第2話 姫君とサムライ

(邪魔な!)


 暴走した食欲がそのまま怒りに変わった。

 文句を言ってやろう、と明人は話しかけてきた声の主を見て――しかし、目を丸くした。


 つまらない怒気ごとき、たちまちに消え去った。

 空腹もふっ飛んだ。

 まるで憑きものがとれたかのようだった。


 胸をときめかせる美貌が、遠慮がちに明人の顔をのぞきこんでいた。


 吸いこまれそうな瞳、うっとりしそうな甘い唇。

 抜けるような白い肌、かなでるように流れるロングヘア。

 しなやかなプロポーションを清潔感のある制服でつつみ、柔らかそうなスクールカーディガンをはおる、モデルのようなその美少女を、明人は知っていた。


早池峰はやちねさん」


 目をぱちくりさせた。

 早池峰千星はやちね ちほ

 明人の通う私立世田谷高等学院の女子生徒にして、男子生徒たちの憧れ、女子に夢を見たい男子たちの理想、いや男の夢そのものである。もちろん明人にとってもそうだ。

 その彼女がどうしたわけかすぐ近くにいる。

 しかも向こうから自分に話しかけ、さらに同席まで求めている。


「こんばんは。お食事中におじゃましちゃってごめんね、古宮ふるみやくん」


 と千星ちほは微笑を浮かべた。

 古宮とは明人の名字だ。フルネームだと古宮明人ふるみや あきととなる。


 アイドルでも遠くおよばない、そのあでやかな笑顔に魅せられて、明人の心臓はバクバク鳴った。


(夢じゃないか)


 とつぜん降って湧いた幸運にそう思った。

 いや実際夢なのだろうが、それでもだ。

 実は、明人が千星とこうしてまともに話せたのは初めてだ。

 明人は今年、男子生徒なら誰もがうらやむ幸運により、彼女と同じクラスに入りこめた。だが、できたことといえば、せいぜいそのおもむきある姿に見とれて幸せな気分にひたれた程度だ。


 といっても、これは明人一人が意気地なしなのではない。同じクラスの男どもも事情は似たようなものだ。端的に美人すぎてみな気後れするのである。

 高嶺たかねの花は、手が届かないから高嶺の花という。


「いや。いいんだ。気にしないで。こんばんは。隣なら空いてるよ。どうぞ」


 平静をたもてるよう頑張りつつ、しかしなんだか片言で、明人は自分のとなりの席を案内した。


「ありがとう」


 クラスメートの緊張に気づいてか気づかずにか、千星は安心したように笑って、屈託なく明人のすぐ隣に座った。

 ふわりと漂ういい匂いが明人の鼻腔をくすぐった。

 その温かい体温まで感じられる気がした。


(夢みたいだ! いや、夢なんだっけか?)


 ゆだりかけた頭で、明人は自分にツッコミを入れた。

 いよいよ胸が高鳴った。呼吸が乱れそうだ。体もなんだか熱い。いつの間にか肩が上がっていることに気がついて、こっそり下げた。


(いかん。落ち着け俺)


 内心で己にかつを入れ、


「珍しいところで会うね」


 そう話しかけた。

 活を入れた甲斐あってか、声は裏返らなかった。


 皿とハシも置いた。まだ食べたい誘惑にかられるが、彼女の前なので我慢した。下手に食べだすと、みっともなくがっつきそうだ。

 夢でもなんでも、そんなことで彼女とお近づきになる絶好の機会を逃すわけにいかない。武士は食わねど高楊枝である。もうだいぶ食った後であってもだ。


「うん。知っている人がいてくれてよかった。ここ、知らない人ばかりでさ」


 千星は困った風に笑い、顔にかかった髪の毛をそっと後ろになおした。その何気ないしぐさでさえも、彼女がやると絵になった。


「あー……。そうだよね」


 明人はあらためて周囲を見回した。

 客は大人ばかりである。しかも大半は飯と一緒に酒をかっくらっている。酔いどれ軍団だ。


(やらかす酔っ払いもいそうだな)


 と思ったそばから、なにやらスケベそうな声がした。


 見ると、脂ぎった赤ら顔の中年男が、店員らしき女性の手をむりやり握ろうとしていた。

 その足下には、年齢に似合わないぬいぐるみが二体置いてあった。大きさは柴犬サイズ。だがモチーフはネコだろう。一つはトラネコのような縞柄しまがらで、もう一つはピンク色だ。二つの足で直立し、中東あたりで使われていそうな白い服を着せられていた。

 たまたま手を伸ばすポーズをとっているのが、まるでセクハラ男の狼藉ろうぜきを止めようとしているかのようで、なんとも気の毒な感じであった。


 だが当然ながら、ぬいぐるみの制止の甲斐があるはずもない。酔っ払いは握った手を振りほどかれ、そのひょうしに椅子から地面に転がり落ちた。


「きっつ」


 明人は苦笑したが、千星は眉をひそめた。


「ここ、あんな人が多いんだよ。私もさっきしつこく絡まれてさ……」


「大変だったね」


「ホントだよー」


 千星は悩ましげな顔でため息をついた。すでに似たようなちょっかいを誰かにかけられていたわけだ。


(けど、そうだよな)


 と明人は思った。

 なにしろこれだけの美人だ。男なら誰だってそばに侍らせて酌をさせたいと願うだろう。きっと絡んだ酔っ払いも一人や二人ではなかったにちがいない。


 今、そんな連中から千星を守れるのは自分だけだ。

 そう思うとすこし楽しくなってきた。


(さしづめ、今の俺は、早池峰さん姫君酔っ払いモンスターたちから守るサムライってわけだ。いいじゃないか)


 千星の横顔を見ながらそんなことを考えた。

 すぐそばにいるためだろうか。学校のトップアイドルはいつにもまして美しかった。夜の灯りに照らされたその端正な顔立ちには、教室で見るのとはまた違う魅力があった。姫君としての格は十分だ。

 むしろふらついた酔っ払いたちと普通の男子高校生のほうこそ、モンスターとサムライとしては役不足かもしれない。


「ところで、ねえ古宮くん。ここ、どこかわかる?」


「普通に考えれば夢だね」


「そうだよね。なんて、夢にでてきた人に言われるのも変な話だけど」


 どこかかみ合わない会話になった。

 互いに顔を見合わせた。


「俺、本物だよ?」


「私もだよ?」


 明人は首を傾げた。千星もそうした。期せずしてシンクロした。

 なんだか間の抜けた空気が漂った。

 お互いに見つめあったが、お世辞にもロマンティックな雰囲気とは言えなかった。


 千星が急にその細い人差し指をぴっ、と立てた。


「17かける13は?」


「221」


「わ。すごい、早い。じゃあ本当に、本物?」


「ユニークな確かめ方だね」


 だがたしかに可能だ。

 明人のクラスの男子は、19×19までの掛け算なら一瞬で答えを出せる。一時期なぜかインド式九九が男子のあいだで流行はやったためだ。一説にはある数学教師の謀略であったという。

 ちなみに女子はできない。単純な男どもと違って、こちらは謀略にひっかからなかったらしい。


「あ、でも待って。検算するから」


 と千星はテーブルに指で計算式を書きはじめた。

 その最中、彼女の手の平に【6】と描かれているのがちらりと見えた。やはり彼女にもあるらしい。もちろんワッペンも【6】だ。


 やがて計算が終わったらしく、


「あってる」


 千星は細い腕を組んで、むー、と可愛くうなった。

 明人はこっそり安堵した。まちがっていたら立つ瀬がなかったところだ。


「夢にしては変に生々しいと思っていたけど……。まさかこれ、現実?」


 どうにも信じられないのか、ちょんちょん、と千星が疑わしげに指先でテーブルをつついた。納得いかないとばかりに首を傾げ、今度は上を見上げた。

 その視線の先では、提灯群ちょうちんぐんが、吊すためのロープもないのにふわふわと空中に浮いている。


「どうかな」


 千星の困惑する気持ちは明人にもよくわかった。

 とにかくおかしな世界だ。

 夢にしては現実感がありすぎる。さきほどまで食べていたご馳走の美味さが夢だとは、とても思えない。

 だが現実にしては奇妙だ。食えば食うほど腹が減るような飯があるだろうか。


「そう言えば、早池峰さんはここの食事は食べた?」


 と明人は聞いてみた。自分と同じように、千星も食べることでさらに空腹をおぼえたかを確かめたかったのだ。

 が、


「ううん、ぜんぜん。夜中には食べないんだ。太っちゃうし」


 と返ってきた。そのプロポーションは努力のたまものであったらしい。


「あと、ほら。ここ、店員っぽい人がいるじゃない?」


 千星は声を落として、ひそひそと明人に話しはじめた。


「あの人たちの目が不気味なんだよ。なんだか巣で待ちかまえている蜘蛛クモみたい。ああいう目をする人が出す食事は、できれば口にしたくないかな」


「なるほどね」


 いいカンをしていると感心した。

 明人自身は、店員の目が不気味だと気づいたわけではない。

 だが、蜘蛛クモの例えはぴったりだ。一度でも口にしたが最後、食べるのを自制できなくなる点は、獲物を捕らえて放さない蜘蛛クモの巣とよく似ている。


「でも、どうして? ここの料理になにかあるの?」


「まあね。ここの料理は食べれば食べるほど腹が減るんだ。そしてやめられなくなる。さっきまでの俺がそうだった。早池峰さんに声をかけてもらえたから止められたけど、そうでなければ今も食べ続けてたと思う」


「なにそれ。……あ、でも、言われてみれば、私も食べ終わった人を見た覚えがないかも」


 千星がふたたび周囲を見まわしはじめた。今度は先ほどより警戒した風に見えた。


 明人もそれにならった。

 酔客たちは、今もひたすら食べ、飲みまくっている。

 その様子は見ていて怖くなるほどだ。口の中に寿司をつめこみ、呑みこみきる前から霜降りステーキにかぶりつく。ようやくビールで流しこんだと思ったら、今度はスモークサーモン数切れを一度にハシでつかんで、まるごと一口だ。わき目もふらない。はねた汁やこぼれたソースで服が汚れるのもおかまいなしだ。


 きっと食べることしかもう頭にないのだろう。なにしろここの食事は食べれば食べるほど腹が減る。ずっと口にし続けていたら、空腹で正気を失ってしまうのも無理はない。


(もしかして、早池峰さんに話しかけられなかったら、俺も今ごろああなっていたのか?)


 そう気づいて、明人はゾッとした。

 さきほど店員に絡んでいた酔っ払いは、あれでもまだまともなほうだったのかもしれない。

 気になって明人はあの酔っ払いの姿を探したが、席を移ったのか、それとも大門の裏に引きずられていったのか、すでにぬいぐるみともども姿を消していた。


「……イケナイ食べ物なんじゃない? これ」


 千星が嫌悪感をあらわにして目の前の料理を見下ろした。不気味なごちそうから逃げるかのように、体が後ろにのけぞっていた。


「だねえ」


 明人も同意した。

 実のところ、また腹が減ってきていた。いいから飯に手をつけろと胃袋が訴えていた。

 だがこの場合、その感覚こそが異変の証だ。明人はもう10人前は食べている。それなのにまだ腹が減っているわけがない。


 ふと見ると、テーブルの向こうのやや離れた場所を、先ほどのスーツ女が歩いていた。左手に唐揚げが乗った大皿を持っているから、おそらく給仕中なのだろう。

 だがおかしなことに、右手に持った大きなオタマが振るわれるたび、東坡肉トンポーローが、霜降りステーキが、握り寿司が、空の器に補充されていった。唐揚げの皿から角煮やステーキや寿司を補充できているのだ。

 どこまでも奇妙な世界であった。


「ねえ、古宮くん。ここ、出よう? ここに長くいると良くない気がする」


 千星が訴えるように明人の袖をひいた。その手は恐怖に耐えるようにぎゅっと握りしめられていた。


「だね。出口を探そうか」


 明人もうなづいてすぐに答えた。

 まったく同感だ。このような場所からはさっさと出口をみつけて退散するに限る。


 それにこの様子だと、断れば千星は自分だけで出口を探しに行ってしまうだろう。彼女にこの奇妙な地を一人でさまよわせるわけにはいかない。今の自分はこの麗しい姫君を守るサムライなのだ。


「よかった」


 千星がほっとしたように笑った。


「古宮くんって決断が早いね。そういう人、好きだよ」


「ありがと」


 明人はクールを気取って短く答えた。が、


(好き!? そうか、早池峰さんは決断早い男が好みなのか! え、実はマジで俺に気があったり? いやまさか、いやいやしかし)


 心の中ではしゃべりまくっていた。

 実のところ、わかっている。千星のセリフに隠された意図はないだろう。恋愛的な意味もないだろう。それはわかっている。


 わかっているが、それでも好きという単語には破壊力があるのだ。まして相手は早池峰千星なのだ。彼女の唇から好きと言ってもらえた男が、この世にいったい何人いるというのか。


 いったん落ち着いてきていた胸が、なんだかまた熱くなってきた。

 なので、すこし格好つけて椅子から立ちあがってみたりした。


 が、そのせいでスネを椅子にぶつけた。鋭い痛みとともに、がたんと大きな音がした。


いってえ……!)


 なんとか声は我慢したが、格好のつかないことであった。


 千星は明人を一瞥いちべつしたが、なにも言わなかった。こちらは静かに品良く立ちあがった。

 明人の粗相に彼女が言及しなかったのは、きっと見栄を張りたかった明人サムライの意をんで、武士の情けをかけてくれたためなのであろう。

 かたじけないことであった。


 バツの悪い思いと痛むスネをかかえつつ、明人は千星と一緒にテーブルを後にした。


 大勢の人と大量の飯のあいだをうようにして、二人で歩き始めた。

 この奇妙な世界から脱出するための、出口を探して。

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