第23話 手のひらの数字
にぎやかな都内の町も、奥に入れば雰囲気がうらぶれる。
田園都市線の池尻大橋駅を降りて少し歩くと、道はせまい生活道路ばかりとなった。くすんだ家々がよくめだった。
かすれた看板が放置されていた。字がところどころ消えている。用をなさなくなった看板を直さないのは、きっと昔これを掲げた会社が今はもうないからなのだろう。
時刻は午前10時すぎ。真冬の朝風が冷たかった。どんよりとした曇り空だからなおさらだろう。
花粉症の季節でもあるせいか、ゆきかう人の多くが
「えーと」
右手に持ったスマートフォンのマップ表示と、目の前の交差点の光景を、明人は何度もつきあわせた。
「大丈夫そうか?」
と隣のベルが問うた。
今日は朝から同道している。
「大丈夫、大丈夫。この道で合ってるよ。……たぶん」
画面から目を離さずに答えた。
何度も確認したが、やはり風景とマップアプリとの矛盾はない。
慣れない道が不安を抱かせるだけだろう。
「ならいいが」
再び歩き始め、二人で交差点を渡った。
しばし無言で歩いた。
朝にニュースを見てみたが、あの【キキプロの鬼婆】こと、キキコープロダクション社長・鬼島貴子の訃報は見つからなかった。
とはいえ、これは当然だ。死亡したその日のうちに訃報が出たりはしない。むしろ公表はまだまだ先になるだろう。
「どうした、明人。浮かない顔だな」
「ゆうべ戦った鬼婆のことで、ちょっとね。三界は上位世界にあると言っても、現実と区別がつかなければ、それはもう現実と一緒でしょ。あいつは俺の目の前で死んだわけだし、なんか、色々考えちゃうんだよね」
「ふむ」
ベルは曇り空を見上げた。なにか考えている風だ。
「あれは仕方なかった。今思い直しても、ほかに手立てがあったとは思えん。ああしなければお前が殺されていただろう」
「俺もそうだと思う。けど、それと感情的な話は別ってこと。ベルは平気なの?」
「感慨がないとは言わんよ」
ベルは沈んだ顔で息を吐いた。
「神は人を善導する存在でなくてはならない。いや、善導するからこそ神なのだ。だから人を殺してしまうのは望ましくない。どのような者であっても、どのような事情があっても、だ。やってしまったな、と思う」
「……」
明人が期待していた以上に厳しい答えが返った。
善導すると口にするのはたやすい。だがそれを実践し続けるとなるとどうだろうか。
「しかしな、明人」
「なに?」
「それでも後悔はないぞ。この先、似たような選択を何度せまられたとしても、私はお前を助けることを必ず選ぶだろう」
「……ありがと」
明人はすこし気恥ずかしくなった。そんなことを真顔で言われるとは思っていなかった。もちろん言われたのも初めてだ。
だが心強くもあった。
「やばいなあ。俺、宗教とか苦手なんだけど、なんか信じちゃいそう」
「私は信じてくれていいぞ?」
「うん、ベルは信じてるよ」
「お、おお。そうか。お前けっこうストレートに来るな」
今度はベルが頭をかく番だった。
スマートフォンのマップアプリが、もうすぐ目当ての曲がり角だと告げていた。
「あ、待って。ここを曲がったところにあるはず……あった」
明人はスマートフォンの表示を切ってポケットに入れた。
目当ての酒店が、少し先にあった。
古ぼけた二階建ての建物だ。1階部分が店舗で、2階が住居。西側のベランダには物干し竿が設置されている。
マルバシ酒店。
貪食界で老死した、あの四十男の店である。
会話にでてきたあの店は本当に存在するのか。
存在するなら、あの店主がまだ生きて店番をしていないか。
それを明人はどうしてもたしかめたくて、こうしてやってきたのだ。
「あれか」
「たぶんね。場所はあってる」
店のほうへと歩きながら、ベルと小声で話した。
近づいていくと、色あせた緑の
名前が同じというだけの別の店、という可能性はないだろう。『池尻大橋 マルバシ酒店』で検索にヒットした酒屋はここだけだ。それに検索した際、昔から営業している酒屋だと口コミの評価欄に紹介されてもいた。あの店主が語ったとおりだ。
客が店の歴史を紹介するのもおかしな話だが、もしかするとあの店主が昔自分で書いたのかもしれない。そういえば、評価として満点の星5がつけられてもいた。
「明人よ、開いていないようだぞ」
「本当だね。今日は休みじゃないはずだけど……」
明人は不吉な予感がして足を止めた。
店の電気が消えたままだ。
それにパトカーが店の入り口前に停車している。
そばで若い警官が寒そうに肩をすぼめていた。
「…………」
明人は胃が締めつけられる感覚をおぼえた。
だがずっと立ち尽くしているわけにもいかない。
意を決して、店の前の若い警官に近づき、たずねてみた。
「すいません。なにかあったんですか? お店、開いてないみたいですけど」
「あー、ごめんね。悪いけど答えるわけにいかないかな。あ、それとも君、ここの人?」
「いえ。ここの店長さんとは、別の場所でちょっと話したことがあるくらいです。パトカーが止まっていたから、どうしたのかなと思って」
明人がそう言うと、警官は一瞬ふっと目を伏せた。
「そっか。それなら教えてあげたいところだけど、そうもいかないんだよ。ごめんな」
すぐに明人のほうに向きなおって、そう言った。
その同情を感じさせる顔が、凶事が起きたことを言外に語っていた。
「いえ。こちらこそお邪魔してすみませんでした」
「どういたしまして」
明人は軽く一礼して背を向けた。少し歩いてから、ベルに小声で話しかけた。
「なにかあったのは、まちがいなさそうだね」
「気になるなら私が見てこようか?」
「……そうだね。お願いしていい?」
「任せろ」
そう答えてすぐ、ベルは姿を消した。
行ったらしい。
神であるベルは
普通の人間に見えないだけではない。この物質界でなら瞬間移動ができるのだ。魂は千里を走るというが、神もまた同じらしい。民家の中に侵入するていどはお手の物というわけだ。
ちなみに明人にはなんでもありに思える三界のほうが、ベルにとっては制限だらけなのだそうで、『あちらは不便で仕方ない』らしい。
(さて。ここで立ち止まっているのも怪しいな。おまわりさんも近くにいるわけだし、歩いているべきか? どれくらいかかるんだろう)
と思ったら、すぐまたベルが姿を見せた。
「確認するが、無事をたしかめたかったのは、酒に溺れて不健康そうな四十前後の男か?」
「うん、そんな感じ。中にいた?」
明人が問うと、ベルは首を横に振った。
「いたが、駄目だった。二階で冷たくなっていたよ」
「……そう」
おそらくそうなのではないかと明人も思ってはいた。
だがそれでも、深い、深い落胆があった。
もしも。
もしも、店主が今も生きていてくれたなら。
あの夢で万一のことがあっても、自分だって死なずに済むのだと、信じられたのだ。
「気の毒だったな」
ベルがなぐさめるように言った。
明人が死者を悼んでいると思ったようだ。
「ううん。冷たいようだけど、そんなに親しかったわけでもないんだ」
そう答えて首を振った。
とつぜんだれかの怒鳴り声が聞こえてきた。
なにごとかと振り返ると、若い警官が店の入り口を開け、あわてて中に入ろうとしていた。
「いいから早く救急車を戻らせて! おまわりさんじゃあの子を運べないでしょ!」
老女の金切り声がした。
声はマルバシ酒店の奥から聞こえているようだ。内容まではっきり聞き取れたのは、入口が開いたためだろう。
「ですからね、お母さん。聞いてくださいよ」
いらだった感じの大声が、また店の奥から聞こえた。今度は年配の男の声だ。先に中に入っていたらしい。
明人は聞き耳を立てたが、すぐにドアが閉められた。
「…………!」
言い争っているらしき声がなおも続いたが、もう内容を聞き取れなかった。
ただ、押し問答を繰り返しているのであろうことは察しがついた。
おそらく事切れた店主を救急車で病院に運ぶよう、老母が訴えているのだろう。まだ手遅れではないはずと信じて。
(自宅で死んだからか。……今朝、ネットで調べた通りだ)
そう察した。明人にとっても他人事ではないだけに、すこし調べたのだ。
もし自宅で家人の異常を見つけ、119番通報をしたとしても、その死亡が明らかな場合、救急車は遺体を病院に運んだりせずそのまま帰投するのだという。かわりに警察が調べに来るそうだ。殺人事件でないか確認するためらしい。
今、目の前で起きているのは、まさにその実例なのだろう。
「明人、もう行こう。気をめいらせると体に毒だ」
ひどい顔をしていたらしく、ベルに気づかわれた。
「そう、だね」
明人は店に背をむけ、歩きだした。
離れゆくあいだにも、ガラス扉ごしに漏れ聞こえるヒステリックな声が、何度も耳に届いた。
交差点に着くころ、声がようやく届かなくなった。
明人たちの他に人はなかった。この寒い中、わざわざ外に出たがる人も少ないのだろう。
明人は今日何度目になるのかわからないため息をついた。
死んだ店主は老いた母と一緒に暮らしていたそうだ。聞こえていた痛ましい叫びは、すべてその老母のものなのだろう。
死は自分だけの問題ではない。そのことを痛感しないわけにいかなかった。
「ねえ、ベル。5日目の朝に俺の家もああなるのかな」
明人は一人っ子である。明人が死んだら、もう古宮家に親を慰められる子どもはいないのだ。
5日目の朝、自室のベッドで冷たくなっている自分を見つけたら、母はどうするだろうか。
「ばかを言うな。そうならないために、がんばっているのではないか。お前も、もちろん私もだ」
「……うん。ありがとう」
ぽん、とベルが明人のももを励ますように叩いた。
うらぶれた家々をかきわけるようにして、薄暗い小道を二人で歩く。
重い色の雲がたれこめた東京の冬空は、寒々として
手のひらの数字は、【4】。
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