第9話 学園の噂

孤児院に行ってから2週間が経過していた。

その間、孤児院には二度ほど訪れて手伝いをしていた。


そしてルクレツィアの環境も以前とは全く変わっていた。

まず取り巻き達がいなくなった。

どうやら今のルクレツィアと一緒にいると、外聞が良くないと判断された様だ。

それに何故か男性から話し掛けられる事が増えた。

クレイも前ほど近づいては来なくなった。

でも一番の嬉しい変化は、魔法の訓練の他にもイアスと週に何度か一緒にお昼を過ごす様になった事だ。

イアスと過ごす時間は癒やしの一時なので、とても嬉しい。

友人の期間は短いが、まるで刷り込まれた雛の様にイアスの事をすっかり信頼しきっていた。


だが学園では、ルクレツィアの変わり様にたくさんの噂が飛び交っていた。

イアスという恋人が出来たから雰囲気が変わったんだとか、病で休んだ時に記憶を無くしてしまっただとか、ない事だらけの噂をされていると最近知ったルクレツィアだった。


今はお昼休みで、中庭でイアスと一緒にお昼を食べている最中だ。

ルクレツィアはお昼を食べ終えて飲み物を口に含み、一息吐くと申し訳なさそうにイアスに言った。

「イアス様。もしかして私はご迷惑をお掛けしてるんじゃないですか?」

「迷惑……ですか?」

イアスが眉を上げて、意味が分からないという様な顔をした。

「実は私がたくさん噂されているという事を最近知りまして……」

するとイアスは質問の意味を理解した様で苦笑して見せた。

「ああ。ルクレツィア様の噂ですか。そうですね。よく私に尋ねてくる方がいます。」

その言葉にルクレツィアは驚いて言った。

「そうなんですか?それはすみませんでした。」

ルクレツィアか頭を下げる。

だがイアスは首を横に振った。

「私達は友達なんですから遠慮は無用ですよ。私にとっては何の苦痛もありませんから気にしないでください。」

「でも……」

ルクレツィアはそれでも申し訳なさそうにしているとイアスが笑って言った。

「むしろ私がルクレツィア様と噂されるなんて光栄です。人の噂はいずれ落ち着きますから。それよりも私はルクレツィア様とこうしてお話する事の方が余程価値があると思っています。あ、それともルクレツィア様の方に何か問題でも?」

イアスがそう言うと、心配そうな顔でルクレツィアを見詰めてきた。

ルクレツィアは慌てて首を横に振った。

「とんでもありませんっ。私は噂なんて全く気にしていませんから。」

その言葉を聞いたイアスは嬉しそうに微笑むと言った。

「安心しました。」

ルクレツィアも笑顔を返す。

そして2人は穏やかな空間に包み込まれていく。


はぁー……、癒やされる。

この空間が好きだなぁ。


ルクレツィアは心が洗われていくのを感じていた。

しかしイアスが急に真剣な顔で向き直ると口を開いた。

「ルクレツィア様。少しお伺いしたいのですがよろしいですか?」

ルクレツィアは彼の態度を不思議に思いながらも言った。

「何でしょう?」

「勘違いならいいのですが、ルクレツィア様はその噂とは別に何か悩みを抱えているのではないですか?」

その言葉にルクレツィアは目を見開いた。

「無理にとは言いませんが、時折とても悲しそうな顔をしているので心配しています。」

ルクレツィアはその言葉に困った顔をして見せた。

「やはりイアス様はすごいですね……」

ルクレツィアはそう言うと前に向き直り、中庭の真ん中にある噴水を眺めた。


私の悩み。

それはもちろん死ぬかもしれない事だ。

しかもどうすれば助かるのかまだ作戦だって思い付いてない。

イアス様は味方になってくれるだろうか……。

私がいきなり前世とか話し出しても、引いたりしない?


……うん。イアス様はそんな人じゃない。


イアス様ならきっと馬鹿になんてしない。

信じてくれるかは分からないけど、少なくとも拒絶はしない。

だってイアス様は神様みたいにとても優しい人だから。

それに私自身が誰にも悩みを打ち明けられない事が苦痛だった。

誰かにこの不安を聞いて貰いたかった。

イアス様にはもう既に私の贖罪については聞いて貰っている。

あの時は本当に心が救われる思いがした。

そして自分の行動に自信を貰えた。


前世の事、……イアス様に話せば何かいい方法が見つかるかもしれない。


ううん。私のお友達としてただ聞いて貰いたいだけなのかも。

そして神様みたいに優しい声で大丈夫と言われたら、少し安心できるのかもしれない。

でも、それはイアス様の負担なのでは?

こんな話をされたら、イアス様に心配を掛けさせてしまうだけなのでは?


でも……今更か。


そう思い、ルクレツィアは視線をイアスに移した。

彼はとても心配そうな顔でルクレツィアを見詰めていた。


既にもう心配を掛けてしまっているんだわ。

それに私が逆の立場なら、どんな事でも話して欲しいと思うだろう。


……うん。イアス様に話そう。


そうルクレツィアは心を決めるとイアスに再び向き直った。

そんな顔をさせてしまった事をとても申し訳なく思う。

悩みを話す事が少しでも彼に対して誠実に向き合う事だと信じて、ルクレツィアはゆっくりと口を開いた。

「イアス様。私の悩みはとても信じられない内容なので、話すには勇気がいります。しかも話せば長くなりますから……。ですが、私はイアス様に聞いて欲しいです。明日の放課後、予定は空いてますか?」

「ええ。大丈夫です。」

イアスは頷いた。

ルクレツィアも真剣な顔で頷くと言った。

「では……明日の放課後、第1校舎の屋上にてお待ちしております。」

イアスはルクレツィアのただならぬ気配を感じて、神妙な面持ちになると頷いて返事を返した。

「はい。分かりました。」

そう言った時、ちょうど予鈴が鳴った。

そうして2人はそれぞれの教室に戻るために別れた。



だがルクレツィアと別れたイアスはそのまま自分の教室とは違う方向へと向かった。

そして人気がない場所まで来ると立ち止まり、そっと口を開いた。

「何か御用ですか?」

イアスは振り返ると何もない廊下をじっと見詰めた。

するとその角の影からゆっくりと姿を現す者がいた。


────それはクレイだった。


クレイは鋭い瞳でイアスを睨むと言った。

「お前……何者だ?」

「イアス・フェルシオンと申します。平民ですが。」

「ただの平民が俺の気配に気付くなんてある訳ないだろう。」

「御用はそれだけですか?」

イアスはクレイの鋭い瞳に動じる事なく淡々とした口調で尋ねた。

「……ルクレツィアと最近よく一緒にいる様だな。」

クレイがそう尋ねると、イアスが一瞬キョトンとした顔をして見せたが、次には面白いという風に笑った。

「あなたの質問もそれですか。」

「2人で何を企んでる。」

クレイは少し苛立ちを含んだ声で言った。

それに対してイアスは笑顔で答えた。

「何も。彼女と友人になったのは本当に偶然です。彼女と一緒に過ごす時間はとても癒やされて心穏やかになれますから。そうですか……、そういえば彼女は公爵令嬢で王家の血が流れていましたね。」

その言葉にクレイは片眉を上げた。

イアスは更に続けた。

「もしかして最近の彼女の変わり様に、周囲がご心配されているのでしょうか。あなたが最近私達の事を探っていたのは、王太子様からのご指示ですか?」

クレイはその言葉で大分前から気付かれていた事を知り驚いていた。

そして警戒しながら言った。

「気付いていたなら、なぜ今俺を誘い出した。」

気付いている事をバラす必要はないはずだ。

なのにこうして人気のない場所までわざわざ足を運び、気付いている事を相手に告げるなど、どう考えてもおかしい。

イアスは苦笑した。

「それこそ良からぬ事など何もないからです。それを理解して貰いたいと思ったのです。ですが……それとは別に、あなたとも少しお話をしてみたいと思ったからですかね。」

「何?」

イアスはクレイの近くへ歩み寄りながら言った。

「ルクレツィア様はあなたの事を気にしている様でしたから。彼女を見ていれば分かります。」

その言葉にクレイは目を見張った。だが、次にはイアスを睨んで言った。

「何が言いたい。」

「あなたはルクレツィア様をどう思っているのですか?」

「どういう事だ。」

クレイの声が鋭くなる。

「言葉通りの意味です。」

「お前に答える必要はないっ」

「それもそうですね。だけれど、私は彼女の幸せを願って止みません。彼女は何か……」

そこでイアスが息を飲み一旦話すのを止める。

そして遠い目をして窓から望む噴水を瞳に映しながら、そっと呟いた。

「何かに追い詰められている……」

その表情は素直に彼女を憂えている様だ。

「あいつが?」

クレイが訝しげに言った。

イアスは再びクレイに視線を戻すと静かに頷いた。

「ええ……。私は彼女が心配なのです。その心に偽りはありません。」

だがその言葉に対してクレイは鼻で笑うと言った。

「あいつの事を心配する奴が現れるとは。」

するとイアスは眉を顰めて、咎める様に言った。

「そんな言い方は失礼では?」

だがクレイは憎しみを込めた瞳でイアスを睨んだ。

「お前には関係ないっ。どれだけ苦しめられたのか知らないくせに俺に指図するなっ」

イアスはその鋭い視線を黙って見詰めていたが、やがて口を開いた。

「ええ、私は関係ありません。過去に2人の間に何があったのか知りません。私は今の彼女しか知りませんから。ですが、今の彼女なら知っているつもりです。少なくとも、あなたが思う様な人ではありません。」

「お前が騙されているだけだっ」

「いいえっ。あなたが過去の彼女に囚われているんです。今の彼女をちゃんと見てあげてください。」

イアスは強い瞳でクレイを見据えた。

「あなたも本当は気が付いているのではないですか?彼女が以前の彼女とは違う事を。そしてそれを直ぐに認められないでいるだけだと……」

その言葉にクレイはカッと目を見開き、一気に頭に血が上ると大声で怒鳴った。

「うるさいっ、黙れっ!!」

クレイは拳を握り、怒りに任せて壁に思いっきり叩きつけた。


激しい衝撃音が辺りに響き渡る。


衝撃音の後、人気がない廊下に静けさが戻る。

それが嫌に耳障りだった。


すると、少し離れた場所で何かが落ちる音が聞こえて、クレイはゆっくりと後ろを振り返った。

「……誰だ。出てこい。」

声を掛けられた人物はしばらく動かなかったが、やがて観念した様でゆっくりと2人の前に姿を現した。

そしてその人物を見たクレイの瞳が大きく見開かれた。



そこに立っていたのは、ルクレツィアだった。



ルクレツィアの顔からは幾つもの涙が溢れている。

そしてルクレツィアは顔を歪めながら言った。

「ご、ごめんなさい。聞くつもりは、全然なっ……。ただ、イアス様の……忘れ物を、と、届けようと……」

ルクレツィアは喉を詰まらせながらも何とか声を出した。

クレイはその言葉を聞き、嵌められた事に気付いてイアスを睨み見た。

だがルクレツィアが現れた事で、完全に気が削がれてしまい覇気はない。

イアスはルクレツィアの元へ歩いて行くと優しく声を掛けた。

「わざわざ届けてくださり、ありがとうございます。」

そう言い、ルクレツィアが落とした荷物を拾い上げると手渡した。

「ルクレツィア様。彼とちゃんと向き合って話してみてください。」

そう囁くと、イアスはその場から立ち去っていった。


後にはルクレツィアとクレイが残される。


既に授業は始まっていた。

クレイは何も言わずに立ち去ろうとしたが、ルクレツィアはそれを呼び止めた。

「待って!」

クレイが立ち止まる。

ルクレツィアはクレイの元へと駆け寄っていった。

そして彼に手を伸ばしながら言った。

「て、手当て……。早く手当てをしないとっ」

「触るなっ」

その声にルクレツィアはビクッと震えた。

そんな姿を見て、クレイはばつが悪そうに押し黙る。

だがルクレツィアは意を決して彼の腕を掴むと、グイッと引っ張って歩き始めた。

クレイは腕を引こうとしたが、ルクレツィアはそれを許さなかった。

そして、もうクレイも無理に抵抗する事をやめると、大人しくルクレツィアに腕を引かれるままに続いた。




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