第54話 蠅の悪魔
うながされ、やむなく明人たちは薄暗い小部屋の中に入った。
狭い殺風景な部屋の中、息詰まる思いを抱える明人に、最後に入ってきたホフニが言った。
「まずは褒めてやろう。お前たちがここまでたどり着くことはないと思っていた。生贄の横取りしか頭にないエルロアザルはともかく、兇人セネメレクまで出し抜けるはずがない、と。今まで何度となく、この処刑用の小世界に憎き異教徒どもを誘いこんできたが、この
千星がハッとしてホフニの顔を見た。まず驚きが、そして隠しきれない怒りが、その美貌に浮かんだ。
ベル、アナもホフニをにらみつけた。
当然だろう。
この大神官は今、自分こそがこの世界を創り、人々を殺し続けた張本人――すなわち三界の創造主だと言ってのけたのだ。
……それ以外にも、おかしなところがあったように思えたが。
だが皆の敵視を意にも介さず、この大神官はベルの預言者である明人に言った。
「異教の預言者、それもたかが見習いの小僧っ子であっても、そこは認めてやらねばなるまい。お前はずいぶん強力な悪魔を見つけだした」
認めると言いながら実際は貶めている。
わざとか知らずにか、ベルが極めて嫌う呼び名を使いつつ、だ。
はたして、ベルがホフニにくってかかった。
「私は悪魔ではない、神だ。悪魔とは人を誘惑する者、依存させる者だ。私はそうならぬよう人を善導し、自立を促すよう務めてきた。その私がどうして悪魔か」
「おや、お前が当の悪魔だったか。すると囚人どもの手のひらに数字をだして警告を図ったのもお前だな。無駄なことをしたものだ。何者か知らぬが、どうせ金くずや木くずを拝ませていたクチであろう」
「……?」
ホフニがおかしなことを言った。
ベルも怪訝な顔である。彼は人々の手のひらに数字を出してなどいない。なぜこのような数字が出たのか、ベル自身が知りたがっていたくらいなのだ。
だがそれに気づいていないのか、ホフニはとうとうと続けた。
「どうしてと言ったな。よかろう、聞け。神とは唯一無二の存在。この大神官たる
「……」
あぜんとした。
あきれるほど傲慢かつ一方的なな主張だ。
しかも神と己の区別がついていない。自分を指してしゅ(主)と呼ぶ者は初めて見た。
だが、
(なるほどね)
得心してもいた。
町や神殿にところどころおかしなところがあった理由はこれだったのだ。
大神官のはずなのに神という自称。
偶像礼拝を蔑視しているのに建てられている大神官の像。
蠅の男の一味のはずなのに蠅の悪魔を退治したと主張するレリーフ。
いずれもこの大神官をむりやり讃えている点が共通している。
讃えるためにおかしな点を無視したのだ。
だが矛盾が放置された理由を、『この大神官が矛盾に気づかないほど知性が低いから』と見なすのは、おそらくちがうだろう。
この世界の成り立ちを朗々と語れる者の知性がどうして低いだろうか。
おそらく本当は矛盾に気づいている。その上で、その気づきを全て心の闇が消しさっているのだ。
(……化け物だ)
明人は全身に鳥肌が立つのを押さえられなかった。
異常な心の動きを見せる人間なら何度か見たことがある。
だがここまで捻くれた者ははじめてだ。
会話はできているように見える。
理性も保っているように見える。
だがどこまで見たままに評価して良いものか。
一見正気を保っているように見えるこの大神官の、精神の海の底には、きっと恐ろしく狂った老妖が息を潜めている。
「むなしいことかもしれないが、それでも言わねばなるまい。神は神を名乗るから神なのではない。神官がそう主張するから神なのでもない。神として振る舞い続けるから神なのだ。お前の言うような基準で、神かどうかは決まらない」
真剣な顔でベルが諭した。
だがホフニは
「
そのやりとりは、やはり会話になっていなかった。
ベルがなにを言ったのか把握しているかどうかも怪しいものだ。
「勝手なことを」
ベルは険しい顔で吐き捨てるように言った。だがそれ以上はなにも言わなかった。
話しても無駄と判断したのだろう。
ホフニに従わないから悪魔とは無茶苦茶だ。それではどんな善人や善神であろうとも悪魔とされかねない。この神殿で祀られる神――ベルによれば光の神のはずらしい――でさえもだ。
「よいようだな。では本来の用件にうつるとしよう」
ホフニが勝ち誇って言った。
道義的に優れたところは何一つ感じなかったが、一応ベルを黙らせたのはたしかである。
「神とは
ぞわりとホフニの顔が崩れた。
皮が、肉が、骨が、人ではあり得ないかたちに
「悪魔と異教の預言者どもよ。お前たちは死ななければならない。滅びなければならない。その名が永遠に呪われていなければならない……!」
本性を隠す理性の仮面が、ついに外れた。
皮という皮、肉という肉、骨という骨が、見る間に
「ひっ……」
千星がくぐもった悲鳴を漏らした。
明人も必死に声を押し殺した。
濁りかけた二つの目玉が、無数の蠅の群のなかに浮いていた。
耳障りな羽音を立てながら蠢く、真っ黒な蠅の数は、千匹や二千匹どころではない。
そこにいたのは、人の形をとる蠅の群れ。
大神官の聖なる衣をまとう、悍ましい蠅の悪魔が、その正体を顕現させていた。
やはりホフニと子分二人は蠅の悪魔と敵対してなどいなかった。
だが蠅の悪魔を従えているわけでもなかった。
彼らこそが蠅の悪魔そのものなのだ。
「死せよ、滅びよ、呪われてあれ……!」
地の底から届くような恐ろしい声が、部屋全体を震わせた。
無数の蠅が――無数の悪意が、呪詛とともに明人たちを飲み込まんと広がり始めた。
「うぬっ!」
ベルが歯ぎしりした。
いつもの鉾を出すときの仕草をしたが、鉾がでていない。
弱体化が効いてしまっているのだ。
アナも千星に憑依しようとして手をばたつかせているが、うまく行っていなかった。
(まずい!)
町で蠅に覆われて死んだ、あのふとっちょの死に様が、明人の脳裏をよぎった。
そのとき。
「
若い女の軽やかな声が響いた。
「!!」
散開しかけていた蠅が、一瞬で戻った。
蠅の悪魔が消え、白髭をたくわえた威厳ある老爺が現れた。
「サラか。
威厳ある声で、ホフニが外に問いかけた。
その態度には取り繕ったと感じることさえない。先ほどまでの異常な姿がまるでウソだったかのようだ。
相手は、神殿で働いているという下女だろう。
「失礼いたします」
そう言ってサラと呼ばれた下女が部屋に入ってきた。
「……!?」
危うく明人は叫ぶところだった。
なんと知った顔だ。
幸十のクラスメート、サラ・コーエンである。
すねまで隠れた粗布の長服という、この世界の基準からすれば地味な服装である。値札もない。いかにも下女らしい雰囲気だ。だが、まちがいなく世田高の同期生、サラ・コーエンであった。
しかも、後ろからもう一人続いた――なんと幸十だ。
こちらもサラと似たような格好をしている。ただ値札がついているので、すこしはこの世界の服として価値があるのだろう。
『声を出すなよ!』と言わんばかりに、幸十は立てた人差し指を何度も必死に口に当てていた。ホフニに見られないよう、サラの後ろに隠れながら。
「こちらの者が……あれ? あ、おった。こちらの者が、
とサラはなにくわぬ顔でホフニに言った。
「お前は何故そのていどのことで
ホフニははらだたしげにそう言ったが、しかし、本性はあらわさなかった。
正体を見せることはためらわれたのだろう。明人たちと違い、サラや幸十は、彼にとって騙すべき相手である。
「ですが私では判断がつきかねましたので……」
しかつめらしくサラが答えた。
もっともらしいが建前であろう。ただの偶然であのタイミングで割りこめるだろうか。
幸十といっしょにいることからしても、おそらく明人たちを助けに入ってくれたはずだ。ホフニの正体も実は知っているだろう。
それはつまり、わかった上でとんでもなく危ない橋を渡ってくれている、ということでもある。だが彼女の落ち着き払った態度は、それをまったく感じさせなかった。
「やむをえない。そこの者、要件を聞かせよ」
とホフニが恐懼してみせている幸十に言った。
「はい。実はあした祭儀をお願いしようと生贄のヤギを買い入れたのですが、中にはふさわしくない個体もあると聞きまして。事前に一度ご確認頂けないかと……ええ」
いささか棒読み調ではあったが、幸十はそれでも流ちょうに説明してのけた。なかなかの役者ぶりである。
ただ、もみ手をしているのはやりすぎかもしれない。
「ほう? 全焼のいけにえかね」
「はい、そうです」
「ふむ……」
ホフニは身を縮こめている幸十を見下ろした後、ちらりと明人たちを見、すこし考えていたが、やがて
「よかろう。そのようなことは本来大神官の仕事ではないが、ふさわしい者が今は動けない。
と言った。
「ありがとうございます。
一体どこで覚えたのか、幸十は珍しい言い回しを使ってみせた。
かなり棒読みで、明人が大丈夫なのかと危惧するほどであったが、
「うむ」
ホフニはことのほか満足した様子で幸十にうなずいた。
幸十がぎこちなくホフニに背をむけ、部屋の外に出ていった。
ホフニがまた明人を見た。
だが何も言わず、幸十に続いて背をむけた。
代わりに蠅が一匹、明人の耳元に近づいた。
小声が聞こえた。
「今は見逃す。後でまた会おう」
その低いしゃがれ声は、まさしくホフニの声であった。
「ずいぶん余裕ですね?」
「子羊が柵の中のどこをうろつこうと、羊飼いは気にせぬものだ。どこにでも行くがいい。どこであっても
そう言うと、蠅は明人から離れた。
ホフニの後を追って飛んでいき、その後頭部に止まり、沈みこむようにして消えた。
ホフニが部屋から出ていく。
サラもしずしずと従った。
が、部屋から出る直前、明人に無言で目配せをした。
そして何も持たない右手を横に伸ばした。壁に手を隠すようにして。
(なんだ?)
と思ったら、サラの手の中にメモ用紙がふっと現れた。
さりげなく壁にメモ用紙を貼り付けると、彼女はやはり無言でしずしずと外に出ていった。
「ベル。コーエンさん、今メモ用紙を創ったよね?」
そうとしか思えない。彼女の手の中には最初なにもなかったのだ。
「うむ。彼女も神秘の心得があるようだな。何と書いてある?」
「待って、見てみる」
入り口に近づいて、明人は張られたメモを剥がして見てみた。
千星もどれどれと言った感じで横からのぞき込んできた。
メモにはこうあった。
『すぐ町の門の外まで出て。ユキトも送る』
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