第67話 それぞれの別れ

 ベルが明人に近づいた。

 いつもやるように足を叩くのかと明人は思ったが、ベルは右手を高く挙げた。


「明人、右手を挙げろ。こうだ」


「え、こう?」


 理由がわからないままに、ともかく明人は言われたとおり右手を高く挙げた。

 とたん、ベルが高く飛び上がった。

 肉球が手を叩いた。音が弱いが、ハイタッチだ。


「よくやった!」


 さらに着地後、やっぱり足も叩いた。


「手のひらをまだ見ていないだろう。見てみろ」


 ベルにそう言われて、明人は手のひらをひっくり返した。

 ずっとへばりついていた、あの不気味な数字が、なかった。


「消えてる」


「呪いが解けたのだ。もちろん再び呪われることもない。三界は二度と人々を捕らえないのだからな。……感謝するぞ、明人。私はこれまで三界を破壊するため何度となく挑んできたが、そのたびに果たせずじまいであった。だがついに事を成せた。我らはやり遂げたのだ」


「……うん。やったね」


 せっかく言祝ことほがれたのに、気の利いたことが言えなかった。

 頭が追いつかないのか、はしゃぐというより静かに胸が熱くなった。


 隣で千星が自分の右手を見た。

 感じ入ったように己の右手を抱いて、何も言わずにうつむいた。

 きっと彼女も数字が消えていたのだろう。


「千星も幸十も、よくがんばってくれた」


「……はい」


「なに、やりたいようにやっただけですよ」


 ベルのねぎらいに、千星と幸十がそれぞれ応えた。

 ベルはうなずき返し、最後にサラを見上げた。


「光の神の預言者よ。自分が呪われたわけでもないのに、よくぞここまで務めてくれた。わかっていようが、立場上お前は私を信仰すべきでない。だが、この先、お前が私を二度と思いださずとも、私は今回のことを決して忘れないだろう」


「恐れいります」


 サラがうやうやしくベルに頭を下げた。

 そこには礼儀正しさと同時に、一線を引く姿勢が感じられた。ベルにも敬意を払ってはいるが、彼女の神はあくまで光の神なのだろう。


「ウソ。呪われてなかったの、コーエンさん」


 千星が目を丸くしてサラに聞いた。

 口には出さなかったが、驚いたのは明人も同じだ。

 必要に迫られたわけでもないのに、三界の死闘に身を投じていたとは。


「うん、呪われてなかったよ。だって私、ホフニと同じ部族の子孫やもん。三界の呪いって、要は大昔の神職同士が上位世界で繰り広げた部族戦争の残りかすやからね。呪う相手は、相手の部族の子孫に限られていたんだよたぁたんやわ


 しれっとサラは答えた。


「マジか。パネェなサラ。よくこんな依頼受けたな」


 幸十がなかば呆れたように言った。

 明人も同感であった。

 おおかた光の神の手引きで三界に入ったのだろうが、入った後の彼女はまちがいなく命賭けであった。三界を破壊するために遣わされた預言者であることを、もしホフニに気づかれたら、ただちに殺されたに違いないのだ。


「い、いやあ……。危ないとは最初から聞いていたたぁたんやけど、まさかここまでとは思てなかったんよ。安請け合いしたら大変なエラい目におうたわ……。いったん事情を知ったあとでは、やっぱり降ります、ともよう言わんし……」


 謙遜けんそんではないのか、サラは肩を落とした。なんだか顔がげっそりしているようにも見えた。

 慎重派のようで、実はかなり無鉄砲なところもあるらしい。


 と、


「皆様」


 アルバが改まって明人たちのほうに向き直った。

 筋骨隆々きんこつりゅうだった巨人の体が見る間に縮み、骨と皮ばかりの枯れきった老人の姿になった。白い長衣がその身を覆った。きっと祭司の衣装なのであろう。汚れ、すり切れてはいたが、かつての荘重さが想像できた。


 ただ、その姿は、明人が最初に地下牢で見たときよりもさらに弱々しく見えた。

 その手が透けはじめていた。


「祭司アルバ……体が」


「ええ。そろそろ私もおいとまさせて頂く頃合いのようです」


 と静かにアルバは言った。

 明人は胸が締め付けられる思いであった。

 ホフニたちを食い止めるために、いったいどれだけ無理をさせてしまったのか。


「すみません。俺たちのためにそこまでしていただいて」


 だがアルバは両手を横に振った。


「いえ、いえ。これはそういうことではありません。皆様が因縁いんねんに終止符を打って下さったおかげで、私もようやく終わりを迎えられるのですよ」


「あ……そういうことですか」


 くすりとアルバは笑った。そして、


「我が神、そして皆さま。本当にありがとうございました」


 深々と、ゆっくり頭を下げた。

 初めて会ったときのような暗さはもうなかった。

 その表情は穏やかで、その所作も丁寧であった。

 この三千年前の祭司は、きっと在りし日において、このように振る舞っていたのだろう。


「アキト様」


「はい」


「あなたを見込んでよかった。思った通り、あなたは私と違いました。真の預言者でした」


「祭司アルバ……。いえ、あなただって。誰がなんと言おうと、あなたは立派な祭司様でした」


 アキトがそう言うと、アルバの微笑が消えた。

 悲しげな顔で俯いて、首を横に振った。


「そうおっしゃって下さるお気持ちはありがたく存じます。ですが、やはりこの私がそう呼ばれる資格はございませんよ」


「アルバよ、それは違うぞ」


 それまで黙って聞いていたベルが、力強く言った。


「顔を上げて、胸を張れ。明人の言うとおりだ。お前も立派な祭司だった」


 アルバはシワだらけの顔を黙って明人とベルに向けた。

 その暗い眼窩は、後悔や悔恨がたやすく溶けるものだろうかと、問いかけているように思えた。


「それは……しかし」


 なにかを言いかけて、だがアルバは口を引き結んだ。やがて、


「いえ。そうですな。このにおよんで意地は張りますまい。我が神とアキト様がそうおっしゃるなら、きっとそうなのでしょう」


 老いた顔をほころばせ、おだやかに笑った。


「ありがとうございます。最後の最後で、私は祭司に戻れたようです」


 そう言って、いにしえの祭司は、もう一度深々と頭を下げた。

 その姿が薄れていく。

 そして、消えた。

 後にはなにも残さなかった。


「…………」


 三千年もの長き時を悔い続けた祭司は、悔いを残すことなく最期を迎えられたのだと、明人は信じた。


 彼の死が最後のきっかけであったのか。

 ぐらりと世界が大きく揺れた。


「すべて終わったな。なごり惜しいが、我らもそろそろお別れだ」


 とベルが言った。

 アナも隣でうなずいた。


「え。一緒に帰らないの?」


 明人が問うと、


「私たちの役目は終わりました」


 とアナがベルに代わって言い切った。今度はベルがうなずいた。


「いつまでも神がそばにいるのは良くない。どうしても頼り切ってしまうだろう? しまいには、なんでも神にお伺いを立てるようになってしまいかねん。それではいかんのだ」


 ベルは明人の目をまっすぐに見つめ、穏やかに言った。


「自分の人生は、自分で生きろ。お前にならそれができる」


「……うん」


 前から言われていたことだ。

 だから、残念であっても、明人は素直にうなずいた。

 ベルが満足げにほほえんだ。


 隣で千星がアナを抱きしめた。


「寂しくなるね」


「またきっと会えます。それが明日となるか、十年後となるかはわかりませんが」


「うん。そうだよね」


 そう言って千星はアナと離れ……ふと眉をひそめた。


「待って、アナちゃん。それってさ。戦女神が出陣するほどの大事件がまた起きて、しかも私も巻きこまれるって言ってない?」


 にっとアナが笑った。


「言っています。三界を破壊した者たちのうちの一人である千星ちゃんが、この先ただ平穏無事なだけの人生を送るとは、とても思えませんしね」


「う、うーん……」


 女神のお墨付きをもらった千星が、悩ましげな顔をした。

 喜んで良いのか悪いのか、当人にも判じかねたらしい。


「大変だなぁ」


「ほんまになー」


 幸十とサラが他人事ひとごとのように笑っていた。

 だが二人も事情は似たようなものであろう。幸十だって『三界を破壊した者たちのうちの一人』なのだし、サラにいたってはその上に光の神の預言者である。


 と、小石がぱらぱら明人の足下に転がってきた。

 明人が振り返ると、まだ残っていた石の階段にひびが入り、崩れていこうとしていた。


「そろそろらしい。明人よ、元気でな」


「うん」


「――」


 すっと目の前が暗くなった。

 最後にベルの口が動いたのが見えたが、何を言おうとしたのか聞くことはできなかった。



◇ ◇ ◇



 明人が目を開けると、見覚えのない白い天井と、薄い暖色のカーテンが視界に入った。

 消毒剤のきつい匂いも感じられた。

 ベルの姿はもうどこにもない。


「……? どこだここ」


 起き上がって、気がついた。

 体がなんだか痛い。筋肉が固まっている感じがした。


 かたわらに看護師らしきナース服の若い女性と、明人の母がいた。

 二人とも目を丸くしていた。


「明人! 目が覚めたの!?」


「母さん。なに、ここってまさか病院? どうしたの、いったい」


「どうしたのじゃないでしょ!」


 涙声が明人を叱った。


「いや、なに急に! 怒られても意味わかんないよ!?」


「どんなに起こしても起きないし、検査してもどこも悪くないって言われるし! もうね、どうなっちゃうのかと……!」


 あふれだした感情を抑えかねたか、明人の母がとうとう泣きだした。


(あ。そっか、そういうことか)


 何が起きたのか、ようやく察することができた。

 壁に掛けられた時計を見ると、案の定というべきか、昼をとうにすぎていた。

 なにしろずっと虚栄界に囚われっぱなしであったのだ。目が覚めるのがこんな時間にもなる。


 病院送りにされた原因も、つまるところ同じだろう。

 明人が朝になっても起きてこず、起こそうとしても目を覚まさなかったため、両親が病院に担ぎこんだのだ。

 この時間、母はまだ仕事のはずだが、休んできたのだと思われた。

 この分だと千星や幸十、サラも似たようなことになっているに違いない。


(おおげさな……でもないか)


 と思い直した。

 ここ数日の出来事を振り返ってみれば、むしろまだ死んでいないのが不思議なくらいだ。

 もしなるようになっていれば、明人は目を覚ますことなく、このベッドの上で息を引き取っていたに違いない。


 看護師が報告のためにか外に出て行った。

 ひたすら泣きじゃくる母を脇目に、あらためて明人は右手のひらを見た。

 そこにずっと張り付いていた不気味な数字は、まるで最初からそんなものがなかったかのように、あとかたもなく消えていた。

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