手繋ぎ像
新井住田
手繋ぎ像
あの日、私は一人でゆっくりと旅に出ている途中だった。
特に何か理由があって旅に出たわけではない。ただ、なんとなく一人になりたかったのだ。
タクシーに乗って山中の舗装された道路を走っていた。運転手は優しそうな目をしていて、黒い顎髭を生やした男だった。
私がぼうっと車内から窓の外の景色を眺めていると、男が話しかけてきた。
「珍しいね、こんな寂れた町に若い人が来るなんて」
男はハンドルを握って前を見ていた。バックミラーに男の顔が上半分だけ見えている。
「ええ…、ちょっと今一人で旅行をしていまして…」
「へぇ、お嬢さん一人で?こんな物騒な世の中になんでまた」
男が不思議そうに聞いてきた。
「ちょっと一人になりたくて…」
「一人に?何か嫌なことでもあったのかい?」
そう言った後、男はあっと口を塞いだ。
「今、夏休みなんです。それで暇が出来てしまって…。家の中でじっとしてられない性格なんですよ」
「そう。でも一人旅は危険だからね。事故や不審者には気を付けなよ」
「御気遣いありがとうございます」
そう言って私は微笑んで見せた。
「ちょっと寄り道してもいいですかね」
少し山中を走った後、男が聞いてきた。まだ日は高かったし、特に急ぐ旅でもなかったからので、私は頷いた。
「すみませんね、この辺に来ると必ず寄る所があるもので。運賃はまけときます」
男は珍しく敬語で話していた。まぁ、こっちが客なのだから当然のことだろうが。
この日の事を思い出す度に、私はこのときの自分に蹴りを入れたくなる。なんで頷いてしまうんだ。そこで断ってしまえばあんなことにはならなかったかもしれないのに、と。
タクシーは道路の端にある、アスファルトで固められた場所に停車した。そこにはガードレールがなく、自動車一台分のスペースとジュースの自動販売機が置いてある。
「ちょっと待ってて。すぐもどるから」
男が車から降りながら言った。
「お邪魔でなければ一緒に行ってもいいですか?」
男は黙ってこちらを見た。
「……まぁ、いいよ。退屈かもしれないけど」
少し悩んだ後、男は答えた。
自動販売機の後ろには木が密集していて、小さな林を作っている。
男はその林の中に入って行った。私もその後に続いた。
男が入って行った林には道らしい道がなく、私達は木の根を踏みながら歩いた。
それほど歩かないうちに開けた場所に出た。半径五メートルほどは木が生えていない。奥には町一帯を一望できる場所があり、その先は高い崖になっていた。
よく見ると崖のそばになにやら灰色の物体が立っている。
男はすたすたと歩き、その物体の隣に立ち、向こう側に広がる町を見下ろした。
私もそこに行き、灰色の物体を見た。
石像だ。
女性の形をした石像がじっと町を見下ろしている。
それもただの石像ではなく、造形が細かく、まるで本物の人間のようで、今にも動き出しそうな気さえさせる。そして石像はなぜか左手を左下に伸ばし、軽く広げた掌を前に向けている。
「これは…?」
私は男に聞いた。
「『手繋ぎ像』って聞いたことあるかい?だいぶ前にメディアにも取り上げられたんだけど」
私は首を横に振った。まったく聞いたことがなかった。
「まぁ仕方ないか。今から十年も前のことだもんな」
そう言って男は話し始めた。
今から十年前。この林の中に近所の住人が入ってきた。その住人は散歩の途中でたまたまこの林の存在に気付き、気になって足を踏み入れたらしい。
その住人が林の中で見たのは一体の石像だった。 しかもその石像は妙に生々しく、まるで生きてる人間をそのままセメントで固めたような感じがしたのだ。
その妙な石像の話は瞬く間に町中に広がり、またその周辺の地域に広がり、いつしかマスコミが来るようになり、そこから全国に広がっていった。
すると町には観光客の姿がちらほら見えるようになり、町には石像にちなんだ土産物屋が立ち並ぶようになった。
しばらくすると観光客の間でこんな噂がされるようになった。
「石像と手を繋ぐと、幸せになれる」と。
そしていつしかその石像は『手繋ぎ像』と呼ばれるようになり、石像の左手を握っていく人たちが増えていった。
しかしそれから一年程で、ブームは去った。
観光客はいなくなり、土産物屋は潰れ、石像の周りは静かになった。
「それから彼女はずっと町を見下ろしている」
男が話し終わった。少し間を開けた後、私は男に気になってたことを尋ねた。
「お話ありがとうございます。でも、なんであなたはいまだに、この誰も来なくなった場所に通っているんですか?」
男はすぐ答えた。
「俺は信じてるんだ。石像の手を握ると幸せになるという噂をね。こう見えて結構信心深いんだ」
俺は歯を見せながら笑った。
しかし私はまだ納得いかないことがある。
「じゃあなぜ、さっき石像のことを『彼女』と言ったんですか?」
すると、男は少し困惑しながら、
「信心深いって言ったろ?だからたまにそんな風に言っちゃうんだよ」
と言った。
「…でも、やっぱり納得いきません。何か特別な思い入れがあるのでは?」
私はさらに言った。今考えるとなぜこんなに必死になって知りたがっていたのか自分でもわからない。
男は黙った。やはりおかしい。本当に何もないのならここで押し黙る必要はない。否定し続ければいい。
しばらくすると男は口を開いた。
「…まぁ、話してもいいかな。相手は旅人さんだし。それにお嬢さんのさっきの車内での話し方聞いてると結構口固そうだったしね」
「えぇ。他言して欲しくないのでしたら誰にも言いませんよ」
私は頷きながらそう言った。
男の話を聞いた途端、私はすべての動きを止めた。呼吸も、心臓までも一瞬止まったような気がした。
私は男に聞き返す。
「あの石像の女性が…、あなたの恋人だった…?」
その言葉に男は頷く。
「そう。…いや、今も俺の恋人で、会話し、動き回ることができる」
私は首を振る。信じられないという意思表示だ。男はさらに話を進める。
「俺と彼女は互いに天涯孤独の身でね、ちょうどお嬢さんと同じくらいの歳で知り合って付き合い始めた。しばらく同じ部屋で暮らしていたが、俺が仕事で大きなミスをしてしまって、仕事をクビにさせられた。アパートも追い出されて、俺は路頭に迷ってしまった。けど、彼女はそんな俺を見捨てず、ずっとついてきてくれたんだ」
「二人で彷徨っているうちにこの場所に行き着いた。そこで夕日を見ながら彼女が、『どんなことがあっても貴方に一生ついていきます。』って言ってくれたんだ。そして、彼女と手を繋いだ。」
「気が付くと、さっきまでは目の前の海の中に沈みかけてた太陽がいつの間にか、後ろにある林の向こう側に移動していたんだ。不思議だろう?俺はわけが分からずに周りを見回した」
「隣を見てみるとさっきまで手を繋いで一緒に夕日を見ていた彼女が石になっていたんだ。俺は驚いて彼女から離れた。手は案外すんなりと抜けた。驚きのあまり、俺はしばらくぼうっとしてた。そしてまた周りを見回してみると…」
そう言いながら男が、今、私達が腰かけている大きく、平たい石を指差した。
「この石の上にメモ用紙が一枚置かれてた。そのメモ用紙には彼女の字が書いてあった。今、石になっている俺を見て驚いていることと、もう一度手を繋げば元に戻るんじゃないかと考えていること。そして最後に今から貴方の手を握りますと書いてあった。それで俺はもしかして彼女は俺の手を握って、ああなってしまったんじゃないかと考えた。それならと思い、俺はメモ用紙の裏に彼女へのメッセージを書き、彼女の手を握った」
「手を握った後、特に何も変化は感じられなかったが、周りを見てみると太陽はさっきより上に上っていて、石の上のメモ用紙は一枚増えていた。横に真新しい紙が束になって置かれていた。二枚目の紙には、さっきまでの考えが確信に変わりましたと書いてあった」
「それからしばらくの間、俺と彼女は交代しながら時を過ごした。その間に仕事も見つけた。平日の昼間は俺が活動し、仕事をした。毎日この場所に帰って来て、買ってきた弁当を二人で交代しながら食べて、寝るときは俺が動ける状態で寝た。石になってれば彼女は風邪をひくことはないからな。そして休日は主に彼女が活動していた。溜った衣服を洗濯しに行ったり、買い物をしていたりした。俺の目が覚めると手編みのマフラーが置いてあったりもしたな」
「ある日、俺が帰ってきてこの林の中に入ろうとしたときに人の声が聞こえてきたんだ。石になった彼女は大勢の人々に囲まれていた。このあとはさっき話した通りだ」
男が話し終えた。
「やっぱりまだ信じられません…」
私は足元を見ながら、そう呟いた。
「だろうね」
男は言った。
話が終わった後に気になっていたことを聞いてみた。
「観光客やマスコミはどのくらいの間来てたんですか?」
「一年経つか経たないかあたりかな。ブームは結構短かった」
「じゃあなんでその後、九年もの間入れ代わることもなく、ずっとあなた一人で活動しつづけてきたのですか?」
男はあぁと言って、答えた。
「マスコミや観光客が去った後もずっとここに通いつづけていたお婆さんがいたんだよ。一人でも通う人がいれば俺と彼女は入れ代わることができないだろ」
「今もきてるんですか?そのお婆さん」
「いや、三日前に死んだ。歳はもう九十を越えていたらしい。寿命だったんだろう」
私は石像の方を向いた。
「なんでこんな所にずっと通っていたんでしょうね」
「さあね。でも年寄りっていうのは縁起が良いものには目がないからね」
男は笑いながら言った。そして、どっこいしょと親父くさい台詞を言いながら立ち上がり、ズボンの後ろを手でパンパンと叩いた。
「この三日間、あのお婆さんの他に通っている人がいないかどうか確かめていたが、どうやら心配ないみたいだな。お嬢さん、彼女にも挨拶をしていってくれ」
そう言うと男は石像の方へと歩を進めた。しかし途中であっと呟いて、また引き返してきた。
「悪いけど今から言うことを彼女に伝えてくれないか?」
そう言って男は私に伝言を告げた。それを聞いて私は少し戸惑ったが、男がどうしてもと言うので、承諾した。
「タクシーはどうするんですか?」
「あのままでいいよ。多分会社の誰かが運んでくれるだろう」
男は再び、石像の方へに歩き始めた。
男が石像の手を握ると、男の体の色が徐々に失われていった。そして、それとは逆にさっきまで石になっていた女の方は人間らしい色を取り戻していった。まるで石像が男からすべての色を奪っていってるかのようだった。私は驚きながらその現象を眺めていた。
そして、変化が止まった。色を取り戻した女は一度、隣にある男の石像を見ると「しわがずいぶん増えましたね」と言った。
体を反転させて私に気付くと女は小さく悲鳴をあげた。
「…誰?」
そう聞かれて私は少し困惑した。
「えーと…、あの人の、客です」
私は石像を指差しながら言った。
「お客さん?なんでお客さんをこんな所に連れてきたの?」
女は不思議そうに言った。それもそうだ。石像のことは誰にも知られてはならないのだ。それなのに見知らぬ女―――客がここにいるのだから。
「あの、私が無理言ってついてきたんです。絶対に他言はしないという条件で」
罪悪感があって、とても『問い詰めた』とは言えなかった。女は「そうなの」と言って納得してくれた。
「ところで今は何年の何月何日?あの人の顔、ずいぶんとしわが増えていたわ」
私が日付を教えると女は目を見開いた。
「あれからもう十年も経ってるの!?どうして!?」
そう言いながらものすごい勢いで女が私の肩を掴んできたので、別に自分が悪いわけではないのに思わず謝ってしまいそうになった。
とりあえず私は女を落ち着かせた後、さっき男から聞いた話をした。
「そう、そんなことがあったの。教えてくれてありがとう」
そう言って、女は私に微笑んだ。
私は、最初に石になった男を見てどう感じたのかと女に聞いた。
「最初は驚いたわ。しばらく一人でオロオロしてたんだけど、あの人は私と手を繋いで石になってしまったわけでしょ?だからもう一度手を繋げば元に戻るんじゃないかと考えたのよ。念のためにメモも残して置いたのだけど、それが役に立ってしまったのだから皮肉なものよね」
女はまた少し笑った。それを見て、私は少し寂しい気持ちになった。女が心の底から笑っているようには見えなかったからだ。
私には、どうもさっき男から承った伝言を女に伝えることがためらわれた。伝言を伝えたところで女がその通りにしてくれるような気がしなかった。恐らく…。
「どうしたの?」
私は女の声にはっとした。
「えっ、あっ、はい?」
「急に黙ってしまったから…」
女は心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
「いえ、なんでもありません」
私は慌てて言った。
「何か言いたいことがあるんじゃないの?」
どうやら女の勘というのは本当に存在するらしい。女は私のちょっとした動揺をさえも見抜いて問い掛けてきた。もっとも、私がさっき男を問いつめたことを考えると、私だって人のことは言えない。
私は観念して話し始めた。
「…実は彼から貴方に伝言を預かってるんです」
それを聞いた女はふと目を細めたが、私は続けた。
「もう自分から離れて、あなたにはあなたの人生を楽しんで貰いたいと…。このまま同じことを繰り返していてもどうせ最後にはどちらかは死に、どちらかは石になったまま永遠に生き続けなければならない。だからあなたには、石のまま永遠に生きるのではなくて、どうかきちんと生きて、人間らしい死に方をして、安らかに眠って欲しいと…。そう、言ってました」
言ってる方が辛くなってきた。私は顔をうつ向けた。
「そんなことだろうと思ったわ。まったく、勝手なんだから」
女は呆れたような顔で言った。そして立ち上がり、私に向かって言った。
「生憎ですがそれはできませんって言っておいてくれないかしら。私も同じ考えなんですとも」
そう言って女は石像の方へ歩き出した。私も女のあとに続いた。石像の隣に来ると、女は男の手を握った。するとさっきの映像を巻き戻しているかのように、今度は女の方が石になっていき、男の方は人の色を取り戻した。
人間に戻った男はこちらを向いて言った。
「彼女、何だって?」
私はただかぶりを振った。
「やっぱりね、そんなことだろうと思った。勝手なやつだ」
男は女がさっき言った台詞をそのまま言った。もちろんそんなこと、本人は知らない。
「でもね、それじゃあ困るんだ。言うことを聞いてくれ」
男はまた女の手を握った。また、二人の状態は入れ替わる。
人に戻った女は石になった男の方を向いて怒鳴った。
「なんで!?どうしてですか!どうして私に貴方を見捨てろと言うのですか!?私にはそんなことできません!!」
女が泣きながらそう叫んだ瞬間、女の足下の地面が少し崩れた。
「きゃあああっ!!」
私はとっさに、悲鳴を上げながら落ちてゆく女を助けようとして、思いきり自分の腕を伸ばした。
しかし女が掴んだのは私の手ではなく、石になった男の手だった。その少し後に私は女の腕を掴んだ。
「だめっ!早く手を離して!!」
そう私は叫んだが、すでに手遅れだった。女の体は徐々に灰色に染まっていき、掴んでいた女の腕から温度が消えていった。
石になっていく女の体はだんだんと重くなってきた。私一人でなんとかなるような重さではなくなっていた。
そして男が完全に人間に戻った瞬間、女の石像は急降下を始めた。私はその重さに耐えられず、女の腕は私の手の中を滑り落ちていった。
人間に戻った男は女に手を握られたまま一緒に落ちていった。落ちていく途中、二人の手が離れ、男はそのまま下へ、女は崖から生えている木の枝に引っ掛かった。
崖の下はアスファルトの車道になっており、そこに背中を叩き付けられた男は鈍い音とともに「がぁっ!」と声を出してその場にうずくまった。幸い、まだ生きているようだ。
私は男を助けようとその場を離れようとしたそのとき、バキッという音を出して女の石像が乗っていた木の枝が折れた。
「あぶないっ!!」という私の声に反応して男は上を向いたが、落ちてきた女の頭がすぐそばに迫ってきていた。
「うわぁ…」と弱々しい声を出した次の瞬間、二人の頭は砕け散った。
崖の下に降りてきた私は頭の無くなった二人のそばで膝を落とした。
二人と私の周りには灰色の石がゴロゴロと、赤い肉塊と白い骨とともに転がっている。
なんで?なんでこんなことにならなければいけないの?
二人は共に生きることは出来なかったけれど、共に死ぬことは出来た。
でも、納得できない。二人はそれで満足なの?
共に死ぬことは出来るのに共に生きることは出来ないなんて、そんなの、不公平だ。
同じように権利があってもいいはずなのに、なんで神様はその権利すら与えてくれないのだろう。
こんなの、おかしすぎる。
私は泣きながら携帯を取り出して、番号を入れた。
警察が来て、現場を調査し始めた。一度、私が石像を上から落として男を殺したのではないかと疑われたのだが、石像から私の指紋が確認されなかったことと、私と男との間になんの関係も見られなかったことから私の疑いは晴れた。
しかし、警察は間違っている。犯人は私だ。私がいなければ、すべては起こり得なかったことなのだ。私がいなければ、誰も死ななくて済んだのだ。
だから私は、この日のことをちゃんと書き留めておこうと思う。
私が背負った罪をずっと忘れないように……。
END
手繋ぎ像 新井住田 @araisumita
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