#7

 豪華絢爛な劇場型パノプティコン、それが知念良明の夢世界であった。人々は監獄風の小部屋にそれぞれひとりずつ入り、奇妙とも思える単一の行動に勤しむ。彼らは施設全体に朗々と響き渡る良明の演奏する音楽を聴きながら涙する。そして悲しみのピークを迎えると頭を破裂させて死んでしまう。


「これではまるで悪夢だ。多くの夢世界は当人にとって住心地の良い空間になっていることが得てして多い。だというのにこれは、流石にそういう風には見えない。」


「これが良明が望んだ世界だって言うの?違うよね?」


 小寿は胸の痛みに耐えるように、ブラウスの胸元を強く握った。この世界に入ってからずっと、彼女は眉を困らせ、良明のことだけを考えている。恐らくここにいる加賀野井、紋田、小寿もまた、悲しみのピークになれば頭が割れて死んでしまうのだろうが、小寿の心には自分の命のことなどなく、ただひたすらに良明を想っている。


「さて、問題はどうやって良明くんにこちらの存在を気付いてもらうかだな。」


「私が、彼に呼びかけます。」


「呼びかけるって、こっからあそこまで結構距離があるわ。果たして声が届くものかしら。」


「でも、やってみないことには。」


 小寿は大きく息を吸うと良明を呼ぶ。


「良明!私です!小寿です!」


 しかしその声は演奏の大きな音にかき消されて良明の耳には届いていそうにない。


「良明!気付いてください!助けに来ました!ここから出ましょう!」


 何度も繰り返し繰り返し良明の名を呼ぶ小寿。だが、やはり良明は気付かない。やがて小寿の声は枯れてゆき、悲痛な叫びのようになる。


「良明!良明!良明!こちらを向いてください!ゴホッ、ゴホッ!」


「小寿ちゃん、無理をしないで!恐らくダメよ、人の声量ではあそこまで届かないわ。」


「でも、でもどうすれば……!」


 音楽は尚も悲しみの音の雨を降らせる。次々と湧き出てくる自分の感情に押し潰されそうになりながら、彼らはどうやったら良明に気付いてもらえるのか考える。しかし考えがまとまらない。心の寂寥が頭を埋め尽くして冷え込んでいく。悲しい、悲しい、寂しい、寂しい。


 建物に天蓋はなく、風が吹いてくる。強い風が一筋吹いて、それが彼らの服をはためかせると、三人はついに涙を流し始める。


「う、これは、ダメよ。ここで死ぬわけには……。」


「う……、くっ……、か、悲しい……。」


「良明、良明……。」


 小寿の鼻から血が流れ始める。やがて右目からも流れ始め、眼球は充血する。


「でも、そうだね……、良明の演奏なら、いいか。」


 そう言って目を閉じる。確かに、大好きな良明の演奏で死ねるならこれはこれで素敵な最後だ。彼はこれ程までに人の心を揺さぶる演奏ができるようになったのだ。小寿は少し誇らしい気持ちになった。小寿は急激に足の力が抜け膝立ちになる。耳の鈴がチリンと鳴った。


 その時、はたと演奏が止んだ。小寿たちの抑えきれない感情の大波は収まり、余韻を響かせながら徐々にそれが引いていくのを感じる。


「小寿?」


 良明はキョロキョロと虚空を見回す。愛しい彼女を姿を探している。するとどうだろう、施錠されていた牢が一斉に開く。だが牢の中の住人は自分の作業に没頭し、誰も出ようとしない。ただ三人だけが、牢を出て中央の施設へと向かって行く。


「何故、牢が開いたのだろう。あれだけ声をかけても気付かなかったのに。」


 一望監視施設までの道のりは花吹雪の舞う美しくふかふかなカーペット。靴の音は消え、ただ静かに歩を進める。空からの薄明光線が彼らの行き先を照らし、劇場は神々しいまでに神秘的な雰囲気に包まれている。


 施設に到着し、舞台に上がると良明がいた。腰の絞られた細身の燕尾服を着ている。近づくと少し大人びたような雰囲気をしていた。


「良明……。」


 小寿が話しかけると、良明が振り向いて舌足らずに言う。


「小寿!小寿なのか!?」


 彼女は彼に走り寄る、良明も彼女を求めるように視線を彷徨わせる。視線?小寿はその姿を見て息を飲んだ。良明の両目は潰されており、何者も映してはいなかった。


「ああ、良明、その目は……。それにその姿は。」


 良明はまるで数年が経たように成長しており、完全に大人の男性になっていた。そればかりか、口を開けると舌がなく、喋るときも発音がうまくできなようだった。


「小寿、そこにいるのか。逢いたかった、逢いたかったよ……。長かった、もう5年ほどになるだろうか。ずっと、キミのことを想っていた。」


「どうして、こんな……。」


 良明は舌ったらずの声で淡々と喋る。


「ここは最初劇場だったんだ。美しい場所で音の響きも素晴らしかった。だが、やがて人々は淫らな行為に耽るようになった。それがおぞましくて、劇場はどんどん腐って行った。本当にそれは耐え難い醜態だった。粘膜質な音、血、糞の雨。最悪だった。俺は耐えられなくなってバイオリンの弓で両目を潰した。俺はすでにその頃から狂ってしまっていたのかもしれない。このわけのわからないユートピアで。」


 小寿は良明を強く抱きしめる。もうそんな話はやめて欲しいと思った。だがそれを言葉にすることはできなかった。


「俺の食事、知ってるか、ここの人間を食うんだ。人間を殺して食ってたんだよ。最初は吐いちまってたんだけどさ、舌を切ったんだ。そしたら食えるようになった。くだらない奴らのことなんて何とも思ってない、だから罪悪感なんてないはずなんだが。俺は……。」


 加賀野井と紋田は悲痛な面持ちでそれを聞く。そして彼を大事に想っている小寿の胸中を想像すると、心臓が張り裂けそうになってくる。しかし小寿は良明をただ抱きしめてこう言う。


「一緒に帰ろう。今夜は私がご飯を作るね。」


「はは、小寿の茶色いメシか。そりゃいいや。きっとうまいだろうなあ。」


 彼女は良明の手を取って立ち上がらせると、泣きそうな顔になりながら微笑む。私はなんで笑っているんだろう。どうして彼がこんな思いをしなければならなかったのだろう。そう考える自分を無理矢理に振り払い、良明の手を引く。


 そのとき、一望監視施設の頂点に位置する黒い球体が布のふわりと崩れ、ピアノの上に降ってくる。それは小寿にそっくりだが、顔の塗りつぶされた黒服の巨大な人型だった。それが良明の胴体を掴み、二人の行く手を阻み喋った。


「ダメだよ良明、ピアノもっと聴かせてよ。」


 そしてその黒服が大きな声で叫ぶと、周囲の窓ガラスが割れた。それは紋田と加賀野井に襲い掛かり、彼らは腕や胸に浅い傷を負った。黒服は良明の耳に体の割に異常に細い指を入れると、中身を弄くり回すように手を動かした。


「ああ、コジュ、コジュ……。」


「それは私じゃない!」


 小寿の目に激しい怒りが湧いてくる。


「お前がやったのか。」


 黒服は身をくねらせ嬉しそうにしている。


「お前が、良明を!!!」


 次の瞬間、小寿はいつの間にか持っていた長い槍で黒服の胸を貫いた。しかし黒服は血も流さずいかにも平気そうにしている。だが、小寿の怒りはそんなことでは治らない。黒服の腹を貫いて内側から剣が生える、耳から鎌が生える、胸から、手から、腰から、背中から頭から喉から、全身から様々な武器が生える。武器の生える勢いは加速度的に増し、やがて黒服は苦しみに悶えながら文字通りバラバラのミンチになった。紋田と加賀野井は何が起きたのか理解できず、ただ呆然と眺めていた。


 放り出される良明を、小寿は受け止めに走る。


「小寿、俺はもう嫌だよ。」


 小寿が良明を抱き止めようと両手を広げた瞬間。彼は手に持ったガラスの破片で首を掻き切った。血しぶきが小寿の顔にかかる。そして、巨大なパノプティコンは水しぶきとなって消えた。


 風景は再びあのマンションの一室に戻っていた。そこには血まみれの小寿と、それに覆いかぶさり、抱きしめるようにこと切れている良明の姿があった。水しぶきの名残が二人に優しくヴェールを被せるように虹をかけていた。

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