許すということ

僕は感受性のベクトルが他人とは大きく違うのかもしれません。

 誰かの言動から他の誰かが傷付くことがときがあるんです。


身勝手な。

あえて強調しましたが、身勝手かどうかの真相は結局のところ本人しかわからない場合もあるのかもしれません。


僕からみて身勝手に見えた言動をした理由を本人に聞いて、その理由を仮に本人が答えてくれなかったからと言って、真っ当な理由が無いとは限らないと思うのです。

もしかしたら、真っ当な理由はあるけど言えない訳があったりすることもあるのかもしれません。

 それに、僕自身だって、自分が気がついていないだけで、自分の身勝手な言動で誰かを傷つけていると思うんです。

 だから、僕自身もっと人を許そうとする気持ちも大切だと考えています。


許す。僕の長編作品では、この辺りをテーマの一つとしています。


でも、なかなか簡単ではありません。

例えば、仏教にまつわる話から一つ。

親鸞聖人の書かれた『歎異抄』には、

「善人さえ助かるのだから悪人はなおさらだ」

と記されているのです。

どんな極悪人をも救う、これについて、

僕はまだ本当の意味で理解できていません。


もしも、僕にとって大切な人が、

ある極悪人(善悪の判断はできる)からその日の気分から八つ当たりで殺されたと考えてみたら。

その極悪人が『歎異抄』の影響を受けて、

俺は救われました。

俺の罪は無くなりました。

俺は今幸せです♪

そのようにブログに書いて、

それをたまたまみつけたとしたら、

どういう気持ちになるだろうかと。

どうしてもそうネガティブに想像してしまうのです。


親鸞聖人に理由を聞くと、もしかするとこう言われるかもしれません。

 それは言葉のあやです。

他者から物事を見聞きするときは、

言葉を文面通りに捉えるのではなく、

その言葉を使った意図を汲みとってあげないといけませんよと。


ここで言っている言葉は例えばこのような意図になるの

かもしれません。

 どんな極悪人であっても、その罪にしっかりと向き合い、たくさんの人を悲しませた気持ちを一生忘れずに生きていくのであれば、人間として幸せを探して生きてもいいと。


今と昔では言葉の伝え方や人権に対する考え方も違い、

価値観は時代とともに変化していますので、そういう意味では仕方がない部分もあるのかもしれません。

でも、今の、そして今までの僕はまだ理解できていないのです。


親鸞聖人が今の時代でも生きてたら、

あさはかな僕はきっと、こう質問してしまうと思います。


「親鸞聖人さん?

あなたは『歎異抄』の中で、

『善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや』

と説かれていますよね?

僕は、例えどんな悪人でもその後反省をし続ける限りにおいては人間として当たり前の感情である幸せを求めて生きてもいいのではないか?

 そのような言葉であれば理解できるのです。

 その説明なしに悪人が救われると言いきるではなく、ちゃんと前提を示されたほうがよりよいのでは無いでしょうか?

 つまり、いくらその意図が既に含まれているにしても、 もう少し言い方というか言葉を選ぶべきでは無いでしょうか?

きっとそのように食いついてしまうでしょう。


僕は大切な人が言われの無い理不尽な理由で亡くなった経験が無いから親鸞聖人の言葉の本当の意味がわかっていないだけなのかもしれません。


しかし、恥ずかしながら人間として人生経験がまだまだ未熟な僕はついそう思ってしまうのです。

 そして、たぶんこれは現在の僕の価値観が少数派である部分とも関係しているのだと思います。


みなさんは、親鸞聖人のこの教えでの言葉の使い方

『善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや』について、どの様に思われますか?

















 

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