喋るな。だいたい、喋ってもわからんだろ。」
「そっか。クロとお話するのもダメなの?」
「あぁ。俺様は、お前の言葉がわからないという設定だ。だから、俺はお前に話しかけられてもわからんふりをする。なぜわかるのかと聞かれると面倒だからな。」
言われてから、そういえば、と思う。今まで何の違和感も抱かずにクロとお喋りしていたけれど。
「なんでなの?」
「何が?」
「なんでクロは私の言葉がわかるの?なんでなの?」
生まれた疑問をそのまま口にすると、クロは困ったように眉を寄せて心地悪そうに視線をそらした。これは、絶対に答えてもらえないパターンだ。
『お待たせしました。お風呂の準備が出来たのですが、どうしますか?』
クロが何かを(絶対にどう誤魔化すかだと確信している。)考えている間に扉の向こうからさっきの狐尻尾ちゃんと思わしき人の声が聞こえてきた。クロはこれ幸いとニカリ笑う。
『あぁ。わかった。こいつを入れてやってくれ。』
急かされるように立たされ、私はあっという間に部屋を出されてしまった。くそう。なんてタイミングの良さだ。まだ、警戒気味の狐尻尾ちゃんの後ろを文字通りふりふり揺れる尻尾が着いたケツを追いかけて長くシンとした廊下を歩く。
『あの、お名前は?あなたは、本当に人間なんですか?』
狐尻尾ちゃんが、振り向いて言う。これ、なんか聞かれているよね。どう考えても、話しかけられたよね。どうしようか、何を言われたんだろ。なんだろうねえ。
「・・・・あ、っと、」
『名前です。名前、ひょっとしてわからないんですか?もしかして、言葉が違うのかしら。』
連呼されているのはおそらく単語であろう。なんだろ、なんて単語なんだろう。困り果てていると、後ろから叫び声に似た無邪気な声が飛んできた。
『お姉ちゃん!!お姉ちゃん!アリも、お風呂はいる!!』
パタパタと軽やかな足音とともに走ってきたのは、狐尻尾ちゃんによく似た小さな女の子だ。たぶん、どうやら姉妹なんではないだろうか。顔も良く似ているし、尻尾とか耳の形も似ている。
『アリナ。だめよ、お客さんが入るんだから。』
『えー。やだ。アリも入る。いいでしょ?』
狐尻尾ちゃんと違って警戒心が全くない表情で私のことを見つめている。なに、これ、聞かれた系なの。答えを求められている系ですか。
『こら、アリナ。』
『ねえ、いいでしょ。アリも一緒に入って。ねえ、ねえ。』
「え、っと、あの、ちょっと、」
小さな体が狐尻尾ちゃんの制止をもろともせずに、私の横に回りこむ。私はといえば、その流れをしどろもどろになりながら眺めるばかりであれほど気をつけていたのにぼろりと口から言葉を零してしまった。
『・・・あなた、ひょっとして言葉が、』
『ねえ、もしかしてお喋りできないの?じゃあ、アリが教えてあげるよ。』
「わ、ちょっ、なに?」
小さな狐尻尾ちゃんは、楽しそうに私の手を取ると、さっき狐尻尾ちゃんが連呼していたと思わしき単語をはっきりとゆっくりと何度も言う。
『アリ、アリ、名前は、アリ、だよ。アリナ。アリナ。』
その後、何かを示すように小さな狐尻尾ちゃんは自分のことを指差して、同じ単語を言う。これは、ひょっとしてもしかしてそういうことだろうか。
『名前、アリ』
『そう!アリだよ。あなたは?あなたの名前は?』
『名前、「えーっと、たぶん、私のを聞かれているんだよな。」名前、ユキ。ユキ。』
あっているだろうか。これで合っているだろうか。目の前の小さな狐尻尾ちゃんの真似をして自分を指差して自己紹介。くりくりとした大きな瞳でじいいっと瞬きをせず私を見る。
『ユキ!ユキ!』
「おお、通じた。通じた。」
笑顔を弾けさせてアリナ(だと思うけど。)が、跳ねる。それにつられるように私もホッと息を吐き出して笑う。しばらく私の名前を言っていたアリナは、次に先を歩いていた狐尻尾ちゃんを指差してまた、さっきと同じように何かを言い始める。
『あれ、あれね、あれは、お姉ちゃんだよ。お姉ちゃん。』
『あれ、おね、ねやん』
『やめてください。違います。私の名前は、エリナです。エリナ、エリナです。』
狐尻尾ちゃんは、困ったように笑うとそう言った。たぶん、最初に呼んだのは愛称みたいなのだったんだ。本名は、違うんだ。なるほど、その可能性には言及しなかった。
「え、え、『エリナ、』で、あってる?」
『そうです。エリナです。』
エリナ、というらしい狐尻尾ちゃんはほんの少しだけ警戒を緩めてくれたのか、微笑んでくれた。初めて見た、笑ったとこ、なにそれ、可愛い。
その後は、想像に容易いくらいにわかりやすい流れで私はアリちゃんに懐かれ珍しいおもちゃか何かのようにずっとお風呂でも、その後のご飯でも、言葉の練習をさせられた。別に覚えて困ることもないし、会話内容がわからないからクロと仮面族の人とのお喋りに入ることも出来ないから、抵抗もせずに教わるままに覚えていく。
「あー・・『みず、ごはん、おいしい。うれしい。』どれも見たことないけど。」
ござだと思われる布の上に並べられた料理(だと、思うもの)は、なにやら見たこともない料理でひょっとしたら、前にテレビで見たなんちょらの車窓から的な番組で見たことがあるように思う。雰囲気が似ている。おにぎりみたいなのもあるな。けど、味噌汁はないな。何やら不揃いに切られた野菜だと思われる原色形の何かにホワイトソースに似た白いまったりとした汁がかかっているのはある。あれは、お味噌汁だろうか。
『おいしいね。ユキ、これも食べる。』
『食べる。食べる。』
次々に小さい小皿に入れられた食べ物をアリが進めてくる。それをほとんど挑むように口に入れながら、私はなぜかだんだんと気分が優れなくなっていく。聞き覚えのない言葉が飛び交って食べ物なのかもわからない物を口に入れられる。ぐるぐると回るような感覚にひょっとして熱でもあるんではないかと。
『では、そんなところまで魔女の呪いが、来ているというのか。だが、近々討伐隊が出ると聞いている。あの山を越えた麓にある大きな町ではもう殆ど魔女の呪いを見たものはいないというが。』
『まさか、そんなはずないだろ。いや、待て。もしかしてもう呪われているんじゃないか。だとすれば、自分たちが呪われている感覚はない。』
『なるほど。ありえるな。それにしても、長生きはするものだな。まさか、この目で純粋な混じりけのない人間を見ることができるとは。もう、一番賑わっている都ですら、半分混じっていても人間として売り出せるほどだ。私が今まで見た中で一番元のに近いのは、私だったよ。』
『そうだなあ、今じゃ本物の人間が見たけりゃ北の北。最北の最果ての地に行くしかないって話だ。たぶん、あいつもそっから来たんだろうさ。だから、言葉も通じない。アッチの言葉はこっちのとは違う。』
『なるほどな、それなら納得行くが・・・現実的ではないな。果たしてアッチからこっちに来たがる人間がいるか。いたとして、無傷であの川を超えてくることができるか。』
『・・・そんな探るような眼で言われても、俺は何も知らん。たまたま、道に落ちてたから、拾った。そんだけだ。』
『ふふ、そうか。とにかく彼女を連れて歩くのは危険ではないか?今では、どの地域でも人間は希少だ。言葉もわからないうえに、あんな無防備では、いずれ命を落とすことになるぞ。』
『かもな。でも、それでも、一緒に行かなくちゃいけないんだよ。』
『・・・なぜ?』
『さあな。もう、忘れちまったよ。なんでこんなこと、続けてんだか、さ。』
ごくり。とどめのように飲み干した甘い汁が喉を通過した瞬間、まるでぶっつりと糸を切ったような音が脳だと思われる場所で、した。
ばたん。そんな派手な音がしたと思ったら、目の届く範囲に座らせておいた小さな体が見えなくなった。
「・・・・ユキ?」
違和感に逆らうように名前を呼ぶ。時間がゆっくりと流れるように狐族の娘たちが動く。
「ユキ!?ユキ!!おねえちゃん、ユキ、倒れちゃった!!」
「ええ!?あ、ちょっと、ユキさん!」
「どうした?何が、あったんだ。エリ、アリ、」
俺の隣りで仮面族が立ち上がる。ドンドン、ドンドン、誰かが俺の胸を激しく叩く。誰でもない。俺の心臓の音だと気づくまでただじっと流れる世界を見つめていた。
「クロさん!ユキさんをベッドまで運びます、いいですか?」
「ぇ・・・あ、あぁ。俺様が、やる。案内してくれ。」
名前を呼ばれてようやく思考が動き出す。立ち上がって酷く重い身体を引き摺って彼女の傍に歩く。頭と膝に手を入れて持ち上げる。ふわりと香る懐かしい汗の匂いが鼻を擽って愛おしい柔らかさが肌に伝わる。
この小さな姿をどれだけ焦がれるように見つめていたか。この愛しい姿にどれだけ触れていたいと願っていたか。
「熱がありますね。アリが何かを食べさせたのかしら。でも、あそこに並んでいたのは人間が食べても大丈夫なものだし。クロさん、これまで彼女が食べたり、飲んだりしていたものは何だか覚えていますか?」
「食べものは俺も注意していた。どの地域でも取れる果物と魚しか与えてない。さっきの皿にも乗っていたやつだ。・・・飲み物は、盗賊から盗んだ水筒に入っていた栄養酒みたいなのしか飲んでなかった。」
細心の注意を払ったはずだ。注意深く思い出しながら、これまでの食事を告げると狐族の娘の表情がわずかに曇った。
「水筒に入った栄養酒、だけですか?本当に?・・・だとしたら、脱水症状かもしれない。人間は私たちよりも水を必要とします。水分がなくなると死んでしまうこともあるんです。水筒だけとなると一日だって足りないくらいなんです。」
「おねえちゃん、ユキは?ユキ、死んじゃうの?」
「大丈夫。幸い私は薬師です。できるだけのことはしてみるわ。」
うろたえる、頭の中が戸惑いでいっぱいになる。視線だけをずらしてベッドに横たわる彼女を見れば、いつも不安気に揺れていた瞳は何かに耐えるようにきゅっと閉じられそれにつられるように眉も苦しげに寄っている。薄く開いた唇からは、浅い呼吸が辛そうに時折言葉にならない声とともに漏れる。
「言えよ、ユキ。そういうときは、言ってくれ。」
呟いた言葉が、消えないうちにその跳ねたがる髪を撫でてやる。もっと、ちゃんと見ておいてやればよかった。もっと、ちゃんと気づいてやればよかった。どうして、どうして、いつもうまくいかない。どうしてこんなにうまくいかない。
「とりあえず、外で待っていてください。何かあれば、お呼びします。」
「わかった。エリ、頼むよ。私たちに出来ることがあれば、言ってくれ。さあ、アリ。お前は、私たちと一緒に外で待っているんだ。」
「・・・うん。ユキ、早く良くなってね。」
仮面族に背中を押されるように部屋の外に出ながら、胸の中に渦巻く感情の吐け口を捜して何度もため息を点いた。
きっかけはなんだったか、始まりはなんだったか。そんなことはとうに見えないほどに暗い闇の中でそれでも彼女だけは光りなんだと信じていた。
「あまり、気を落とすな。大丈夫、エリは優秀な薬師だ。」
「人間は、脆い。わかっていたはずなのに、」
見過ごした。見落とした。小さな分岐点だって見逃さないようにしていたはずなのに。もう、チャンスは残り少ないというのに。
悔やむように握りしめた拳が、自分の爪で破れた。手の平を流れる赤を見つめながら、不意に冷静になっていくのを感じた。
「手、ネコさん、手から血、出てる。」
「あぁ。平気だ。それより、あいつが起きたときのために色々と旅支度を揃えたい。手伝ってくれるか?長どの。」
「それは構わないが。やはり、連れて歩くんだな。あの子を。」
心配そうに覗き込んでくる小さいのを血の出てない方の手で撫でてやりながら、仮面族に尋ねると、呆れたようなそれでいて嬉しそうな笑顔が返ってきた。
眩しい。真っ暗な闇の中で何か激しい光りが走った。途端に身体に激痛が走る。痛みで呼吸が出来ない。早回しで映画を見ているように様々な思い出が駆け巡る。あぁ、これが、きっと走馬灯なんだ。私は、こんなにもカラフルな人生を歩んでいたのに。まだ、ここからカラフルな未来が続いていると思っていたのに。あぁ、どうして。遠ざかっていく世界に縋りつくように手を、伸ばした。
全力で具合が悪い。見たこともない天井を見つめながら、はっきりとそう確信した。そもそも、今、見ている随分と高いところにある葉っぱだか木だかわからんような物で作られたそれを天井と認識して良いものかということをしばらく考えたけれど、やはりそれは天井以外の何者でもなくてしかしながら、今大事なことはそんなことではなくて。
「ぐう、具合悪い。」
その一言に尽きるわけである。ふわふわと漂っていたらしい眠りの海から無理矢理引き戻されるように覚醒した世界は、いつものベッドでは当然なくてそれどころか少し慣れつつあった羽毛に似た黒い毛をしたクロの上でもなかった。遠くにあるろうそくの火だけが、煌々と光る暗闇。それでも、真っ暗な訳ではないから明け方だろうか。
自分の発した熱で暖かくなった布団に包まれながら、久しぶりにちゃんとした布団に横たわっていること、にも関わらずなぜか非常に寂しいことを実感していた。
「クロ、」
うわ言のように呟いて未だお湯の中にいるような不快な温かさを振り切るように手を伸ばした。
「・・・どした?」
もこり、柔らかい毛が手に触れた。その手が包まれるように握られて低い声が囁くように小さく返事をした。
「クロ、どこにも行かないで。ここにいてね。」
「・・・ぁあ、いる。俺様はずっと、お前の傍にいるから。」
不快な気だるさの中でクロの長い指が、ふわりと額を撫でた。汗のせいかしっとりと濡れていたらしい前髪が掻き分けられてすうっと冷たい空気が感じた。
どうして彼はこうして傍にいてくれるんだろう。どうして彼は私を助けてくれるんだろう。どうして、どうして、聞きたいことはたくさんある。知りたいこともたくさんある。それでも今は、吐息が聞こえるくらい近くにいてくれるだけでいいと思った。刷り込みのように不本意に与えられた好意であったとしても、それは不快ではなかった。
「・・・・・、」
何かを伝えようと開いた口は、大きく一つ息を吸って重くなった瞼とともに閉じてしまった。
どれくらい寝ていたのか、全くわからないけれど。とにかく次に目覚めた時は、あたりはすっかり明るくなっていて気分もすっかり良くなっていた。
「・・・・あれ、」
『あ、気がつきました?具合はどうですか?って言ってもわからないんですよね。』
もぞーっと寝返りを打った先には、心配そうに目尻を下げる狐尻尾ちゃん改めエリさんがいた。何かを心配そうに言っているのだけれど、聞いたことのない言葉ばかりで何を聞かれているのかよくわからない。
『あ、ユキ!ユキ、起きた!大丈夫?大丈夫?どっか痛くない?』
『大丈夫、痛くない。』
こういうときはアリちゃんの方が簡単な言葉を使ってくれるからわかる。覚えたての言葉を駆使して返事を返す。わかり易く声が掠れていた。そういえば、喉がカラカラだ。何かを飲みたい。
「え・・っと、『水、飲む。』
『水?あぁ、喉が渇いたのね。ちょっと待って。起き上がれる?』
『ユキ、起きて座って。お水、飲ませてあげる。』
アリちゃんは私の世話が出来るのが何やらとても楽しいらしく誇らしげな表情で次々と色々としてくれる。まるで小さい頃の弟のようで思わず、その頭を撫でてやる。
あ、今、何気なく思い出したけど、私、歳の離れた弟がいたんだ。
「何やら、自分のことなのに謎がいっぱいだあ。」
お水を飲ませてもらいながら、呟くと二人の看護婦さんが不思議そうにこっちを見た。
アリちゃんに呼ばれてほどなくクロが部屋に入ってきた。私としてはクロは普段と変わらない感じで、喋るな。とか言われるかと思ったのだけど、ベッドに座ってお粥みたいなドロドロご飯を食べている私を見て心底ホッとした後、信じられないくらいの速さで瞬間移動して私を抱きしめた。私はといえば、クロのふわふわとした毛が擽ったいのと、こんなたくさんの人がいるから恥ずかしいのとでなんとも情けなく笑うだけだった。
「全く、心配させやがって。」
耳元で誰にも聞こえないくらいに小さな声がそう言った。
お水をたくさん飲んで飲んで飲んで果物と思わしき食べ物をたくさん食べて食べて食べた。そして、苦い薬もたくさん飲まされ飲まされた。その甲斐があってか、その日の夜にはすっかり回復した。
「じゃあ、丸一日寝てたんだ。しかも、知らないうちにそんなに薬も水も飲まされていたのか。着替えも済まされているし、びっくりしたよ。」
「まあな。それにしても、腕のいい薬師がいて助かったぜ。・・・気づかなくて悪かったな。大丈夫か?っつても、だいぶ顔色も良いから、大丈夫なんだろうけど。」
夜中も近い時分、クロはするりと音もなく部屋に入ってきて、さも当たり前のことのように私が寝ているベッドの端にごろりと寝転んだ。
「ごめんね、心配させちゃって。でも、もう、すっかり大丈夫だから。そもそも、あんまり具合悪いときのこと覚えてないし。」
なぜか、そうするのが当然のようにクロの頭を耳を潰すようにしてぐりぐりと撫でてやると、クロは少しの間ゴロゴロと気持ち良さそうに喉を鳴らしてから、何かに気がついたようにハッと私を見つめた。
「なんか、思い出した、か?」
その言い方があまりにも真剣だったから、私も思わず神妙にううん、と首を振った。クロはまた、何かを探るように私の瞳を猫のような鋭い瞳で見つめていた。
「なに、なんか、変なこと言った?」
「いや、別に。なんでも、ない。」
不安気にクロの瞳が僅かに揺れていた。私も、クロが不安になると何となく不安な気がしてしまうくらいにクロに依存している。だけど、これは仕方ないことだ。この世界で頼れるのは今の所クロしかいないんだから。自分に言い訳するようにそう思ってまた、クロの頭をぐりぐりと撫でた。
村に降りて三日目。昼過ぎまでたっぷりと睡眠を貪った私は、次にお風呂に入れられた。汗をたくさんかいたからかと思ったら、何やらこの辺りの習慣で体調を崩した物はお風呂に入って身を清めて悪い病気を洗い流す、という慣わしがあるらしく。(らしくというのは、まだ脳みそがちゃんと回復していないようで説明を理解しきれていないから)私は、うずうずとしているアリちゃんに見送られながら、一人広い浴室に放り投げられたわけだ。
「広い。そして、広い。共同浴場って言ってたな。そういや、」
前回入ったときにアリちゃんに教わったり、エリちゃんがやっているのを見ていたからなんとなく仕組みは理解できる。それにお風呂でのマナーとかそんな世界で大きく違ったりはしないよね。体洗ったり、湯船に浸かるだけだもん。
「せっけん。粉、なんだっけ。それをこの葉っぱにつけて泡立てて・・たかな。」
お風呂場ににょきにょきと蔦を絡めて生えている、緑と赤の葉っぱはちぎって水に浸けると大きさと柔らかさが倍くらいになる。なにやら、水を吸っているようで最初に入ったときアリちゃんとこれを風呂に大量投入してエリちゃんにすっごく怒られた。
「泡立ちが、すごい。うちの泡たてタオルより、よっぽど、ふわ、」
ごしごしと身体を撫でるように洗う。熱で嫌な汗をかいていたせいか、それともこの石鹸と葉っぱの放つ匂いのせいか、とても気分がさっぱりする。
湯船には、同じく蔦に咲いていた花が浮かんでいる。アリちゃんの説明によると、この体を洗う葉っぱの花は咲くと自然に下に落ちるんだそうでそれが水に入ると甘い香りの汁と、肌に良い成分が入った花粉を出す、そうだ。全部片言会話だったから、たぶん、ちょっと違うんだろうけど、まあ、要するにこんなだった。
見た目的にも、全く違う世界だけど、やっぱり仕組み的にも全然違う世界なんだなあ。と、気分が高揚するような甘い香りを鼻一杯に吸い込みながらちょっぴり考えてみる。今まで、何か反抗意識的な感情からあまり深くは考えないようにしていたけど、こうなってみるともうどうやったって帰れないんだということを確信してしまった。
「ちょっと、やっぱり、真面目に考えないと、だよねえ。」
はあ。吸い込んだ良い香りだけを残して不安と恐怖だけを吐き出すようにため息を吐く。これから先、いったいどうなるんだろう。私は、いったいどうすればいいんだろう。じわじわと滲んできた涙をそのまま放って流れるままにしながら、ぷかぷかと湯船を泳ぐ真っ白い花を見てみた。
日もまだ高くしかしながら、気温は良好。そんな絶好のお出かけ日和に私はまるで着せ替え人形のようにあれやらこれやらを着せられている。
「あ、あの、え、えと、」
『うーん、これはちょっと小さいかな。じゃあ、こっちを着てみてください。』
「これ、を、『着る』のね。」
どうやら、この村の普段着は着物に近い感じの服みたいだ。さっきから、渡される着替えのどれもがおおよそそんな感じのつくりをしている。そして私は着物の着付けなど出来ん。
『ユキ、違う。これは、こっち。』
「こう、か、そんで、こう、だ。」
着物ほど難しくないにはしても、頭からすぽっと着られる便利な洋服に慣れてしまっていると、帯とか袴とか中々に不可解な着付けをしている。年下のアリちゃんに手を取り教えてもらうこと数度目。なんとか、最初のステップを教わるだけであとは自分で着られた。
そのあとも、何着か試着を繰り返している間にクロとエリちゃんは何やら鞄に詰めたり出したりをしてお話中。難しい言葉が飛び交うから、私にはちっともわからない。大事な話だったら、邪魔したら悪いし、後でクロが教えてくれるだろうから、私はとりあえず目下の試練、着付けをマスターすることにした。
『ユキ、違う。こっちじゃない。』
「あ、げ、しまった。間違った。こうだ。」
『違う。』
「え、『違う?』マジか。んじゃあ、こうか。」
いくつか、仕様が違う物があると混乱する。どこを通すといいんだっけ。どこを結べばいいんだっけ。覚えることがありすぎるのに、頭の回転が悪すぎる。
そういや、病み上がりじゃん。ちょっとは労わってくれや。今さら思い出したことを心の中だけで反芻しながら、一度着た着物を脱いで着なおす。目の前にいるアリちゃんはかなり真剣で怖い顔をしている。なんだろう、この鬼の教官は。
『お姉ちゃん、ユキ、いつまで着替えしてるの?』
『え、あぁ、もういいわよ。持っていくのも決まったし。』
『あんまり多くは持っていけないからな。ありがとな、おチビちゃん。ユキをしっかり教育してくれて。』
「なに、なに、なに話してんの。確実に私の話してるでしょ、それくらいはわかるっつの。」
クロが返事を出来ないのを良い事に着付けをしながら、反抗的に対応。クロは何かを言いたげに黒い耳をくるりと動かしたけど、当然何も言わずにぐりぐりと私の頭をなでた。ちょっと力入りすぎてて痛いんですが、剥げそうなんですが。
『ユキ、アリの友だち。だから、お話するの楽しい。』
「ふん?『ともだち』とは?なんぞ?」
首を傾げながら、帯を結ぶと結んだ帯に向けてアリちゃんが飛び込んできた。なんぞ。
遅めの昼ご飯を食べながら、部屋でずいぶんと増えた荷物を見つめていると真っ黒な黒猫人間が入ってきた。
「具合はどうだ?」
「うん。悪くはない。荷物、すごい増えたね。見たことないものがいっぱい。」
「その辺は歩きながら、使うときに説明してやる。荷物をまとめたら、出発するぞ。」
「・・・・へ?」
当たり前のことだけど、このときまで私はすっかりと失念していた。なんだか、ずっとここで暮していくような錯覚を持っていた。クロと二人でまた旅に出るなんてことを、
「なるべくゆっくりは進むが、のんびりはしてられないぜ。仮面族のおっさんから聞いた話によると、魔女の呪いの討伐隊が出ているらしいからな。そいつたちよりも、早く呪いを回収するぞ。」
「あ、う、うん。わかった。」
そうか。そうだよね。すっかり忘れていたけれど、私は元の世界に戻る可能性を探して魔女の呪いを解く旅をしていたんだよね。あまりにも最初の時点で休憩に入っちゃったから、すっかりきっぱりルートを見失っていた。
突然に突きつけられた現実を受け入れられずに、私はのろのろと動きたがらない手で荷物の詰め方をはじめた。増えた荷物もあれば、減った荷物もあってクロ曰くタダというのは座りが悪いから、持っていても使わなさそうな物をあげてその対価として服やら何やらを貰ったそうだ。まあ、確かに商人のおじさんと私とでは使用用具も違うからな。なんて納得しながら、そして一個一個を検分しながら詰めていく。クロはその様子をじっと見てから、出発の挨拶に向かってしまった。挨拶とか、ああ見えて(どう見ても黒猫人間だけど。)意外に律儀だったんだな。なんて思うとなんだかおかしい。
「でも、なんか、寂しいな。アリちゃんとエリちゃんとお別れ・・か。」
たった数日だったけど、アリちゃんとはとても濃密な時間を過ごした気がする。エリちゃんも最初はツンてしてたけど、だんだんとデレてくれてたし。何より二人とも可愛かった。ちがう、優しかったもんな。
そんなことを思いながら、アリちゃんと作ったおにぎりに良く似たお昼ご飯のひとかけらを口に入れた。
私にとっては突然だったけど、何やら最初からそんなに長く滞在する予定ではなかったらしく仮面のおじさんもエリちゃんもあまり驚かずに見送りをしてくれた。ただ、まあ、やっぱりというかアリちゃんは、泣いているのかエリちゃんの後ろに隠れたままだ。
「ああっと、『ありがとう、いっぱい。エリ、アリ、ありがとう。』です。」
ちょっとは喋れると言っても、やはりこれが限界だ。うまい言葉も上手な賛辞も出てこないから、覚えている単語を並べる。感謝の思いが伝わっているだろうか。
『仮面族のおっさん、世話になったな。色々と迷惑もかけて悪かった。』
『いや、アリも友だちと遊べて楽しかったようだし、有意義な情報も手に入った。それに、久しぶりに人間を見ることができて・・・良かったよ。』
「うお、なに?なんすか?おお、おおお。」
クロと何やら話していた仮面のおじさんが、突然ぐりぐりと頭を撫でてきた。ひょっとして私の髪がかつらだと思ったのかと思ったけど、そんなわけではなかったようだ。仮面の奥に光る瞳が存外柔らかい光りを宿して私を見ていた。なんだろうか、よく思い出せないけれど、これと似た瞳をどこかで見たことがあるような気がする。
『気をつけて。君たちの旅が、うまく行くことを祈っているよ。・・アリ、ちゃんとお別れを言わないで後で後悔しても彼女は戻ってこないぞ。』
『・・・ユキ、』
仮面のおじさんの手が離れて一歩下がったところにエリちゃんの後ろにいたアリちゃんが、何かを言いたげに飛び出してくる。
『アリ、ありがとう。たくさん、楽しい、嬉しい、ありがとう。』
ばいばいと手を振ると、大きな目にいっぱいに溜めた涙がボタボタとアリちゃんの頬を流れてしまう。どうしようかと迷いながら、アリちゃんと視線を合わせるようにしゃがむと途端にぐいとアリちゃんの小さい腕に引き寄せられるようにしがみ付かれた。
『ユキ、ずっと、ずっと、友だちだよ。絶対、ぜったいに、忘れないからっ、』
びえーんと耳元で大きすぎるくらいの大泣き声を上げながら、アリちゃんはそう言っていた。なるほど、さっきのは友だち、という意味だったのか。なんて推測しながら、ちょびっとだけウルッとしてしまった。
『うん、忘れない。忘れない。ずっと、友だち。』
一回りほど小さい身体を抱きしめながら、そっと呟いた。私のこの世界の友だち第一号は間違いなくこの子だ。
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