ガリヴァー渡来記
John B. Rabitan
1
私はここに、私の生涯中出会った人の中で最も忘れ得ぬ人物について記しておきたいと思う。
その人物とは、ある
もっとも
したがって、ただの異人なら私にとってさほど印象深い存在となりはしない。だが、まずもってその紅毛人は、実に奇妙な経歴を持っていた。そしてその人物との出会いの前提には、別の南蛮人密航事件が絡んでいた。
あれは元禄の時代も終わってから数年たった宝永六年の年明け早々のこと、私は長崎奉行の別所播磨守様と同行して江戸に上ることになった。
当時私は
そのころ、前の年の八月に薩摩藩領に密航したイタリア人の
折しも我われの江戸への道中の間に、
江戸に着いたのは二月も半ばでようやく春めいてきた感があったが、久しぶりに見る江戸の様子も一変していた。お側用人であり御大老の柳沢美濃守様は、何の力もなくしていた。通常ならこのような異人の密航に関しては速やかに沙汰が降りるであろうが、何しろ幕閣も公方様の代替わりでごたごたしていたようで、シロウテの件に関して二ヶ月以上も待たされた上、四月も末になってようやく指示は新井
新井勘解由様とは
新井様がシロウテに関してお奉行の別所様へ下された命は、まずそのシロウテを江戸へ護送せよとのことだった。それに加えて別件になるが、慶安以来の金、銀、銅の国外への流出額を調べて十月の在府在勤交代時に持参せよとのお達しもあり、別所様は顔をしかめておられた。
さて、私がこれから述べる奇妙な紅毛人の名は、レミエル・フリヘル。当初は
長崎への帰還を間近にしたある朝、別所様の江戸屋敷へ江戸在府長崎奉行の永井讃岐守様がやって来られた。その当時長崎奉行は四人おられて、別所様ともうひとりの駒木根肥後守様という方が長崎在勤。永井様と佐久間安芸守様が江戸在府だった。
「また、面倒なことが増え申した」
永井様は私も同席する場で、最初に別所様にそう切り出された。
面倒なこととは昨日四月十七日、三浦半島の観音崎の付近に一隻の琉球船が到着し、その船から紅毛人が一人上陸してきたということだった。今その紅毛人は神奈川宿の本陣に居留しており、近日中に江戸に送られるので、長崎奉行所の面々で接見してほしいという旨のお達しが永井様のところにあったのだという。
これで我われもしばらくは、長崎に戻れぬことになった。正確には、戻れなくなったのは私なのである。お奉行は御在府の永井様と佐久間様がいらっしゃれば十分だ。しかし府内に通詞はいない。接見するに当たって、通詞なしでは不可能であろう。しかし別府様は、私をおいてお一人でさっさと帰ってしまわれるようなお方ではない。
その場で、とりあえず私が神奈川宿まで行って、その紅毛人に会って来るように仰せつかった。現地の役人も言葉が通じないではお手上げであろうと、私はすぐに馬をとばして神奈川宿へと向かった。
昼過ぎには着くことができた。本陣の前は黒山の人だかりで、同心たちがうまくそれを制していたが、私の姿を見ると一斉に頭を下げた。私も二、三ねぎらいのことばをかけてから、本陣の中へと入った。
異人がいるのは、二階だということだった。
私が対座するまで、彼は無言でじっと私を見ていた。出島の阿蘭陀人とも、風体の点では何ら変わりはない。年は四十は越えているだろう。私は何から切り出していいのか分からなかったので、まずは蘭語で、
„Spreekt U Nederlands?” (オランダ語は話せるか?)
と、聞いてみた。その時の彼の驚いた様子は、いつまでも忘れられそうもないほどだった。そして彼が顔を、パッと輝かせたのも同時だった。
„Ja!”(話せるとも!)
それだけでなく、彼は急に私ににじり寄って、私の手をとった。
„Beste vriend!”(友よ!)
そんな失敬さにいささかとまどいながらも、私は役職上笑顔も見せずにいた。もっとも我われにとっては失敬なその挙動も、彼らにしては親愛のしるしであることも、役柄上私は知っていた。静かに手をはなして、私は次の質問にした。
„Waar hebt U gekomen van? “(あなたはどこから来たのか?)
„Ik kwam van Nederland.”(オランダからだ)
道理で風体が、阿蘭陀商館の人たちと変わらないはずだ。
彼はこの国ではじめて蘭語の分かる私と出会えたことがよほど嬉しかったらしく、笑顔でとうとうと喋り続けた。
まず自分の名を告げ、商人であったが遠い国で船が難破し、やっとのことでルフナフという国にたどり着いたということだった。
„Luggnagg?”
私はその国の名について、念をおしてみた。全く聞いたこともない国だったからだ。そこに彼はいたという。しかも日本の南東百リーグの所に、その国はあるという。
冗談じゃない。
百リーグといえば約百二十里。日本の南東百二十里の所に陸地などあるはずがなく、せいぜい近くに小笠原諸島があるくらいだ。それすら土民の地で、国などがあるわけがない。
ちょっと待てというような仕草をしてから彼は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった自分の荷物をまさぐりはじめた。やがて一通の書状らしきものを取り出してきて、彼は再び座った。それを私に差し出すので、見てみると紙は和紙だった。表面には漢字で「日本国大君殿下」と書かれてあったので、私は驚いた。
ルフナフの王が日本の国王に渡してくれと、自分にことづけたのだとフリヘル氏は言う。彼がいう日本の国王とは、この書状の宛名が「
封書の裏も見てみた。封印の朱印があった。それが琉球国のものであることは、私にはすぐに分かった。しかも彼は琉球船から降りてきて上陸したのだったことも、私はこの時になって思い出した。私は目をあげて、フリヘル氏を見た。
„Hebt U gekomen van Ryukyu?”(あなたは琉球に行っていたのか?)
„Ja. Luggnagg.”(そうだ。ルフナフだ)
彼にはリューキューもルフナフも、同じ発音に聞こえるらしい。しかし琉球は日本からだと南東ではなく、南西の方角になる。そのことを告げると彼は、ルフナフでは「日本はここから北西にある」と聞いたという。その情報を彼に与えたのは、琉球人の中でもあまり頭のよくないやつだったのだろう。完全に日本と清国とを混同している。
この琉球王の親書を手渡すのが目的で日本に来たのかと尋ねると、彼は首を横に振った。日本が自分の母国と交易が盛んだと聞いたので、日本に来れば、自分の国の商船に乗って母国に帰れると思い、それで渡って来たのだという。
とりあえず私は、琉球王の親書を彼に返した。
まずは彼が、伴天連宣教師ではないことは分かった。これがもしそうだったりしたら、二重の面倒になるところだった。
私は彼に、しばらくこの地に逗留してもらうことになるであろうことを告げて、立ち上がった。彼も立ち上がり、また私の手を握ってきた。
夕刻には別所様のお屋敷に戻った。
すぐにフリヘル氏のことを、すべてお奉行のお耳に入れた。伴天連ではなかったことについてはお奉行も安堵されておられるようであったが、その扱いについては困ると言いだされた。なにしろ琉球王の親書を携えているのだ。
別所様の注進により、柳沢様からではなく、またも新井勘解由様からお達しが下った。
まず伴天連ではなく交易国の蘭国人なら、粗末に扱ってはならない。ましてや琉球国王の親書を携えているとなると、琉球国の公式使者として上様への拝謁をも許し、その後は本人の希望どおり長崎から阿蘭陀船に乗せて帰してやるようにとのことであった。
彼を長崎に護送するのは、我われの帰還と同道させてということでもあった。江戸滞在が延びたことについては、別所様はまんざらでもない御様子だった。江戸は奥方様もお子様もおられる。本来なら在勤でずっと長崎のはずが、思いもかけずに出府できて、またその滞在も予定より延期されたのである。嬉しそうな別所様のお姿を拝見して、私の方は苦笑するだけだった。私にとっては長崎の、妻や子の顔を見るのを延期させられたのである。
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