第二章 ⑤


 ビルから出て一人、リジェッタはのんびりと散歩していた。お気に入りの散歩コースから外れ、新ルートを開拓しようと決める。

「良き天気ですわね」

 頬に当たる陽光にはしっかりとした熱がある。まだまだ残暑のさらに残りが空に漂っていた。

 靴底に伝わる石畳の堅い感触が心地良い。通りは白漆喰や煉瓦造りの建物が並び、どこからかパンが焼ける良い匂いが漂ってきた。

 魔物から交配された八本脚の馬を操る馭者が、荷台に沢山の林檎を乗せて市場まで運んでいた。最新式のガソリンエンジンを搭載した車には娼婦と軽薄そうな青年が乗っている。

 通りの端で三人の若い男性が音楽を奏でていた。バクパイプの音色に、子供達やその親が聞き入っていた。

 イーストエリアは表と裏で〝区分別け〟されている。だから、表通りには穏やかな時間をすごす住民の姿が目立った。

 いくらマフィアが支配しているといっても、ジャックスは暴力だけの政治を望まない。あくまで、抑止力としての働きを尊重するのだ。

 イーストエリアには大小合わせれば二十以上のマフィアが存在する。全員が似たり寄ったりの格好で、判別するには襟章を確認するしかない。ちなみに、虚偽の主張をすれば断首刑だ。

 現在、組織同士の大きな衝突はない。警察にしても、無理にマフィアを取り締まろうとする動きはなかった。だから、平和そのものだった。少なくとも〝表向き〟は。

 今、リジェッタの眼前で人間の頭のような物が転がった。放物線を描いて地面に落ち、わずかに転がって停止する。

 恐怖で歪んだ男の顔と目が合った。

 やっぱり、人間の生首だった。断面は牛刀で叩き切ったように見事な断面だった。

 細い路地を一つ挟んで大きなビルの背後、裏路地へと回った途端に常識が組み替えられた。

 リジェッタの耳に届いたのは奇妙な音だった。乾いた木々が擦れ合うような、調子の悪いガソリン式エンジンを無理に動かすかのような音だった。とてもではないが、耳に合わない。

 鉄錆と黴臭い空気が滞った薄暗い場所に、化け物が一匹君臨していた。

 簡潔に表すなら、人間大の蟷螂だった。正確に言えば『四肢だけが蟷螂に変わった人間』だった。

 鈍い緑色の光沢を持った節足が太腿の付け根から繋がっている。服は着ておらず、腹部には十字の大きな手術痕があった。

 両腕も同じく細く長い昆虫の足だ。

 ただ、その先端には農夫が使う草刈鎌よりも大きな半透明の刃が伸びている。右手側の刃には、べっとりと血がこびり付いていた。

 頭部に毛は生えていない。

 双眸はすでに正気が失われ、左右で違う方向を向いている。

口からは涎が滝のごとく溢れていた。

 魔造手術の発展は、人類に大きな貢献を果たした。生まれつき盲目だった者は光を取り戻し、内臓が難病に侵された子供は健康を授かった。

 しかし、技術の進化とは必ず悪用されるものだ。

「新しい獲物を発見発見ーきひひひひひ」

 蟷螂男の背後に、誰かが立っていた。

 黒いシミで斑に汚れた白衣に身を包む若そうな男だった。平らで四角い顔で、ボサボサの髪だった。

「まあ、どなたでしょうか?」

「僕かい? 僕は《善良医師》さ」

「はあ、さようでしょうか」

 リジェッタは回れ右をして、その場を立ち去ろうとした。

 軽く右側に跳ぶ。

 一秒前まで頭部があった場所に、蟷螂の刃が振り下ろされた。石畳を砕き、半ばまで地面に突き刺さった。

「きひひひひひ。見られたからには逃がさないよ。君も、僕の実験体にしてあげよう。とても名誉なことなんだよ? その男を見なよ。丈夫で強い身体が欲しいっていうから、手術してあげたんだ。ほら、ご覧よ。丈夫だろう? 強いだろう? 患者は大喜びさ」

 白目を剥いて鼻水を垂れ流す蟷螂男の姿に、リジェッタは右手の人差し指を愛らしい唇へと当てた。

「君は容姿が整っている。いや、完璧だ! 僕の助手にしてあげよう。脳味噌をいじって、僕の命令に忠実に従うようにしよう。きひひひひひひ。僕が命令すれば街中だろうと自慰を始め、僕が望めば股を開くようにきひひひひひひひ。その大きな胸が赤く腫れるまで楽しん――」

 ――黒き銃口が蟷螂男の脚へと向けられた。

「私、あなたに三つほど伝えなければいけないことがあります」

 銃声が硬い稲妻となった。

 蟷螂男の右脚を容赦なく砕く。

 衝撃に耐えられず、蟷螂男の身体が巨人の拳に殴られたかのようにビルの外壁へと敲き付けられた。そのまま、地面に倒れ伏す。

 変態医師の顔が、無のまま固まった。

「一つ、私はあなたの助手になるつもりはございません」

 蟷螂男が起き上がろうとするも、今度は左脚を吹き飛ばす。そのまま地面を転がり、全身を痙攣させた。断面から、あまり血はこぼれなかった。

「二つ、魔造手術は実験ではありません。あくまで、治療なのです」

 ようやく事態の流れに気付いた変態医師が逃げようとするも、人間一人が踵を返すよりもリジェッタの指が引き金にかかる方が早い。

「そして三つ目」

 当然のごとく引き金が絞られた。

 ただ、

「くしゅん」

 リジェッタの鼻が小さく鳴った。

 わずかに銃口が横にずれてしまう。音速超過の弾丸がビルの外壁に突き刺さった。衝撃で煉瓦が砕け、亜音速の礫となる。

「ぎゃぁあああああああああああ!?!?」

 変態医師が地面に転がった。顔を両手で押さえ、悶え苦しむ。

「あら、失礼」

 変態医師の顔面には煉瓦の欠片が無数に突き刺さっていた。鼻が砕け、右目が潰れ、顎が壊れていた。喘息にも似た荒い息をするも、言葉にならない。

「私、どこまで話したかしら?」

 レインシックスの撃鉄を起こし、リジェッタは首を傾げる。変態医師が地面を這いずって逃げようとするも、足がもつれて立ち上がることすらままならない。

「そうそう、三つ目ですね。お待たせしてしまい大変申しわけございませんでした」

 頭を下げ、リジェッタは改めて標的を狙う。

「私は、リジェッタ・イースト・バトラアライズ。この街では《偽竜》とも呼ばれている掃除屋です。私、挨拶をちゃんと返す主義でして。それで、相手に合わせているのですよ」

 つまりは、暴力なら暴力で。

「それが困るというのでしたら、どうかお静かにお願いします。それでは私、まだ用事がございますので」

 引き金に指がかかった。

 変態医師が両手を突き出して泣き喚く。

 その顔は、恐怖と激痛で歪んでいた。

「助け、助けてください! ぼ、僕、この街にくるのは初めてで、あなたが《偽竜》だなんて知らなくて、その、命だけは命だけは!」

「今度は、ちゃんと狙いますね」

 両手でしっかりと銃把を握り、リジェッタは穏やかに微笑んだ。

「それでは、ご機嫌よう」


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